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部落問題 ぶらくもんだい

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部落問題【ぶらくもんだい】

同和問題

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

部落問題
ぶらくもんだい

部落問題の本質


 部落問題の部落とは、近世の封建的身分の最下位にあった賤民(せんみん)のなかで、主として、もっとも主要な部分を占めていた穢多(えた)を直接の先祖とする人々のうち、明治維新の改革で封建的身分制が廃止されたのちも、身分的差別の残滓(ざんし)をおもな要因として不当に人権を侵害されている人々が集中的に居住している地域のことである。第二次世界大戦後、これを未解放部落または被差別部落といい、単に部落とよぶことも多い。行政による戦後の同和事業が実施されてからは、同和問題・同和地区という呼称もよく使われるようになった。なお、同和問題の呼称は1941年(昭和16)に始まる。
 先に「主として」としたのは、穢多と異なり、定着性の弱かったもう一つの主要な近世賤民、非人(ひにん)の集団の場合、近代になってほとんど解体してしまったが、残存した所もあり、また、穢多・非人以外にも近世賤民があって、旧身分の残滓を要因に不平等な扱いをされていた人々が各地になお存在しているからである。
 部落問題は、在日韓国・朝鮮人に対する差別問題と異なり、民族問題ではない。在日韓国・朝鮮人は、日本に居住しているが朝鮮民族(韓民族)であり、日本民族に対する他民族として尊重されるとともに、日本に帰化した人々を除けば、外国公民として尊重されなければならない。アイヌ問題は人種と民族の二つの側面をもっている。アイヌは、近代に入って、日本政府の同化政策により、民族的独自性をほとんど崩壊させられ、同時に、人種的には混血が進み、純血アイヌは極度に減少した。今日、アイヌ系住民の人権尊重には、基本的には、日本国民として尊重されること、日本国内の少数民族的存在として尊重されることの二側面がある。これに対して、未解放部落民に必要なのは日本国民として尊重されなければならないということだけである。差別の問題は、不当な人権侵害の一部ではあるが、その属性(本質)によってどうなることが、解決された状態なのかが異なる。したがって解決のための方途も違うから、属性の差異を明確にすることはきわめて重要である。
 部落問題は、人種や民族の問題ではなく、封建的身分に歴史的起因をもつ問題であり、身分そのものでなく、旧身分の残滓を主要因とする社会的不平等の問題であり、未解放部落民が、近代以降、日本国民としての基本的人権を侵害されてきたという問題である。したがって、部落問題の解決とは、基本的には、日本の自由と民主主義を発展させ、そのなかで主として旧身分の残滓を解消させていくことである。[成澤榮壽]
近世の賤民
中世社会では、個々には解放・向上、没落・変転が少なからずあって、貧人(被差別民)はかなり流動的であった。中世前期に生み出された貧人たちは非人として集団化していき、さまざまな清目(きよめ)(穢(けが)れの除去)の職能に携わっていたが、後期になって、その職能の分化が進み、呪術(じゅじゅつ)や芸能に携わる者などのほかに、行刑や斃牛馬(へいぎゅうば)(死んだ牛馬)処理、さらには皮なめしに従事する人々が出現した。このような状況下で、中世末から近世初頭(戦国時代から江戸初期)、皮なめしなどに従事していた人々が戦国大名や近世大名と奉公関係を結んだ。彼らは多くの地方で皮多(かわた)と呼称されていた。