高来西郷
たかくさいごう
中世にみえる郷名。高来郡内のうち伊佐早庄を除いた地域、したがってほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられる。史料上は郷内に三郎丸名・永吉名、伊福村・大河村(現瑞穂町)がみえる。承久三年(一二二一)八月三〇日の関東裁許下知状(保阪潤治氏所蔵文書)に「高来西郷」とみえる。これによれば、当郷は平家没官領であり、武蔵国比企郡野本村(現埼玉県東松山市)を本貫地とする野本時員が地頭職を得てからは本所の京都仁和寺に年貢を送進してきたが、承久三年武蔵国稲毛本庄(現神奈川県川崎市高津区など)との交換によって西郷が慈円の所領となったため不輸の地となり、その年貢は東郷地頭の野本行員が肩代りして納めることになったという。天福二年(一二三四)には「高来西郷三郎丸名内伊福永
検注収納使職」に藤原通清が補任されている(同年七月某日「肥前国司庁宣」大川文書、以下断りのない限り同文書)。弘安九年(一二八六)「高木西郷」領家職および惣地頭職が弘安の役での勲功賞として肥前国守護の北条時定に与えられている(同年閏一二月二八日「蒙古合戦并岩門合戦動功地配分注文案」比志島文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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