小山村(読み)こやまむら

日本歴史地名大系 「小山村」の解説

小山村
こやまむら

[現在地名]北区小山〈板倉いたくら町・上板倉かみいたくら町・上内河原かみうちかわら町・上初音かみはつね町・上花かみはな町・上総かみふさ町・北大野きたおおの町・北上総町・北玄以きたげんい町・下板倉町・下内河原町・下初音町・下花ノ木町・下総町・中溝なかみぞ町・西大野町・西上総町・西玄以町・西花池にしはないけ町・西元にしもと町・初音町・花ノ木町・東大野町・東玄以町・東花池町・東元町・堀池ほりいけ町・南大野町・南上総町・元町もとまち

村の北から東にかけて賀茂かも川が流れ、西は大宮おおみや郷、南は鞍馬口くらまぐち通付近を境に京都町中、東南部は鞍馬口村にそれぞれ接する。

中世の賀茂六郷の一、小山郷の地にほぼあたる。


小山村
おやまむら

[現在地名]町田市小山町

上小山田かみおやまだ村の西にあり、南はさかい川が流れる。南に面した丘に民家が並び、日向小山ひなたおやまともいわれた。中世は横山よこやま庄に含まれ、横山党小山氏の本拠地。文治元年(一一八五)長尾ながお(現神奈川県川崎市多摩区)威光いこう寺院主長栄と寺僧は小山太郎有高の寺領押領を源頼朝に訴え、同年四月一三日と九月五日に頼朝は有高に押領停止・返付を命じた(吾妻鏡)。また有高は建久元年(一一九〇)一〇月の頼朝上洛の随兵の一人として相模小山太郎がある。かれは建保元年(一二一三)の和田合戦で討死、小山氏は衰退するが、片所かたその北の城山は小山太郎の城跡といわれ、土塁などの遺構を残している。やがて当地には地侍層が台頭した。修験鏡宝きようほう院を開いた三蔵坊は新田義貞・義宗の家臣で、延文年間(一三五六―六一)当地に来住したという(「御嶽堂略縁起」新田家蔵)。また当地島崎家の祖先島崎吉氏は弘治元年(一五五五)頃常陸国行方なめかた郡から来住したという(「覚書」同家蔵)。北条氏所領役帳の他国衆油井ゆい(大石氏領か)の東郡粟飯原四ヵ村のうちに相模国高座たかくら郡小山(現神奈川県相模原市)とともに当村も含まれていたと推定される。当地には福生ふくしよう寺その他に六〇基以上の板碑が出土・伝存している。


小山村
おやまむら

[現在地名]熊本市小山町

小山山(一八九・六メートル)の周辺にあり、東は上益城かみましき郡沼山津手永の唐川からかわ(現菊池郡菊陽町)、南は戸島としま村、北は鹿帰瀬かきぜ村ならびに合志こうし郡大津手永の弓削ゆげ村・石原いしわら村である。六箇ろつか庄に属し、建保四年(一二一六)四月二二日の将軍家政所下文案(詫摩文書)によれば、当村の地頭職に源業政が補され、安貞二年(一二二八)には亀若殿母御前が地頭代になっている(同年六月一九日「某下文案」同文書)。当村の地頭職は業政(蓮念)から源二女、てこぐま、早岐盛実を経て、建長八年(一二五六)早岐清基(幼名若熊、法名正心)がこれに補された(同年一〇月三日「将軍家政所下文案」同文書)。清基はこれをいったんは子息正円に譲与したが、正和元年(一三一二)正円を義絶して外孫の菊池九郎隆信に譲りなおし(同年一二月二一日「早岐正心譲状案」同文書)、同三年には隆信の領知の確認、領内の撫民、博奕・夜討・強盗などの禁止、殺生禁断などからなる置文を定めた(同年三月一〇日「早岐正心置文案」同文書)。その頃地頭(清基―隆信)と六箇庄惣追捕使水原孫四郎との間で、当村に惣追捕使の権限が及ぶか否かで相論があり、同五年今後惣追捕使は関与しないという条件で和解が成立した(同年五月一二日「関東下知状案」同文書)

南北朝期になり康永二年(一三四三)隆信の子早岐武宗は養子の詫磨弥一丸(能勝)に当村の地頭職を譲り(同年三月五日「早岐武宗譲状」同文書)、次いで翌年「おやまのやしき(小山屋敷)六かしよ并ちん(陣)のまへのはらよりミなミやしき、おなしき田地四丁五反」(小山村三分一地頭職)を、正円の子秀(英)政の強い要求を入れて譲与した(同三年八月二五日「早岐武宗譲状案」同文書)


小山村
おやまむら

[現在地名]刈谷市小山町・稲場いなば町・新富しんとみ町・恩田おんだ町・青山あおやま町・池田いけだ町・新田しんでん町・広見ひろみ町・一番いちばん町・中手なかて町・日高ひだか町・東新とうしん