皮多と大名との奉公関係は、百姓や町人の奉公関係と共通しており、皮多は小さな村(共同体)をつくっていたが、中世以来強められていた触穢(しょくえ)観念のため、近世初頭、皮多が特段の蔑視(べっし)の対象とされ、彼らは斃牛馬処理や行刑役などを強制された。しかし、17世紀初めごろの各地の検地帳のたぐいをみると、皮多は農民のなかに混ざって記載されており、農業にも従事していたことがわかる。たとえば、1605年(慶長10)の信州上田藩のある村の「毛付帳(けづけちょう)」には、皮多の名は、桶(おけ)、笠(かさ)、浪人、市子(いちこ)などのように、肩書をつけた多数の農民の一部として出てくる。この事実から、封建的身分制が確立する以前においては、皮多に対する差別は後世より相対的に厳しいものではなかったといえる。
 皮多への差別は17世紀なかばごろ強化された。たとえば、1663年(寛文3)の上田藩の「御改帳(おんあらためちょう)」で、武士、商人・職人、百姓が各町、各村ごとに詳細に記載されているのとは別に、皮多が末尾に一括別記されていることからわかる。同じころ、商品経済の発達によって、幕藩体制の矛盾が表面化し、階層分化の激化により主として農民からの多数の没落民が出現した。彼らは災害や凶作のたびに飢餓に陥り、さらに零落して乞食(こじき)になる者も少なくなかった。彼らが近世の非人である。加賀藩では、1670年非人小屋を設置、乞食を収容して草履(ぞうり)製造などをやらせ、物乞(ご)いに出ることを禁じた。江戸では、1675年(延宝3)本格的に非人小屋をつくって乞食を収容、彼らの勧進(定期的に戸ごとに金品をもらう)の縄張りを決めた。1605年の『徳川成憲百箇条(せいけんひゃっかじょう)』に穢多は「四民之外(のほか)」とあるように、穢多の呼称は早くから用いられていたが、岡山藩では1667年から皮多が公的には穢多となり、上田藩では1706年(宝永3)成立の「村明細帳(むらめいさいちょう)」によれば、25か村中、藩庁の指示通りにしなかったと考えられる2か村で皮多の呼称が残っているほかは、すべて穢多にかわっている。[成澤榮壽]
差別の強化
17世紀なかばから18世紀初め、多くの地方では、皮多は厳しい蔑称である穢多とよばれるようになった。幕府領では、1720年(享保5)穢多の年貢を「不浄」であるとして金納にし、1723年非人の見分けがつくように結髪を禁じるなど、差別が一段と強められた。このような穢多を中核とする近世賤民身分制の確立・強化は、乞食(非人)の本格的な出現が一つの契機になっていると考えられるが、結果的には幕府・諸藩が農民をはじめとする人民を分裂支配する役割を果たしたといえる。
 近世賤民の様態は地方により差異がある。行刑役や捕手(とりて)の下役人足(罪人を捕らえる役人)は、多くの地方では穢多が従事させられたが、江戸では行刑役は穢多頭弾左衛門(だんざえもん)の支配のもとで、主として非人小屋に収容されていた非人がやらされた。加賀藩の皮多や弘前(ひろさき)藩の革屋は行刑役や捕手人足をやらず、加賀藩では藤内(とうない)、弘前藩では乞食と称する藩内の賤民身分の中核的存在であった人たちが従事させられた。関東や信州などでは、皮多(穢多)が一般に長吏(ちょうり)(町離)とよばれていたのも捕手人足や行刑役などの下役人足に従事していたことと関係があろう。
 時代が下るにつれ、民衆の抵抗の一環として、穢多が百姓一揆(いっき)に参加し、差別強化策に反対するなどの闘争を行うようになった。1856年(安政3)岡山藩が倹約令の一環として皮多(穢多)に渋染め・藍(あい)染めの無地以外の着物を用いてはならないと布令したのに対し、彼らが抗議して立ち上がり、約1500人が統制のとれた強訴(ごうそ)を行い、事実上これを撤回させた渋染一揆は、その代表的な例である。[成澤榮壽]

