日本大百科全書(ニッポニカ) 「高松地裁差別裁判事件」の意味・わかりやすい解説
高松地裁差別裁判事件
たかまつちさいさべつさいばんじけん
高松地方裁判所の差別裁判に対する全国水平社の全国的な糾弾闘争。高松地裁は1933年(昭和8)6月、いわゆる被差別部落の出身であることを相手に告げずに結婚したことが誘拐にあたるという検事の論告を認めて、2人の被告に有罪の判決を下した。1871年(明治4)の太政官(だじょうかん)布告(「賤民(せんみん)解放令」)で廃止されたはずの旧賤民身分の存在と部落差別を、裁判所がふたたび容認したのである。全国水平社は1933年7月、これを差別裁判と規定し、差別判決の取消し、犠牲者である被告の釈放、司法関係者の免職などの要求を掲げた糾弾闘争を、部落の日常要求と結び付けて全国的に展開した。これは権力機構に対する闘争であると同時に、部落の劣悪な生活実態を改善する闘争でもあった。10月には福岡から東京に至る請願デモを行い、司法大臣と検事総長に差別判決の取消しを迫った。当局も9月、司法次官の名で「国民融和の実」をあげるため「差別」の誤解を受けないよう注意せよとの通達を出し、11月と12月に両被告をそれぞれ仮出獄させた。また11月に地裁所長を退職、12月には検事を転任させる「処分」を行い、事件はいちおう決着した。この差別裁判糾弾闘争において、身分闘争と階級闘争を結合させた部落委員会活動の方針の正しさが証明され、全国水平社は組織の拡大強化と運動の発展を飛躍的に進めることができた。
[川村善二郎]
『部落問題研究所編・刊『近代日本と部落問題』(1972)』