ヨーロッパにおける賤民の系譜は,古代世界を別にすれば,初期中世の〈人間狼(人狼)Werwolf〉までさかのぼることができる。人間狼とは,氏族団体(ジッペ)の平和を乱す夜間の殺人,放火などを犯した人間が,氏族団体から追放されるとき(平和喪失)に呼ばれた名称である。平和喪失を宣告された者は死者とみなされ,その妻は未亡人,子は孤児とされる。氏族団体から追われた者は人間世界のなかに住むことを禁じられ,森のなかに入ってゆくが,彼らすべてが森のなかでのたれ死したわけではない。狼の皮を身にまとい,似たような運命の者が集団をなして暮らしていたとみられる。後の伝承によると,十二夜Zwölftenのころに狼の皮をまとった人々の群れが夜中に村を訪れるという。村人は戸口に塩や食糧を用意して戸をかたく閉じて彼らが通過するのをまつ。中・近世の〈荒野の狩人wilde Jagd〉の伝説は,死の神オーディンに率いられた死者の軍勢とされているが,彼らも人間狼の後裔とみられる。
氏族団体構成員は,本来自分たちだけを〈人間〉とみなし,氏族団体の外部の者を人間とはみなさなかった。氏族団体から追放された者をも死者として扱ったのである。こうして死を媒介にして〈人間〉から差別される存在が生まれたのである。
中世においては,賤民とは,名誉をもたない者,法をもたない者とされているが,それは氏族団体ないしは共同体から排除された者,他の共同体から承認されるみずからの共同体を構成しえない者を意味している。法をもつということは自分の名誉を氏族団体ないしは共同体によって保証されることを意味しており,具体的には不法行為を受けた場合に,氏族団体ないしは共同体が後ろ盾となって彼の名誉を守ってくれる地位をもっていることをいう。しかしこの場合,狭義の共同体にのみとらわれてはならない。人間が生活してゆくうえで自然ととり結ぶさまざまな関係を内包した世界を視野に入れなければならないのである。狭義の人間の生活共同体と同時に,死,彼岸,死者への儀礼,性,豊穣祈願,動物,大地,火,水などの人間自身を規定すると同時に人間の外にもある自然のエレメント(要素)を含めた世界を考えねばならないからである。
これらのエレメントはいずれも人間にとって相反する二重の相貌をおびている。人間の共同体にとって不可欠なものであると同時に,危険なものでもありうる。この危うい関係のうえで,その二重の相貌の境に位置する人間が存在する。例えば刑吏は人間社会の秩序を維持するうえで不可欠な存在であるが,これは生と死の狭間に生きる存在として,共同体の外の死の世界と接触をもっている限りで怖れの対象となり,賤視される存在となる。墓掘り人,浴場主(外科医を兼ねる),夜の世界に生きる夜警などはみな,死,彼岸,死者に対する儀礼とかかわる点で怖れと賤視の対象となる存在であった。
亜麻布織工(アマ),粉挽き,娼婦などはいずれも狭義の共同体から排除された存在として中世において賤視の対象であったが,これらの人々も成長,豊穣,性(エロス)などとかかわる存在であった。機織りも粉挽きも出生,成長と結びつく呪術的な仕事であり,娼婦は性という人間の内部にありながら人間を超えるものと結びついている点で,これらの人々も人間生活の二重の相貌の境界に生きる人々であった。このほか皮剝ぎ(皮),羊飼い,犬皮鞣工,家畜を去勢する者なども同時に共同体構成員ではない存在として賤視されていたが,彼らも動物とかかわる点で,人間の共同体を超えた世界と接していたのである。
煙突掃除人,乞食,遍歴楽師,陶工,煉瓦工なども共同体構成員になれない存在であり,特に遍歴芸人のような放浪者は定住民の共同体成員からは怖れられ,賤視される存在であったが,彼らも,土,火,水などとかかわる点で共同体にとって不可欠なものでありながら,他面で危険なエレメントと深くかかわる存在として怖れと賤視の対象とされたのである。