部落解放運動の歴史


賤民解放令の布告
明治維新の改革の一環として、1871年(明治4)8月、「穢多非人(えたひにん)等之称廃サレ候条(じょう)、自今(じこん)(今より)身分職業共平民同様タルヘキ事」という「賤民(せんみん)解放令」が布告された。これにより、それまでの賤民は法的には平民となり、自由民権運動が発展するおりから、彼らのなかから「解放令」を根拠とする平等を要求する動きが現れた。
 大審院判決も祭礼行事への平等な参加など、旧賤民身分の人々(部落民)の要求を支持する判決を出した。子どもを公教育に就学させようとする部落民の要求は多くの地域で別学で認められた。学校教育では1900年(明治33)前後まではほとんどが部落民だけの学校で学ばされたが、要求の弱い小部落などでは不就学のまま放置された場合が多かったから、部落学校は差別された学校には違いないが、運動の成果であったともいえる。しかし、普通学校への通学が認められるようになると、路上や学校で厳しい迫害や差別待遇を受け、貧困と相まって、中途退学、長期欠席が多数に上った。
 明治政府は民権運動を弾圧し、大日本帝国憲法(明治憲法)施行の1890年(明治23)前後、絶対主義的天皇制を確立した。政府は民権運動のリーダーを含む豪農・名望家層との妥協を図り、彼らの地域支配を認め、小作人の人格を軽視した半封建的な寄生地主制を温存させた。また家父長的「家」制度を確立し、女性差別を制度的に存続させた。これらは絶対主義的天皇制の有力な支柱となった。こうした反動化は封建的身分に起因する社会的差別の撤廃をすこぶる困難にした。部落民だけが平等を獲得するなど、ありえなかったのである。大審院判決も部落民の平等の実現を願う要求を退けることが多くなった。したがって、近現代の社会問題としての部落問題の成立は明治中期だといえる。[成澤榮壽]
改善運動と融和運動
このような差別の残存に対して部落解放運動が勃興(ぼっこう)する。自由民権運動は部落解放運動の源流である。部落のインテリ青年層のなかには、自由・平等を高く掲げたこの運動に参加し、あるいはその影響を受けることによって、旧身分の桎梏(しっこく)から自らを解放しようとする者も現れた。また1887年前後に、風俗矯正・勤倹貯蓄を中心とする自主的な部落改善運動が勃興した。改善運動が発展した明治末期、日露戦争後の快楽主義の風潮の広がりや社会主義思想の台頭、地方財政の窮迫に対応しようとした第二次桂(かつら)太郎内閣(1908~1911)の手で、地方改良運動と称する社会再編政策の一環として、部落改善政策が着手された。それは「賤民解放令」を明治天皇の「聖旨」ととらえ、天皇制国家発展を目的として官民合同で部落改善を図る社会政策で、こうした考え方は融和主義とよばれる。米騒動の後、政府は1920年(大正9)、原敬(たかし)内閣が初めて部落改善予算を計上、環境改善や啓発を中心とする融和政策を開始した。また、大正デモクラシーの風潮のなかで、1921年創立の同愛会をはじめ、かなり自主性をもった融和団体が設立され、部落民の自覚向上、とくにいわゆる一般民の反省を強調する運動が展開された。[成澤榮壽]
水平運動
やがて、労働者階級の成長を背景に、社会主義思想の影響を受け、部落改善政策や融和政策を批判する立場で、部落民自身の自覚的運動によって水平・平等な社会を実現しようと、1922年3月、全国水平社が創立された。水平運動は、基本的には、部落差別撤廃という民主主義的な要求をもとに結集し、自由・平等、人間として生きる権利の確立を目ざして闘った民主主義運動である。発足当初、水平運動は、徹底的糾弾を戦術としたが、初期からみられた部落外の農民・労働者との提携・協力がしだいに発展し、彼らに対する排他主義的な闘争は多くの地方で克服されていった。また全国水平社は、軍隊に対する差別糾弾闘争を反軍国主義と国民の人権確立の闘いに発展させた。一方、政府は融和政策を強めて、官製融和団体の設立と既存の融和団体の官製化を図った。戦時体制が強化されるなかで全国水平社も1937年(昭和12)日中戦争を支持するに至り、1940年以降は運動を続行できなくなり、1942年に消滅した。[成澤榮壽]