北は一部が逢妻あいづま川をもって泉田いずみだ村と境し、一部は築地ついじ村に、東は重原しげはら村に接し、南は猿渡さわたり川をもって元刈谷もとかりやと境する。小池こいけ村と称したが、のち小山村に改めたという。村内の字日高の地名は「汐干高」から起こるという。佐太屋敷さたやしき貝塚(前期)・佐太屋敷南貝塚(後期)寺屋敷てらやしき東貝塚(後晩期)・寺屋敷西貝塚(晩期)など縄文時代の遺跡が、標高五―七メートルの洪積台地の西縁部に分布する。


小山村
おやまむら

[現在地名]袋井市小山

豊田とよだ郡に所属。太田おおた川中流左岸に位置する。東は土橋つちはし村。北の徳光とくみつ村とは田地が錯綜していた(文化一一年「小山・徳光両村悪水新溝築立出入内済証文」鈴木家文書)。血脈衆(乾坤院蔵)によれば、文明一二年(一四八〇)八月一七日「小山」の昌洞(六郎三郎)・昌坤(又次郎)らが乾坤けんこん(現愛知県東浦町)の授戒会に列席している。永禄四年(一五六一)六月二〇日、今川氏真は「緑・小山」の段銭四一貫六四二文余を含む四〇〇貫文を匂坂六右衛門尉(長能)に与えている(「今川氏真判物写」今川一族向坂家譜)。同七年五月二三日にも氏真は匂坂長能にみどり(見取)・小山両郷段銭ほかを安堵している(「今川氏真判物写」同書)。同一一年一二月二八日、徳川家康は山名庄内の小山郷など七ヵ郷ほかを久野くの城主久野宗能の息千菊に与えている(「徳川家康判物」久野文書)


小山村
おやまむら

[現在地名]前沢町古城こじよう胆沢いさわ町小山、水沢みずさわ真城しんじよう

中畑なかばた村の北と西に広がり、本郷と端郷上野うわの(徳岡・堀切)に分れる。上野の大部分は現在胆沢町に属し、一部は水沢市に含まれる(胆沢町の→上野村、水沢市の→馬籠館跡。文永九年(一二七二)六月二三日の関東下知状(中尊寺文書)に「小山薬師堂免田参町」がみえ、中尊寺衆徒行朝の相伝する所であった。中尊寺経蔵別当職相伝系図(同文書)の行朝の項には「寺僧分院主兼学頭 御経蔵別当職、大長寿院別当往古私領小山村愛染明王免田畠以下所職等知行」とある。また嘉元二年(一三〇四)七月八日の法橋朝賢置文(同文書)には「私領小山村惣領分」などは、女子徳満御前・安具利御前、弟子犬若丸・行賢らに譲るとある。なお行朝と朝賢は伯父(叔父か)・甥の関係であり、経蔵別当職は朝賢から行朝に譲られたようである(正応四年四月五日「僧朝賢譲状」同文書)


小山村
こやまむら

[現在地名]須坂市小山 小山町・南原みなみはら町・北原きたはら町・屋部やぶ町・八幡はちまん町・境沢さかいざわ町、小山高梨こやまたかなしこく

現須坂市中央部。南はいち川で九反田くたんだ米持よなもち野辺のべ、東は坂田さかだ、北は須坂・塩川しおかわ、西は高梨の各村と接する。北半は市川右岸須坂扇状地の南扇側で高く、南半は東部の臥竜がりゆう山の背後となり低く、市川端は洪水の災害を受け砂礫の堆積が厚い。扇頂・扇端・低湿地と東西約四キロほどと長く、低湿地は水田、扇頂部や市川端は防水林の松・クヌギ林などである。集落は散在し、東部に南原・北原、臥竜山西に町小山まちこやま・屋部・八幡・滝沢・小山高梨がある。

永正二年(一五〇五)興国こうこく寺鐘銘(興国寺旧蔵)に、「信陽高井郡椚原庄小山郷須田邑臥竜山興国禅寺」とあるのが初見。慶長二年(一五九七)八月の神道裁許状(山岸文書)に、「信濃国高井郡小山村墨坂神社之祠官山岸図書頭吉房」とある。


小山村
こやまむら

[現在地名]緑区小山町・西八朔にしはつさく町・十日市場とおかいちば町・新治にいはる

恩田おんだ川の左岸にあり、一部が対岸にかかる。東西に細長く、北は西八朔村北八朔村、東は青戸あおと村、南は恩田川右岸の十日市場村榎下えのした村・久保くぼ村・だい村に接する。もとは八朔村の一部であった(風土記稿)。また恩田川右岸の地区は荏下えのした郷の一部であったのが、慶長九年(一六〇四)に分郷されたと伝える(同書)