狭義の共同体Mikrokosmosとその外に広がる世界Makrokosmosとの狭間に生きる以上の人々の仕事は共同体が成立する以前においてはまだ職業として確立していたわけではなかった。それらは12~13世紀以前においては畏怖の的ではあっても賤視の対象になってはいなかった。ヨーロッパにおいては12~13世紀以降に村落共同体と都市共同体が成立するが,それ以前の氏族団体においては家が人的結合の基本的な単位をなしていた。この段階においてはミクロコスモスとしての家とマクロコスモスとしての世界が対峙していたのであって,司祭や呪術師,国王ですら前述の仕事にたずさわった人々と同じく二つの世界の狭間に生きていたのであった。しかるに12~13世紀以降共同体が成立するとともに人間がみずからなんとか制御しうるミクロコスモスの領域が拡大され,キリスト教信仰の普及とあいまって,かつての多元的な世界像に代わって一元的な世界像が成立していった。時間と空間も徐々に一元化される傾向が生まれ,生と死を包みこむ創世神話から最後の審判にいたる直線的で一元的な世界把握が支配的となっていった。このような世界把握を担ったのが聖職者であり,その力によって権力を掌握したのが世俗君主であった。こうしてミクロコスモスとしての共同体を基盤にしながら,二つのコスモスの存在を否定し,世界を一つの理論で一元的にとらえようとする試みが生まれたとき,かつて二つの世界の狭間にあった人々はその特異な位置を失い,新しい一元的な価値のヒエラルヒーから脱落して賤視される存在に転化していったのである。
このほかにユダヤ人やウェンド人,ジプシーなどをあげることもできるが,これらは狭義の共同体外の存在として位置づけることができる。
ヨーロッパにおいて共同体が解体され,ミクロコスモスとマクロコスモスの二元的世界が一元化され,個々人が国家に直接掌握され,賤民であっても兵役につかねばならなくなったとき,賤民身分が消滅してゆく。それと同時に啓蒙思想と近代科学思想の普及によって人間のなかにありながら,自然と呼応するエレメントが単一のものとされ,均質化されたものとしてとらえられるようになり,人間と自然との危うい関係の境界線上に生きていた賤民は消えてゆく。しかしこれらのエレメントの均質化は仮構のものであり,性と死のようにいまだ境界線上にあって均質化されないエレメントにみられるように,賤民の問題は近代社会においても消滅したわけではない。
執筆者:阿部 謹也
中国においては,古くから血統あるいは職業などによって区別される身分制度が存在した。具体的な例をあげていえば,良民と賤民,士人と庶人,士農工商の四民などである。良民には士人と庶人が属し,自由民であるが,士人は上級自由民,庶人は農工商の民で,下級の自由民であった。これに対し,賤民は不自由民で,私的・公的な権利や利益の享有に制限が加えられていた。〈賤民〉という用語についてはいくつかの理解がありうるが,以下においては,奴婢(ぬひ)や奴隷を含めて,最も広義に解釈することにしたい。
中国における奴婢(奴隷と同義)の起源ははなはだ古く,甲骨文にもみえているが,その発生の状況を明らかにすることはできない。先秦時代には臣・妾と称せられたが,漢代以後,奴・婢という言葉に置きかえられ,唐代にいたった。原則として,男の奴隷を奴,女の奴隷を婢といった。ところが,南北朝から唐代にかけて新しい賤民=不自由民が現れてきた。部曲(ぶきよく)である。奴婢はいわゆる奴隷であるが,部曲は奴隷と良民の中間にあり,農奴serfに近い存在であった。すなわち,奴婢は本来家内奴隷として発生し,生産労働にはほとんど従事しなかったが,前漢末から後漢時代にかけて大土地所有が発達すると,その耕作者として,荘園主の保護下におかれる隷民が生まれ,客あるいは部曲と呼ばれるようになったのである。客とは外来者,または一時寄留者の意であり,部曲はもと軍隊用語で,部隊の意であるが,後漢末ころから,荘園の客の一群を指すのに用いられるようになった。そして,三国から唐代にかけて,大土地所有制が盛行するとともに,部曲の数は増加した。部曲は家族をもつことを前提とし,財産を所有したが,主家の戸籍に隷属して登録される不自由民であった。彼らはまた公職につくことこそできなかったが,売買の対象とされることはなく,その大部分は農業労働者であった。