第二次世界大戦後の解放運動
第二次世界大戦後の部落解放運動は、1946年(昭和21)部落解放全国委員会(全国委)の結成に始まる。全国委は各地で生活擁護闘争を行い、運動の大衆的発展のなかで、1955年部落解放同盟と改称した。解放同盟は勤務評定反対闘争、安保闘争、三井三池争議支援闘争などを通じて勤労国民との共同闘争を積極的に展開し、民主統一戦線の一翼を担った。このような解放同盟の動きに対して、部落の保守的な有力者層を中心に、1960年全日本同和会が結成された。こうした部落解放運動団体や地方自治体などの強い要請に押された政府は翌年、同和対策審議会を設置した。同対審は1965年、部落問題の解決は国の責務であると答申、1969年、10年の時限立法で同和対策事業特別措置法が制定された。同法は3年間延長されたが、1982年、さらに5年を期間とする地域改善対策特別措置法(地対法)が制定された。
 その間、解放同盟内部で運動路線をめぐる内部対立が激化し、「糾弾」路線に反対して除名された人々などによって、1970年部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連)が結成された。正常化連は1976年、全国部落解放運動連合会(全解連)に改組され、全解連は2004年に全国地域人権運動総連合(全国人権連)に改組された。現在、全国的な部落解放運動団体は、既述の3組織のほかに、全日本同和会から分離した全国自由同和会(1986結成)がある。
 地対法の期限が切れた1987年3月、引き続き実施することがとくに必要な事業に限定した5年を時限とする「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(地対財特法)が制定された。また同月、政府は部落問題についての社会啓発に関する指導文書「地域改善対策啓発推進指針」を策定した。地対財特法は1992年(平成4)、さらに5年の時限で改正・延長されたが、1997年3月、特別措置の同和対策は15事業の残務処理的施策を5年間存置したものの、国政レベルでは基本的には終結をみた。しかし、少なからざる地方自治体は従来の事業・施策を同和対策として継続・実施している。これに対しては、部落問題の属性に起因しているとはいえないわずかな格差を、そうであるかのように誤認しているとの批判があり、国政レベルと矛盾するとの指摘もある。
 しかし一方、地対財特法の期限切れと入れ替わりに、1996年12月、人権擁護施策推進法が5年の時限立法で制定され、翌年5月、政府は同法に基づき人権擁護推進審議会を発足させた。同審議会は、1999年7月、人権尊重の教育・啓発に関する施策を総合的に推進する基本的事項について政府に答申した。この答申には多くの批判や疑問が出された。2002年3月、人権擁護施策推進法は失効し、審議会は解散した。しかし、同年3月に人権擁護法案が新たに第一次小泉純一郎内閣で閣議決定され、翌年10月に廃案になったものの、2005年1月から部落解放同盟などの働きかけで再提案の動きが強まった。同法案に対しては、人権侵害の定義があいまいで恣意(しい)的な解釈が可能であり、言論・表現の自由を抑圧しかねないとの批判がある。[成澤榮壽]

