日本歴史地名大系 「高水寺跡」の解説 高水寺跡こうすいじあと 京都市:山科区小山村高水寺跡日野富子が建立した寺。現存せず、跡地は現京都市山科区小山(こやま)辺りとされる。宗派不詳。「山城名勝志」に「高水寺ハ在山科音羽ノ郷小山蓋シ従一位大夫人ノ山荘ナリ」、また「都名所図会」も「むかし延徳の頃高水寺殿三品花渓といふ宦婦の山荘あり、今西本願寺の別荘是なり」といい、富子の別業の地に営まれたものか。「山科家礼記」文明一三年(一四八一)八月二五日条に、山科家雑掌に宛てた工事督促の幕府奉行人の奉書が載り、「山科高水寺事、為上様(日野富子)御建立之間、地形普請之儀、已前被仰之処、遅々不可然、以人足百人為家領分、来廿九日以前、可被致其沙汰之由被仰出候」とある。 高水寺跡こうすいじあと 岩手県:紫波郡紫波町郡山三町高水寺跡[現在地名]紫波町二日町二日(ふつか)町の東部、城(しろ)山の北西麓に位置した古刹。寛永年間(一六二四―四四)盛岡城下に移され、明治初年廃寺となった。神護景雲二年(七六八)称徳天皇の勅願によって創建されたと伝える。古くは四〇余坊が荘厳さを競い、大同二年(八〇七)には坂上田村麻呂が堂ならびに鐘楼・太鼓堂・鰐口以下諸仏具を寄進し、康平年中(一〇五八―六五)源頼義・義家父子が安倍氏との戦いのため下向した際、堂塔・護摩殿などを建立、一六坊を修造したとされる(祐清私記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報