これに対し,奴婢は,後漢の初め,法律によって身体の保護を規定されてからは,もはや単なる財産ではなくなったが,なお売買の対象でありつづけた。奴婢はもともと家内奴隷であったが,政府によっても所有され,官奴婢と称した。その地位は私奴婢とほぼ同じであったが,別に部曲と同様のものもあり,官戸と呼ばれた。ところが,唐代中期から大土地所有制の内容が変化しはじめ,これに対応して部曲身分の解放が行われると,部曲の数は減少し,上級賤民としての部曲という用語は,10世紀末をもって,記録の上からも姿を消した。部曲に代わって農業労働に従事したのが佃戸であり,彼らは完全な自由民であった。このように,身分制は消滅の方向にあったが,一朝にしては清算されなかった。宋代以後にも依然として官奴婢は存続し,反乱に連座した者の家属がこの身分を与えられ,また,賤業による区別の観念が生じ,特殊な世襲の賤民階級がつくられるにいたった。
この種の賤民には,賤役に従事するゆえに賤視されるものと,歴史的理由によって良民と区別されるものとがある。前者には娼妓,俳優,隷卒(役所にあって特定の賤役に従事する者),六色(冠婚葬祭の雑役に従事する者),理髪師などが,後者には楽戸,堕民(だみん),九姓漁戸,蛋(蜑)民(たんみん),寮民,棚民,丐戸(かいこ),伴当,世僕などが属する。楽戸は音曲歌舞を業とし,河北,山西,陝西に居住する。堕民は浙江省の紹興にあり,代々賤業に従事させられた。九姓漁戸は浙江省におり,蜑民は広東に多く,漁業に従う水上生活者である。棚民は福建,浙江,江西の山間に住み,原始的な農業を営む。丐戸は江蘇省の常熟・昭文両県にあり,代々乞丐(きつかい)(乞食)を業とした。伴当と世僕は他の賤民と少し異なり,奴婢の特殊なものと考えられ,伴当は安徽省の安徽州に,世僕は同じく徽州,寧国,池州において,祖先以来,この地の地主や商人の家で使役されてきた。
これらの賤民は,賤業に従事するとはいえ,独立の生計を営み,特定の家に従属するわけではなく,この点で奴婢などとは区別さるべきである(ただ,伴当と世僕は特定の家に従属し独立の生計をもたないから,特殊な奴婢とみなすべきであろう)。彼らは法律上,奴婢とほぼ同じ地位におかれたが,特定の家に従属したわけではないから,奴婢のように,家長に対する法律関係はなく,また,独立の生計を営んでいたから,その種類によっては租税を納める義務をもち,この点では良民と変わらなかった。
これら9種の賤民を良民にすることは,清朝の方針であり,1723年(雍正1)に楽戸を,ついで蜑民,丐戸,堕民以下を良民となすべく,解放令が発せられ,3代を経たのち,科挙に応ずる資格を与えることになったが,実際上の効果はほとんどなかったようである。なお,以上すべての賤民階級に対して,1909年(宣統1)に,法律的にその身分を廃止することが決定されたが,ながく根強い伝統のなかで存続し,彼らの最終的解放は,人民共和国の成立をまたねばならなかった。
執筆者:寺田 隆信
賤民は古代から存在するが,高麗時代までは公私の奴婢(ぬひ)が大部分を占めていた。公奴婢は官衙に所属し,私奴婢は貴族のほか農民にまで所有され,さまざまな労働を強制された。かつて高麗時代に広範に存在した〈郷〉〈所〉〈部曲〉を集団賤民とする説が有力であったが,現在ではほぼ否定されている。李朝時代になると社会発展による職業分化の中から,職業と結びついたかたちで〈七般公賤,八般私賤〉などと呼ばれる多様な賤民が析出され,厳しい差別に苦しんだ。しかし法的規定と社会通念には多くのずれがあり,社会通念にも幅があって一律な賤民規定は難しいが,おおむね次の7種が賤民と認められる。(1)白丁 賤民の代名詞であり,屠殺や柳器匠などに従事する被差別民。