天正一九年(一五九一)より旗本荒川領。荒川氏の領地は当村と橘樹たちばなさき(現鶴見区)であり、当村に陣屋を構えた。享保八年(一七二三)一部が荒川富次郎に分知され二給となったが、明和五年(一七六八)同領は上知されて幕府直轄領となる。


小山村
おやまむら

[現在地名]園部町小山東町おやまひがしまち・小山西町

園部村の東に位置する。北は曾我谷そがだに村・下木崎しもきざき村、園部城下新町しんまち、東は室河原むろがわら村・木原きわら(現八木町)、南は上口人かみくちうど村・絹掛きぬかけ(口司村)と中口人村・下口人村(口人村)、西はおお村。村の北東部を園部川が南東流し、京街道がこれに沿う。村域は広いが丘陵性の山地が多く、集落は山麓部に形成されている。貝原益軒の「西北紀行」には園部城下に入る前に「小山」と記される。

貞応元年(一二二二)一〇月二〇日付北条時房書下(関戸守彦氏所蔵文書)に「後白河院法華堂領丹波国野口御庄内小山村」とあり、後白河院法華ほつけ堂、すなわち長講ちようこう(跡地は現京都市下京区)野口ののくち庄内の村であったことが知れる。


小山村
こやまむら

[現在地名]山科区小山〈一石畑いつこくばた大石山おおいしやま小川おがわ町・神無森かみなしもり町・北谷きただに北林きたばやし町・北溝きたみぞ町・御坊ごぼううち町・しもいけ谷田たにだ町・谷田山たにだやま鎮守ちんじゆ町・長尾ながお中島なかじま町・なかかわ町・西御所にしごしよ町・姫子ひめこ町・松原畑まつばらばた町・南溝みなみみぞ町・向山むかいやま

北・東は滋賀県大津市、南は音羽おとわ川を隔てて大塚おおつか村、西は奈良街道を境に音羽村に接する。山がちで、明治になってからも村には薪炭業者が多かった(京都府地誌)法厳ほうごん寺・十住心じゆうじゆうしん院があり、古代から開けていた地と思われる。

中世には山科七郷の一で、「山科家礼記」応仁二年(一四六八)六月一五日条に「一郷 音羽・小山・竹鼻清閑寺」とあり、音羽・竹鼻たけはなとともに一郷をなし、同年に音羽・竹鼻とともに幕府御料所となっている(→音羽村

近世には禁裏御料山科郷の一村。


小山村
おやまむら

[現在地名]緑区小山町

小食土やさしど村の南西にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳の山辺やまべ郡内に村名がみえ、高五〇石。慶長五年(一六〇〇)頃旗本建部領になったとみられ、寛永二年(一六二五)の建部昌興宛の知行宛行状には小山村五五石余とある。延宝二年(一六七四)の高五〇石(東金鷹場旧記)。幕末まで建部領で、明治元年(一八六八)鶴舞藩領となる。建部氏は丹尾たんのう(現東金市)への帰農届を出している(千葉県史)。元和四年(一六一八)写の山辺郡小山村見図帳(石塚家文書)は文禄検地か慶長検地か明らかでないが、反別七町九反余。宝永元年(一七〇四)の年貢割付状(小山町内会文書)では田六町二反余・畑五町二反余・山三町八反余・屋敷一反余、御林一ヵ所、年貢は反取法で七二俵余・永五五六文。


小山村
おやまむら

[現在地名]小山町小山

現小山町域の東端、足柄あしがら峠の北麓、鮎沢あゆざわ川右岸の段丘上に位置する。鮎沢川対岸北の生土いきど村や南の竹之下たけのした村とともに駿河国の最東端を占め、相模国に接していた。足柄峠から北に延びる国境稜線には、竹之下の足柄城の支城であるこなら阿弥陀尾あみだお丹土尾につちおなど中世の砦跡があり、その支稜線の先端が鮎沢川に落込む舌状台地に八重山やえやま城・八重山屋敷といった城郭遺構が認められる(小山町史)。鮎沢川沿いに東に進み、国境を越えて相模国足柄上あしがらかみヶ村(現神奈川県山北町)に至る道が通じる。なお現浄土真宗大谷派正福しようふく寺裏手の墓地への参道脇には、応永二七年(一四二〇)八月一二日の銘のある宝篋印塔基礎がある。


