郡山三町(読み)こおりやまさんちよう

日本歴史地名大系 「郡山三町」の解説

郡山三町
こおりやまさんちよう

北上川の中流右岸に位置。それぞれ町検断が置かれた二日ふつか(上町)した町・日詰ひづめ町の総称で、郡山御町・郡山宿ともよばれた。天正一六年(一五八八)南部信直は高水寺こうすいじ城に拠っていた斯波詮直を追放し、同一九年同城を郡山城と改称した。以後同城には寛文七年(一六六七)まで城代が置かれたほか、一帯に代官所・御蔵・御用屋敷・村宿などが置かれて地方支配の中心となった。また慶長年間(一五九六―一六一五)には奥州街道の宿駅となり、城下町宿場町の複合的機能を有し、町場化していった。寛文七年の郡山城廃城後も宿場町・商人町・河岸場として繁栄し、幕末に至る。三町周辺にある田畑・原野・森林などの付属地は新田とよばれ、北に二日町新田、南に日詰新田が成立していたが(「邦内郷村志」など)、その大半は三町町人の開発所有になるものであった。なお幕府に差出した郷帳類では郡山村として把握されており、正保国絵図に村名がみえ、高四七五石余。元禄十郡郷帳による〆高は田方一千三一〇石余・畑方三七四石余、じんおか村・二日町新田・日詰新田が入るとある。天保郷帳では高七九八石余、旧高旧領取調帳に村名はみえない。元和二年(一六一六)南部利直書状(花巻四戸文書)に郡山とみえ、南部利直は前年の飢饉に対処するため当地などに検見役として四戸久助を派遣し、種子農料の給付および免税、六月中の諸役停止を指示している。同七年の南部利直寄進状(新撰陸奥国誌)によれば郡山村二七〇石余などが櫛引くしひき八幡宮(現青森県八戸市)の別当に寄進された。

町並は奥州街道の両側に延びる一本町で、各町の出入口には木戸が設けられていた。日詰町内には新田町・肴町・仲町・寺小路・習町・鍛冶町、二日町には原の町・うまや町・ふくろ町・横町・組町(下小路)などがあり、下町は二日町の枝町であったため小区分はされなかった(紫波町史)。町内には盛岡藩の地方給人が常時五人ほど居住していたほか、多くの商人がいた。慶応三年(一八六七)の志和稲荷神社寄進帳(工藤文書)によれば、日詰町には商人として呉服屋・肴屋各八、菓子屋七、酒屋・醤油屋・豆腐屋・薬屋各三、職人として鍛冶屋七・大工五・桶屋五などがおり、宿屋も五軒あった。有力商人として近江商人井筒屋をはじめ、幾久屋(美濃屋)・桜屋・久保田屋などが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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