(2)才人 白丁から分化し,軽業などを業とする大道旅芸人。(3)巫覡(ふげき) 男女のシャーマン(なお〈ムーダン〉の項目参照)。(4)喪輿軍 葬礼の柩かつぎ,墓掘り人夫。(5)僧尼 李朝の排仏策から生まれ,最下層に在家僧がある。(6)妓生(キーセン) 官衙に所属し,歌舞音曲や売春などを業とし,針線婢,医女としても官衙で使役された。(7)公私の奴婢 賤民の中で最大のものであり,全人口の10%程度が存在したと推定される。公奴婢は中央・地方の官衙に所属し,私奴婢は両班(ヤンバン)など私人に所属して売買・譲渡の対象であった。1894年の甲午改革で賤民も身分解放されたが,偏見は強く残った。その後,朝鮮戦争と近代化による社会変動の中に彼らも姿を没した。
執筆者:吉田 光男
日本古代の賤民は,人民を良民と賤民に区分した8世紀の律令法のもとでの良賤制により身分として確立した。7世紀までの賤民の形成は,(1)犯罪による没身(賤民にすること),(2)人身売買・債務による奴隷化,(3)捕虜の賤民化,(4)手工業者などの賤民化,(5)王族・豪族・寺社の隷属民の賤民化,などにより進行していた。養老令の戸令は,官有賤民として陵墓を保守する陵戸(りようこ),朝廷で労役に従う官戸(かんこ)と公奴婢(ぬひ)(官奴婢),私有賤民として家人(けにん)と私奴婢の合わせて5種の賤民の身分を定めた(陵戸は大宝令では賤民ではなかったとの説もある)。陵戸は奴隷ではないが,官戸,公奴婢,家人,私奴婢は奴隷であった。官戸・家人は家族を形成し,家業を有し,尽頭駈使(家族全員同時の使役)されない点で,公奴婢・私奴婢と異なるが,実際は官戸・家人は少数で,賤民の大多数は公奴婢・私奴婢であり,かつ公奴婢・私奴婢は家族を形成する場合が多く,官戸・家人と同様の存在形態を示していた。官戸,公奴婢,家人,私奴婢は,一般に手工業や農業に従事する労働奴隷ではなく,それらの補助的労働や雑役に従事する家内奴隷であった。手工業部民の一部は律令制では賤民に準ずる身分の雑戸(ざつこ)に編成されたが,8世紀半ば以降解放されていった。賤民は同身分間での婚姻しか認められず,良民との通婚も禁止された。没身刑はすでに3世紀にあったが(《魏志倭人伝》),律令では王権に対する反逆罪を犯した者の父子・家人に適用され,官有賤民とされた。
私有賤民の成因の一つの人身売買・債務による奴隷化は,7世紀後半に顕著となったが,庚午年籍(こうごねんじやく)(670)と庚寅年籍(こういんねんじやく)(690)の造籍により良民と賤民の区分を固定化し,貧窮のため父母が子を売り,兄が弟を売り,また負債により賤民とされた場合の取扱いを庚寅年籍作成の際に定め,良民(公民)が人身売買・債務により没落して奴隷化することを防止し,国家支配の基盤としての公民身分の確立をはかった(賤民として戸籍に編付された人民が,良民であることを訴える例は8世紀に多数見られる)。私有賤民の人口は,良賤制確立以降は,誕生による増加によってしか増えないことになった(売買による移動は多数あった)。また,賤民を解放して良民とすることを放賤従良といった。私有賤民は,一般の公民も所有する場合があるが,大量に所有するのは貴族・豪族や寺社であり,それらは氏賤,寺賤,神賤とも称された。奴の和訓はヤツコで家の子の意味であり(臣・妾・賤もヤツコと訓じる場合があった),私有賤民が貴族・豪族や寺社の譜第隷属民であったことを示している。奴婢は奴隷的存在形態自体により卑賤視されたのであるが,官有賤民の場合には罪の穢に対する卑賤観も働いていたと考えられる。8世紀半ばの官有賤民の今良(ごんろう)身分への解放を端緒として,789年(延暦8)には良賤間の所生子を良民とすることに改めてから,陵戸以外の官私賤民は激減し,律令賤民制は解体していったが,卑賤観念や穢の観念により人間を差別し賤民身分とすることは,平安中期以降の新たな賤民制の出発点となったのである。
→奴隷 →被差別部落