小山村
こやまむら

[現在地名]境川村小山

境川ときつね川の河間、春日かすが山から北西へ長く延びる山裾に位置する。狐川は北西流してあさ川に合流し、北西は石橋いしばし村・三椚みつくぬぎ村。「一蓮寺過去帳」によると、永享(一四二九―四一)頃と推定される一一月五日供養の連阿弥陀仏に注記される「小山」は当地の可能性もある。慶長古高帳に小山とみえ高二〇〇石余、幕府領。ほかに若宮領一石四斗四升。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本田中領がみえる。同家は寛永一〇年(一六三三)加増を受けている(寛政重修諸家譜)。元禄郷帳でも田中領でほかに若宮権現領。宝永二年(一七〇五)から甲府藩領。享保九年(一七二四)幕府領上飯田代官支配。


小山村
こやまむら

[現在地名]藤井寺市小山一丁目・同四―九丁目・小山〈藤美ふじみ町・しん町・藤の里ふじのさと町〉・御舟みふね町・東藤井寺ひがしふじいでら町・津堂つどう一―三丁目・おか一丁目

志紀郡に属し、丹南郡藤井寺村・岡村の北に位置する。大坂道を境にして西に丹北郡小山村・津堂村がある。村の北は宝永元年(一七〇四)付替えられた大和川で限られる。津堂村の南東端に当村と接して津堂城山つどうしろやま古墳があり、中世末期、墳丘上に城が築かれていた。室町後期から戦国時代にかけての記録にみえる小山(城)はこの城をさす。「政所賦銘引付」の文明一六年(一四八四)六月二四日の項に、朝日孫左衛門尉時長の知行地として都塚みやこづか弓削ゆげ(現八尾市)などとともに小山がみえる。当地か丹北小山のことであろう。

文禄三年(一五九四)の検地高一千七九石余(同年「検地帳写」小泉家文書)


小山村
こやまむら

[現在地名]木之本町小山

石道いしみち村の南、高時たかとき川中流左岸平地と山田やまだ山北西麓山地に立地。東部山地に発する小山川が北辺を西流。王塚おうづかと称する古墳跡が残る。近世初期と推定される伊吹家屋敷図、小山系図(ともに小山文書)などによれば、中世末期に土豪小山氏(一時伊吹氏を名乗る)・馬場氏が居住、屋敷図では中央に土塁をめぐらした一町四方の伊吹半右衛門屋敷、その外側に五人の有姓百姓と一四人の被官屋敷・長応ちようおう(現浄土真宗本願寺派)があり、外周を堀で囲む。その外に馬場氏とその被官屋敷や百姓屋敷がみえる。なお小山氏屋敷跡が当村中央に残り、馬場ばば馬末ばずえ大手おおてなどの地名もある。


小山村
こやまむら

[現在地名]岡山市小山

大崎おおざき村の南西、足守あしもり川の左岸にあり、南端を松山まつやま往来が抜ける。高松たかまつ城攻めの際には、みや山に羽柴秀吉側の織田秀勝が布陣したと伝え、尾根上に削平地・堀切が残る。慶長六年(一六〇一)木下家定に「小山村生石内」六五五石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図も同高で足守藩領。以後幕末まで同藩領。正保郷帳・備中一国重宝記には枝村として馬揃まぞろい村を記す。


小山村
おやまむら

[現在地名]吉田町小山

福原ふくばら村の東、可愛えの川の支流で北流する砂田すなだ川の流域に位置する村で、北は竹原たけはら村、東は戸島としま(現向原町)に接する。「芸藩通志」に「広十四町、袤一里六町、東南は衆峰高く連り、北はやゝ開けたり、澗水一流北に走る」とある。郡南部への通路にあたる要衝であった。

古くは西浦にしうら村とともに厳島神社領で、嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に「小山」とみえる。のち棚守房顕による寄進田となり、毛利氏の領有となって以後も灯明料として吉田・小山・西浦の地のうち一五〇貫目が進献されていた(永禄六年八月一一日付「棚守房顕譲状」厳島野坂文書)


小山村
おやまむら

[現在地名]相模原市小山・小山一―四丁目・橋本はしもと三―五丁目・東橋本ひがしはしもと一―四丁目・宮下みやしも一―三丁目・宮下本みやしもほん町一―三丁目・すすきの町・向陽こうよう町・氷川ひかわ町・相模原一丁目

東は上矢部かみやべ村・上矢部新田村、南は上溝かみみぞ村・下九沢しもくざわ村、西は橋本村に接し、北はさかい川を隔てて武蔵国多摩たま郡小山村(現東京都町田市)に対し、南は相模野の一角を占める。「風土記稿」は「吾妻鏡」建保元年(一二一三)五月の和田義盛の乱に戦死した横山一族小山太郎の名字の地と伝える。小田原衆所領役帳にある油井領の五〇貫文のうち「東郡粟飯原四ケ村」の一つに比定される。