未解放部落の現状と課題


 第二次世界大戦後、日本国憲法が制定され、不十分な点が少なくないとしても、民主的な諸改革が行われ、国民の権利が大幅に拡大され、民主主義思想が国民のなかにかなり浸透をみた。また、1950年代なかばから始まった高度経済成長は部落住民の世間一般の企業への就労を促進し、生活を相対的に向上させるとともに、彼らを近代的な人間関係に組み込んだ。同時に高度成長は地域の社会構造を変化させ、地縁的・血縁的共同体を解体させていき、そのことが部落住民の近代的変化と相まって、部落と部落外の障壁を除去していった。それがまた、部落と一般地区住民との混住や部落の解体を促進させるとともに、混住や解体が障壁除去に作用した。その結果、同和事業の進展と相まって未解放部落の差別的実態は著しく改善された。差別意識や偏見の残存を助長しかねない動きもあるが、部落問題の場合、差別は戦前とは比較にならないほど急ピッチで解消に向かって大きく前進した。
 1993年に総務庁(現総務省)が実施した『同和地区実態把握等調査』(1995年3月刊行)などによると、未解放部落の住宅・居住環境や生活実態にみられた低位性はほとんどの分野でほぼ解消されている。
 たとえば、1世帯当りの住宅平均敷地面積は全国平均と部落との間に格差はみられず、また、1世帯当りの平均畳数や世帯1人当りのそれにも格差はない。さらに、部落の住宅がとくに老朽化が顕著であるともいえない。かつて病人が多いといわれた部落の通院・入院している有病者比率をみても、部落の健康破壊が著しいという実態はみられなくなった。
 15歳以上の就業率や失業率についてみても、格差があるとはいえず、かつて失業者のプールといわれた部落の実態は大きく変化した。また、部落は全国平均より生産的職業従事者の割合が少し多く、事務的職業従事者の割合がやや少ないが、専門・技術的職業および管理的職業従事者の割合には格差はみられない。
 1963年の中学校卒業生の高校進学率は全国平均の66.8%に対して部落は30.0%で半分以下であった。それが1975年には数ポイントまで格差が縮小したが、1995年の調査では4.5ポイントの格差であり、20年間ほとんど縮まっていない。総務庁調査は指摘していないが、同調査資料を分析すると、中学校の生徒中、部落出身の生徒の方は少数であることが一般的であるから、部落出身生徒の進学率が学校全体の平均進学率より高い場合が多い。全国平均と部落との若干の格差は、一部の部落のきわだった高校進学率の低さに起因している。つまり進学を困難にするような生活をしている階層が、この20年間、なお残っていたのである。その後は部落の実態の大きな変化により、実態調査が不可能となり、格差の変化は不明であるが、奨学金の給付や貸与では解決できないという同和事業の限界があったことは確かである。このことは高校進学だけでなく、さまざまな分野でいえることである。
 総務庁調査などが明らかにしているように、一部地域の一部部落を除き、部落の生活・住宅環境や就業状況、高校進学率など生活実態の部落外との格差は大きく是正された。社会的交流も進み、部落と部落外との結婚も若年層では4組中3組という割合にまで前進した。部落外居住の部落出身者と部落以外の者との結婚はさらに多いと考えられる。高齢者を含め部落民の9割が被差別体験なしという段階になっている。これらは国民・地域住民間の差別意識が払拭(ふっしょく)されてきている事実の反映であり、この傾向は21世紀になってさらに前進していることは間違いない。
 このような事実を踏まえて、国の同和事業は原則的に終了したのである。しかし、国民、外国籍の人々を含む地域住民の人権を擁護する立場から、一般行政水準の向上が要求される。
 それぞれの「差別の属性」を重視することが必要だと前述したが、差別の問題は、女性問題、障害者問題、アイヌ問題、在日韓国・朝鮮人問題、外国人労働者問題、所属・思想などによる職場の差別を含め、さらに広範な人権侵害の救済に向けて、人間がより人間として生き、発達していくための共通課題として統一的に把握して取り組むこともまた、重要である。[成澤榮壽]
『小林茂他編『部落史用語事典』(1985・柏書房) ▽門脇二・脇田靖子・脇田修著『部落の歴史と解放運動 前近代篇』(1985・部落問題研究所) ▽部落解放研究所編『部落問題事典』(1986・解放出版社) ▽成澤榮壽著『人権と歴史と教育と』(1995・花伝社) ▽杉之原寿一著『部落の現状は いま――総務庁・全国同和地区調査結果――』(1995・部落問題研究所) ▽成澤榮壽著『部落の歴史と解放運動 近代篇』(1997・部落問題研究所) ▽馬原鉄男著『部落の歴史と解放運動 現代篇』(1997・部落問題研究所) ▽吉田伸之著『身分的周縁と社会=文化構造』(2003・部落問題研究所) ▽鈴木良著『水平社創立の研究』(2005・部落問題研究所) ▽塚田孝著『近世大坂の非人と身分的周縁』(2007・部落問題研究所) ▽塚田孝著『近世身分社会の捉え方――山川出版社高校日本史を通して』(2010・部落問題研究所)』

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世界大百科事典内の部落問題の言及

【被差別部落】より

…しかし,これらの呼称はまだ必ずしも全国的に普及しきっているとはいいがたく,ことに,被差別部落に対する差別の撤廃のための啓発活動が行政,教育などの面で積極的に推進されていない地方では,伝統的に受け継がれてきた独特の差別呼称が,こんにちもなお日常生活の陰陽両面で用いられているのが実情である。また,集落,村落,在所などと同義の語として〈部落〉の語を適用している地方が多いので,場合によっては誤解をまねきやすいが,被差別部落を略して〈部落〉とも称し,被差別部落に対する差別を〈部落差別〉,被差別部落にかかわる社会問題を〈部落問題〉,部落差別からの完全な解放をめざす社会運動を〈部落解放運動〉という。
【被差別部落の成立】
 被差別部落の沿革が,個々の被差別部落にそくして明らかになることは,部落差別の根源を客観的に照らしだし,差別の不当性をいっそう明確にしていくためにも望ましいが,なにぶんにも,ほとんどの被差別部落については伝来の文献史料が過少で,とくにその成立事情については口碑のほかに頼るべきものがない場合が圧倒的に多い。…

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