執筆者:石上 英一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歴史的に、ことに法制史的には、一般に、身分上、社会の最下層に置かれ、とくに蔑視(べっし)・差別された人々をさす。
[成澤榮壽]
古代律令(りつりょう)制の身分制では、人民の身分を良と賤に大別し、公課を負担する公民を良(良民)とし、特定の主人などに従属し、特殊な奉仕を義務づけられた者を賤(賤民)とした。賤を5種に分け、陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、公奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ)とし、これを五色(ごしき)の賤といった。これらの賤民は、朝廷・貴族・豪族などに支配・所有され、その労働力として雑役に従事させられた。陵戸は、天皇・皇族の陵墓の守衛に従事し、身分的には賤民中もっとも上位にあった。官戸は、官司の雑役に従事し、公奴婢より上位にあった。陵戸・官戸は戸を構え、口分田(くぶんでん)も良民と同額を貸与された。家人は、奴婢と同様、口分田は良民の3分の1しか与えられず、相続の客体とされたが、家族を構成し、私業を営むことが認められ、売買の対象にされなかった。公奴婢は官有の、私奴婢は個人所有の奴婢で、売買・譲与・質入(しちいれ)の対象とされ、家族生活を認められない本格的な奴隷であった。賤民はいずれも良民との通婚を許されず、賤の子は賤に属するとされた。しかし、良・賤の身分差別は、人民の間では早くも8世紀末には事実上崩壊し始めた。そして、古代の身分制は、賤民を含む人民の解放への営みによって切り崩されていった。
[成澤榮壽]
中世の賤民(被差別民)は、人格的な隷属関係をもたないまったく無視されたアウトサイダーであった。中世社会には、被差別民のほかに、蔑視・差別されていた存在として下人(げにん)、所従(しょじゅう)があったが、彼らは貴族、寺院、武士、有力な庶民と隷属的な主従関係にあり、世間(せけん)(一般社会内)で生活していた。僧侶(そうりょ)は世間の外にいたが、庶民と同等またはそれ以上の存在であった。中世被差別民は世間の外にあり、かつ庶民より下の蔑視された存在であった。彼らは非人・河原者(かわらもの)などさまざまに呼称され、ある程度の集団を形成して都市に存在し、農村にも散在して、生きていくために、きつい仕事、危険な仕事など、人のいやがる仕事をやり、あるいは雑芸能を含む物乞(ご)いに類する行為を行った。中世社会は、身分が制度的に固定されてはおらず、個々人の解放・向上、没落・変転が無数にあって、彼らは社会の底辺に滞留する者が多かったが、流動的な部分も少なからずあった。しかし、中世末期、身分体系が全体として整備の方向をたどり、被差別民もしだいに固定化に向かった。
[成澤榮壽]
そのような状況のもとで成立した皮多(かわた)などとよばれた近世初頭の賤民は、まったく無視された存在であった中世被差別民に比べ、その地位は高かったと考えられる。たとえば、当時の検地帳などでは、皮多は農民の一部として記載され、村の支配下に存在し、触穢(しょくえ)観念が流布していたから、斃牛馬(へいぎゅうば)処理などに携わった彼らが蔑視されていなかったとはいえないが、制度的な厳しい差別を加えられてはいなかった。しかし、17世紀なかば、封建的身分制が確立されるなかで、近世大名の皮多に対する差別的統制がしだいに強化され、皮多など賤民は全国的、統一的に穢多(えた)と公称されるようになった。この時期、商品経済の発展のため、階層分化が激化し、多数の浮浪民が出現、彼らの少なくない部分が非人身分となり、17世紀末~18世紀初め、穢多・非人を主要部分とする賤民統制の制度的強化が行われた。
なお、近世で賤民とよばれていたのは通常、農工商身分の人々であった。穢多・非人などを近世賤民と呼称するのは法制史的用語である。近代になってからも農民・労働者など一般庶民を侮蔑(ぶべつ)的に賤民とよんだ文書が存在する。