小山村
こやまむら

[現在地名]品川区小山三―七丁目・荏原えばら三―五丁目・同七丁目・平塚ひらつか三丁目

戸越とごし村の西に位置し、南は中延なかのぶ村、西は碑文谷ひもんや(現目黒区)。田園簿に村名がみえ、田方三三石余・畑方二四石余、高木喜左衛門知行。ほかに野米四俵があり、幕府領。旗本高木領は元禄元年(一六八八)正照の代に召上げられ(寛政重修諸家譜)、以後幕府領で幕末に至る(「風土記稿」・旧高旧領取調帳)。同様の経過をたどった谷山ややま村や中延村とともに馬込まごめ領所属(風土記稿)。寛文九年(一六六九)品川用水が開削されたが、馬込領である当村や中延村は恩恵に浴せず、もっぱら碑文谷池などを水源とする用水と湧水池・溜池を頼りに新田の開発にあたったと伝える。


小山村
こやまむら

[現在地名]東久留米市小山一―五丁目・幸町さいわいちよう五丁目・野火止のびどめ二―三丁目・東本町ひがしほんちよう氷川台ひかわだい一―二丁目・本町ほんちよう二丁目・滝山たきやま一―七丁目

門前もんぜん村の西に位置し、西は下里しもさと村、南は南沢みなみさわ村、北は新座にいくら西堀にしぼり(現埼玉県新座市)黒目くろめ川の流域に開け、北方を野火止用水が流れる。田園簿に村名がみえ、田八五石・畑二一五石、旗本矢部領。矢部氏の知行地は当村のみで、同氏による貞享三年(一六八六)の検地では高三七四石余(「畑方検地帳」小山家文書)。元禄一〇年(一六九七)幕府領となり(東久留米市史)、幕末に至る。家数は文化六年(一八〇九)が六二、安政二年(一八五五)が四九で、川越街道の大和田おおわだ(現新座市)の定助郷、田無たなし(現西東京市)の定加助郷を勤め、日光御成道岩淵いわぶち宿(現北区)川口かわぐち宿(現埼玉県川口市)の人馬御用も勤めた(文化六年「村明細帳」・元治元年「村役書上帳」小山家文書など)


小山村
こやまむら

[現在地名]美濃加茂市下米田町小山しもよねだちようこやま

いま村の南西、飛騨川左岸に続く低位段丘上にあり、飛騨川は村の南で木曾川に合流する。飛騨川対岸は上古井かみこび村の枝村川合かわい村。「和名抄」に小山おやまの郷名があるが、「濃飛両国通史」はこれを山之上やまのうえ村にあてる。天平勝宝二年(七五〇)四月二二日の美濃国司解(東南院文書)に「奴益羽年十五 左目下黒子価稲伯束 右、加茂郡小山郷戸主上連稲実之賤」とある。


小山村
おやまむら

[現在地名]多度町小山

多度川と肱江ひじえ川に挟まれた丘陵の東から南にかけての縁辺部に、北から北小山きたおやま・東小山・西小山・大久保おおくぼの四集落が散在する。丘陵東縁部にある天王平てんのうびら尾津平おづびら遺跡は、縄文・弥生・古墳各時代から鎌倉時代にかけての遺物を出土している。また肱江川北岸の大久保古墳群は一六基に及ぶ円墳群である。「和名抄」桑名郡の「尾津郷」はこの付近と考えられ、古代は海岸に面し、日本武尊東征にちなむ尾津前おつのさき(古事記)尾津浜おつのはま(日本書紀)は、この付近に比定されている。


小山村
こやまむら

[現在地名]坂戸市小山

竹之内たけのうち村の南にあり、東は堀込ほりごめ村。応永四年(一三九七)三月二日吾那光泰から「小山領家田等」が報恩ほうおん(現越生町法恩寺)に寄進されたという(報恩寺年譜)。小田原衆所領役帳には他国衆平山長寿の所領として「入西郡小山」など一六貫二二八文がある。天正七年(一五七九)四月一日滝山城たきやまじよう(現東京都八王子市)城主北条氏照は河越城主からの不当な人夫徴収に抵抗して逃散した「仁西之郡之内小山之村」の百姓中に対し、還住して本年の作付をするよう命じている(「北条氏照印判状」平田文書)


小山村
おやまむら

[現在地名]一志町小山

八太はた村の南の小鳥ことり山山麓にあり、東は片野かたの村に接する。山麓の丘陵地帯には古墳時代後期の群集墳の集中地域(七〇基以上確認)がある。また、鳥居本とりいもと遺跡出土の土師器には畿内焼成と推定されるものがある。字前田まえだに、慈恩じおん堂とよばれる中世墓が発見されている。戦国時代末の天正一二年(一五八四)豊臣秀吉・織田信雄の対立抗争には、戸木へき(現久居市)をめぐって合戦が繰広げられ、当村近辺も戦乱に巻込まれた。


