高島庄(読み)たかしまのしよう

日本歴史地名大系 「高島庄」の解説

高島庄
たかしまのしよう

現高島町・安曇川あどかわ町・新旭しんあさひ町付近に比定される庄園。領家は西園寺家、のち庶流の菊亭家。地頭は佐々木朽木氏。本・新両庄からなり、本庄のうちに案主あんず名がある。寛治四年(一〇九〇)三月二四日の鴨御祖大神宮申状案(賀茂社諸国神戸記)に「近江国高島庄南郡安曇河」とみえる。「賀茂社古代庄園御厨」によれば、同三年に神税の不足を補うため、当庄五〇町などが京都鴨御祖かもみおや(下鴨社)に認められたという。弘安七年(一二八四)一二月二三日、高島郡内本・新庄の郷々地頭職などの所職・散在名田が佐々木朽木氏に安堵されている(永和三年一二月二一日「足利義満袖判裁許状」朽木文書)。元亨二年(一三二二)西園寺実兼は当庄を子息今出川兼季に譲っている。当庄の年貢は五万疋(五〇〇貫文)で、現在知行している東御方の死後に譲るとされた(「西園寺実兼処分状」雨森善四郎所蔵文書)。正中二年(一三二五)一一月二五日、承鎮法親王は文殊楼領の当庄などを尊雲(後醍醐天皇の子護良親王)に譲っている(「承鎮法親王付属状」三千院文書)

南北朝期と思われる賀茂御祖社社領目録(賀茂神社文書)に高島庄とみえる。康正二年(一四五六)一二月二九日、一色千福丸は高島新庄を安堵され(「足利義政安堵状」勧修寺文書)、文正元年(一四六六)徳田庵より五〇貫文を借りた(文明一〇年六月六日「政所賦銘引付」)。文明二年(一四七〇)高島郡本・新庄の領家菊亭教季は代官の庄主都主を解任して直務とし、船木ふなき(現安曇川町)の問丸彦六兵衛に年貢運上のための代米一〇石を渡したところ、徳田庵が先の庄主に貸しがあるとしてこの米を押取ったため、同五年一一月二九日訴えている。同九年四月一七日、教季は借金を返済したにもかかわらず、永代売として担保にした高島新庄のうち名田四段を押領しようとした円林(智奕)を訴えている(以上「政所賦銘引付」)。同一二年以前の一〇月二日には慈雲院領である高島本・新両庄に領家の代官が直務のため在庄しており(「室町幕府奉行人連署奉書」狩野文書)、同一三年一〇月一六日、違乱が退けられ再び入部している(「室町幕府奉行人連署奉書」古文書纂)。延徳元年(一四八九)一〇月二二日、「高島北野田」を良光に申付け、定使給半分二斗五升の朝夕分辛労分が下され、同二年一二月二五日、高島新庄のうち坂井三郎左衛門が購入した土地に段銭が賦課されている(北野社家日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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