[成澤榮壽]
1871年(明治4)明治維新の改革、なかんずく封建的身分制の廃止、身分制の再編(華族・士族・平民)の一環として「賤民解放令」が布告され、従来の賤民は平民籍に編入された。しかし、旧賤民身分の人々に対する社会的差別が残存し、部落問題という社会問題となり、部落改善運動にはじまる部落解放運動が勃興(ぼっこう)する。明治初期、旧賤民、ことに旧穢多身分の人々に対して、「新平民」という呼称が用いられるようになり、多くの場合、差別的に用いられた。1907年(明治40)前後から、「新平民」にかわって「特殊部落」の語が全国的に流布した。明治末以降、官庁を中心に「細民部落」が用いられた一時期を除き、「特殊部落」が部落問題の部落に対する呼称の主流となった。この呼称も侮蔑的に使われることが多く、差別と偏見の残存の厳しさを示した。
[成澤榮壽]
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり,幕府の身分統制策の強化によって17世紀後半から18世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。1871年(明治4)8月28日,明治新政府は〈太政官布告〉を発して,〈非人(ひにん)〉の呼称とともにこの呼称も廃止した。…
…荘園の語から連想されるように,大土地所有は一面で観賞用庭園でもあり,豪族層がその超俗の精神を遊ばせる空間でもあった。魏晋南北朝は身分制の発達した時代であり,とくに奴婢よりも上級の各種の賤民身分が発生した。それらは衣食客,部曲などさまざまな名称でよばれ,公府や私人に属して軍役,雑役,手工業,農業等の労働に従事した。…
…これに対して,唐・宋時代には官妓が大いに栄えた。官妓は前漢の武帝が軍営に妓女をたくわえ,それを妻のない軍士に侍せしめたのにはじまるというが,魏晋南北朝時代に楽戸の制が設けられ,特殊の賤民(せんみん)である妓女が楽戸に入れられ,唐代にはその籍が教坊に属していた。唐代には長安の平康里は妓女のおるところとして知られ,彼女らの中には詩文に長じ,また小説の題材となった者も少なくない。…
…これに対して下級官人と一般民衆は白丁(はくてい)とされ,良民としてあつかわれたが,特別な権益は奪われていた。さらに良民の下には無姓の賤民が設定された。一般に官戸(かんこ),家人(けにん),陵戸(りようこ),公奴婢(くぬひ),私奴婢(しぬひ)がそれで五色の賤といわれ,人権を認められず,法的にも奴隷状態におかれていたが,社会的には数パーセントの人数しか占めなかった。…
…これら族姓,人姓,部姓,人部姓,某姓は被支配階級に付与された姓であるが,そのうち族姓,人姓,某姓は被支配階級のなかでも比較的上層の人民に与えられた。ただし姓を与えられたのは良民だけで,賤民には姓が付与されず無姓のままにとどめられた。 このように姓は670年の庚午年籍以降,人民支配の制度として律令国家によって作りだされたものであり,戸籍の制度や良賤制という身分制度と不可分の関係にあった。…
… 9世紀以降速度を早めた律令制の崩壊過程の中で,貴族や寺社の荘園に流れ込んだ雑戸民の中にもこれらのような多くの雑芸人が含まれていた。荘園制度が強固になるにしたがって,土地を持たぬ徒の生業としての芸能はしだいに散所(さんじよ),河原へと移り,職業的賤民の歴史を歩まねばならなくなる。しかし,室町時代を経て,観阿弥・世阿弥によって,田楽・猿楽の能から〈能楽〉が大成し,また,風流(ふりゆう)芸能,念仏踊(踊念仏(おどりねんぶつ))から京都四条河原の出雲のお国によって,〈かぶき(歌舞伎)〉が生み出されたように,今日,日本の代表的な伝統芸能とされる両芸能にしても,明らかにこれら雑芸能の集積の中から誕生したのであった。…