小山村
こやまむら

[現在地名]一本松町小山

一本松盆地東の山間の谷あいにある。北は正木まさき村・板尾いたお村に接し、東・南は草木藪くさぎやぶ(現高知県宿毛市)と接する。「墅截」に「土州境目之事」として、小山庄屋所より卯方(東方)は川で分けられ、小山分が小串(現東小山)、土佐分が草木藪、辰方(東南東)は峰で分れ、小山分しりなしを(現しりなし)、土佐分が新城、巳の方(南南東)松尾まつお峠を境に土佐分が大深浦おおぶかうらというとしている。


小山村
おやまむら

[現在地名]出雲市小山町

斐伊川と神戸かんど川に挟まれた平坦地にあり、東は大塚おおつか村、北は矢野やの村。貞和四年(一三四八)頃と推定される五月一〇日の足利尊氏御教書案(三木家文書)に「小山村之旧領」とみえ、三木四郎左衛門(宗秀)が旧領を安堵されたもので、これ以前から三木氏の所領であったと推定できる。三木家は近江源氏の一族で播州三木みき(現兵庫県三木市)に住したので三木姓を名乗った。早くから小山村を領し、中世には武将として活躍したが、近世に入り帰農した。


小山村
おやまむら

[現在地名]武生市北小山きたおやま町・南小山みなみおやま

味真野あじまの扇状地の山麓に位置する。文明末年頃の大滝寺々庫収納田数帳(大滝神社文書)に「尾山往生院寄進弐段 一石五斗 尾山馬三郎」とみえる「尾山」は当村と考えられる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南東いまなんとう郡に「小山両村」として高七六五・九三二石が記され、正保郷帳以降、北小山村・南尾山村に分れ、同帳によれば北小山村は田方四八八石余・畠方一二石余、南尾山村(天保郷帳では南小山村と記される)は田方二二三石余・畠方四二石余。


小山村
おやまむら

[現在地名]世田谷区尾山台おやまだい一―三丁目・等々力とどろき一―二丁目・玉川田園調布たまがわでんえんちようふ一丁目

等々力村の東にあり、東は上沼部かみぬまべ(現大田区)と等々力村飛地。荏原えばら郡に属する。六郷ろくごう用水が南部を流れ、等々力村より入り下沼部村へと通じる。村名は尾山とも書いた。天文二〇年(一五五一)一二月七日の吉良頼康判物(大平文書)には「世田谷郷之内とゝろき村、同小山之郷」とみえ、世田谷城主吉良頼康から家臣大平清九郎に所領として宛行われ、山野等の開発などが命じられた。


小山村
おやまむら

[現在地名]四日市市小山町

足見あしみ川に沿い、村の南を鎌谷かまたに川が流れる。南は堂箇山どうがやま村。江戸時代を通じて菰野藩領。嘉永元年(一八四八)の「菰野雑記」(三重郡菰野町野呂家蔵)によれば戸数八五、ほかに「不持人」一〇がある。人数は男二二四・女二三二。慶応二年(一八六六)の小山村免状控(「勢州御物成請払帳」菰野財産区区有文書)では、村高のうち七三石余が引高、残り三六八石余、免四ツ三分四厘、定納米は一七二石余。新田は五〇石余、免二ツ七分、定納米一二石余。明治四年(一八七一)と考えられる村明細帳(徳川林政史蔵)によれば戸数一〇二、人数は男二四九・女二二六の計四七五。


小山村
こやまむら

[現在地名]藤井寺市丹北小山たんぽくこやま・小山一―四丁目

丹北郡に属し、志紀郡小山村の西に位置する。北は丹北郡津堂つどう村。集落東端を南北に走る大坂道が志紀小山との境をなす。志紀小山と区別して丹北小山と通称。永禄四年(一五六一)八月二六日の三好義賢書状(日根文書)によれば、義賢は丹北郡小山の国符所の知行や関銭のうち一〇貫文を日根野孫七郎に与えている。


小山村
こやまむら

[現在地名]旭町小山

吉備高原上にあり、黒岩くろいわ高原と称する高原、標高六四六・三メートルの天子てんし山がある。北は中垪和上口なかはがうえのくち村、南は両山寺りようさんじ(現中央町)。正保郷帳に村名がみえ、田方二一三石余・畑方一五三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳の開高一六石余。「作陽誌」の戸口は六二軒・三〇八人。領主の変遷は西垪和にしはが村と同じ。「作陽誌」は妙見権現社と蔵王権現社を記し、両社は祭も同じで、ともに小山氏の氏社である。両社は社伝によると、昔山城国紀伊郡稲荷山より勧請とある。一説には小山善覚坊が神殿を建設したともいう。従来善覚社と唱えてきたが明治五年(一八七二)小山神社に改称。


小山村
こやまむら

[現在地名]門前町小山・風原かざはら

中田なかた村の東、猿橋さるはし村の南、みなみ川上流北岸の傾斜地と山地に立地。風原は当村飛地。製鉄遺跡があり、鍋屋町なべやまちの地名が残る。中世は櫛比くしひ庄の内。天文二〇年(一五五一)六月三日の櫛比庄諸岡村名散田指出(興臨院文書)に「小山散田分小滝村」とみえ、一八〇刈の田があり、「小山・平散田」分は五千二五八束刈であった。近世初頭には阿岸中あぎしなか村と称した。天正一〇年(一五八二)一〇月一〇日の前田利家判物(能登国古文書)では、阿岸中村の高右近に中村の内で一〇俵の扶持を与えているが、右近家は以後当村に居住し、十村役に任ぜられており、地内に高右近屋敷跡が残る。


小山村
こやまむら

[現在地名]福光町小山

竹内四たけのうちしヶ村の西、明神みようじん川西岸の緩やかな段丘上にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、広瀬組に属し、役家数一九。正保郷帳では高九九六石余、田方五四町余・畑方一二町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高九一九石・免四ツ九歩、小物成は山役一二八匁・蝋役二匁、草高のうち一二九石は享保六年(一七二一)検地引高となったが、一方同一七年の手上高二石余が加わった(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には大西先組に属し、家数五〇・人数三四八、頭振家数三・人数八、馬二七・牛一(「大西先組覚帳」福光町立図書館蔵)


小山村
おやまむら

[現在地名]西浅井町小山

大浦おおうら村の東、八田部はたべ盆地の南西縁丘陵に立地。北部を大浦川支流の八田部川が西流。西部山地の小山峠越で八田部盆地三ヵ村(八田部村・山田村・当村)と大浦村を結ぶ。北西の平坦部を大浦村字堂前どうまえへ出る道もある。寛永石高帳に村名がみえ高三一九石余、山城淀藩領。延宝七年(一六七九)の検地では田二二町八反余・高二八六石余、畑一二町四反余・五〇石余、屋敷九反余・六石余(伊香郡志)。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。天保八年郷帳では高三四六石余、うち三河吉田藩領二六八石余・幕府領八〇石余。


小山村
おやまむら

[現在地名]岩井市小山

浅間あさま沼のヤトの西に所在。西は利根川。南北に台地が走り、莚打むしろうち村・桐木きりのき村に続く。永禄(一五五八―七〇)頃から天正初期には小山城主風見主税が勢力を張っていた。天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)には「を山 安西但馬守」とみえる。江戸時代には下総関宿藩領で、宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)によると村域は東西一千二〇二間・南北一千一〇四間、本高六六四・一一九石、新高六八・四一九石。本田二二町三反九歩、本畑七八町七反六畝二歩、新畑八町五反四畝一三歩、家数一二二。人口八四八(男四三九・女四〇九)のうち出家五・道心三・山伏五・行人一・神子四。


小山村
こやまむら

[現在地名]明日香村大字小山

大字いかつち北方に立地する平坦地の村。いかずち(一〇五メートル)から北へ、ひょうたん山・ギオ(祇園)(一〇六・七メートル)・かど山(九八・三メートル)法然寺ほうねんじ(九三・八メートル)など一〇〇メートル内外の独立小丘が列をなし、集落は、かど山東麓にある。神護景雲元年(七六七)一二月一日の太政官符(類聚三代格)に、高市郡高市たけち里の大安寺故地(大官大寺跡)の西辺に「岡本田」の地名のあったことがみえ、古く当村付近を岡本おかもとと称したと考えられる。


小山村
こやまむら

[現在地名]亘理町逢隈小山おうくまこやま

東は田沢たざわ村・下郡しもごおり村、南は上郡村、西は伊具いぐ鳩原はとばら(現角田市)、北は阿武隈川をもって名取郡・柴田郡境となる。本村西北方には西山にしやま、北方には内堀小うちぼりこの字地がある。正保郷帳では田二〇貫八九三文・畑五貫二八七文のほか新田一〇文。「封内風土記」の戸数三一。用水は田沢村からの堀が田地一五町五段余を潤すほか三ヵ所の堀と南山みなみやま池を利用する(亘理郡地誌)


小山村
おやまむら

[現在地名]一宮市千秋ちあき小山おやま

天摩てんま村の南にあり、村の北を青木あおき川、中央を重吉しげよし用水が流れ、この両側に人家が集中していた(天保村絵図)。天正末は織田信雄の家臣佐々弥三郎の知行地で(織田信雄分限帳)、文禄四年(一五九五)には秀吉の家臣稲葉彦六(典通)の知行地があった(稲葉文書)