…1863年南北戦争の最中にリンカン大統領は奴隷解放宣言を出したが,実際に奴隷が解放されたのは65年に戦争が終わったときであり,同年の憲法第13修正で明文化された。【猿谷 要】
【日本】
日本古代の奴隷は,すでに《魏志倭人伝》に生口(せいこう)の記述が見られるので3世紀ころから存在したが,7世紀後半から8世紀にかけて律令法の定める官戸(かんこ),官奴婢(ぬひ)(私奴婢),家人(けにん),私奴婢などの賤民(せんみん)の身分に編成された。奴隷は,犯罪,人身売買,債務,捕虜などにより生じたが,律令法により人身売買や債務により良民を賤民すなわち奴隷とすることは禁止され,奴隷の供給は生益と犯罪に限定された。…
…江戸時代の,将軍を頂点とした封建的政治体制をいう。
[規定と特質]
幕藩体制は,兵農分離制を階級支配の原則とした純粋封建体制の一形態であって,石高制(こくだかせい)を土地所有体系の基本とした封建領主が,士・農工商・賤民の政治的編成を基本とした経済外強制によって民衆支配を行い,その支配体制の総体を鎖国制という民族的枠組みによって維持,固定している政治体制である。 兵農分離制はその封地との歴史的関係を断ち切って,将軍の恣意によって配置,移動させられる武士団を作り出し,これらの武士団は,兵農分離に伴う商農,工農の分離によって農村から切り離された商人,手工業者とともに,都市に集住して,都市民を形成した。…
…したがって,いわゆる部落差別が本格化したのは,江戸時代の幕藩体制のもとでのことであった。部落差別は,確かに明治維新以降の近代化による政治・経済・社会のひずみとも密接な関係にあるとはいえ,江戸時代における武士・百姓・町人・賤民の身分格差のなかで最底辺におかれていた賤民身分の人々に対する格別の差別意識に深い根を下ろしており,その意識が,社会的偏見に凝縮されて,交際,婚姻等々の面での苛酷な差別を,現代にいたるまで存続させてきていると考えられるからである。 江戸時代における被差別部落の中核部分をなしたのは〈えた〉であったが,その名で呼ばれる人々の存在は,いちはやく中世,鎌倉時代末期の文献で〈穢多〉という漢字表記とともに確認される。…
…日本古代の百姓は,オオミタカラ,ミタミなどと呼ばれ,古代王権のもとにあった王民,公民,良民全体を含みこんでおり,律令制下では一般戸籍に編戸された班田農民,地方豪族,官人貴族らは,すべて百姓とされた。他方で賤民である公私の奴婢(ぬひ)と,化外の民である夷狄(いてき)は,百姓身分から除かれて差別・疎外される存在であった。このように編戸にもとづく公民制,良賤・華夷の差別を維持することが,律令制支配の根幹であったが,一般公民の浮浪・逃亡,奴婢の解放,蝦夷の征服と抵抗が進行するにともなって,律令制はしだいに変質・解体していく。…
…良賤間の通婚は禁ぜられ,その所生子は原則として賤とされる定めであった(良賤法)。養老令の規定では,賤民に陵戸(りようこ),官戸(かんこ),家人(けにん),官奴婢(ぬひ)(公奴婢),私奴婢の5種があり(五色の賤),それぞれ同一身分内部で婚姻しなければならないという当色婚の制度が定められていたが,このうち陵戸は大宝令では雑戸(ざつこ)の一種としてまだ賤とはされていなかった可能性が強い。雑戸は品部(しなべ)とともに前代の部民(べみん)の一部が律令制下になお再編・存続させられ,それぞれ特定の官司に隷属して特殊な労役に従事させられたもので,そのため身分上は良民でありながら,社会的に一般公民とは異なる卑賤な存在として意識された。…
…日本の古代に,良民と賤民の婚姻や生まれた子の帰属を定めた法。645年(大化1)の男女の法は,良民が奴婢(ぬひ)との間になした子は奴婢につけ,所有者の異なる奴婢の間の子は母である婢につけると定めた。…
※「賤民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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