概高六九八石余で、六二八石余は藩士一七人の給知。田一町五畝余・畑三三町六反六畝余。新田二斗余・子新田二九石七斗余はともに成瀬隼人正の受控。


小山村
おやまむら

[現在地名]弘前市三世寺さんぜじ 色吉いろよし月見野つきみの

東は三世寺村、西は前坂まえさか村、北東は大川おおかわ村、東南は中崎なかざき村、南西は独狐とつこ村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、三世寺村の支村で、村高一五六・二三八石、うち田方一三四・三五五石、畑方二一・八八三石。田位は上田から下々田まであり、斗代は上田が一・三石と高い。村内に寺社、漆木はない。屋敷地は二・四八三石、屋敷持は六名。元禄三年(一六九〇)には藤代組に属し、村位は上とある(平山日記)


小山村
こやまむら

[現在地名]松戸市小山・三矢小台みやこだい四―五丁目など

松戸町の南、江戸川左岸の低地に位置する。松戸と市川を結ぶ往還が南北に通り、集落はこの往還に沿って並ぶ。寛永二年(一六二五)の旗本加藤良勝宛の知行宛行状には「小山村五拾九石八斗余」とある。寛文一一年(一六七一)一部が旗本松平領となり(正徳三年松平氏は大名に列し、以後多古藩領)、元禄一二年(一六九九)の小金領野馬法度請書では松平領高二〇〇石・加藤領高五〇石の相給。延享四年(一七四七)加藤氏は改易となり(寛政重修諸家譜)、同領は幕府領となったと思われる。


小山村
こやまむら

[現在地名]八鹿町小山

国木くぬぎ村の北東、八木やぎ川下流部左岸にあり、北東は八鹿村。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)に入部した小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。慶長一八年(一六一三)同藩主小出吉英の和泉岸和田藩主就任に伴って岸和田藩領となり、元和五年(一六一九)吉英が出石藩に再封になると出石藩領に復した。元禄九年(一六九六)出石藩小出家は無嗣絶家となり、同藩領はいったん収公されたが、翌一〇年松平(藤井)忠周が武蔵国岩槻いわつき(現埼玉県岩槻市)から移って出石藩主に就任すると再度出石藩領となった。


小山村
おやまむら

[現在地名]茂木町小山

木幡きばた村の南に位置し、中央をさか川が北流。常陸笠間かさま(現茨城県笠間市)と茂木を結ぶ往還が逆川に沿って走る。宇都宮氏旧臣姓名書に当村の石塚市左衛門、添田平蔵・同次良右衛門の名がみえる。慶安郷帳によれば旗本福原領、田二〇〇石・畑一一〇石。元禄一〇年(一六九七)旗本長田・大久保領の相給となり、同一一年旗本逸見領も加わり三給。安政二年(一八五五)には家数一七・人数八四、馬一〇(茂木のあゆみ)


小山村
こやまむら

[現在地名]草加市小山一―二丁目・北谷きたや二丁目、川口市安行小山あんぎようこやま

花栗はなぐり村の西にあり、南・西はみね(現川口市)、東境を伝右でう川が南流する。安行台地から東部低地にかかる境にあり、低地と自然堤防の微高地からなる。村名は南西方に小山状の林があったことによるという。足立郡谷古田やこだ領に属した(風土記稿)。田園簿では田一二二石余・畑二七石余。江戸時代を通じ幕府領。元禄八年(一六九五)検地が実施され(風土記稿)、検地による高七四石余・反別一九町八反余、内訳は田四六石余・一〇町九反余、畑二七石余・八町八反余(「篠葉村万手控書」関根家文書)


小山村
こやまむら

[現在地名]西会津町奥川飯里おくがわいいざと

奥川を挟んで中町なかまち村の対岸北東方に位置し、耶麻郡吉田組に属した。村名は村の北部に小丘があることに由来すると伝える。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に小山とみえ、高一八四石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高七六石余(うち新田一石余)、免四ツ六分七厘八毛、反別は田方四町三反余・畑方四町二反余、家数一〇(竈数一六)、男四五・女三八、馬八(うち五調四)。紙漉一がおり、綿役銀九匁八分一厘余・山役銀二一匁九厘・役漆木八四五本などを負担していた。


小山村
おやまむら

[現在地名]野田市小山、茨城県岩井市小山

船形ふなかた村の北東にあり、利根川の両岸を占めるが、集落の大半は左岸(現茨城県側)にある。天正二年(一五七四)一二月二日の古河公方足利義氏の料所目録(喜連川文書)には「を山」とみえ、安西但馬守が知行していた。猿島さしま郡に属し、関宿藩領。元禄郷帳では高七一四石余。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)によると本高六六四・一一九石、新高六八・四一九石。本田二二町三反九歩、本畑七八町七反六畝二歩、新畑八町五反四畝一三歩、家数一二二。人口八四八(男四三九・女四〇九)のうち出家五・道心三・山伏五・行人一・神子四。


小山村
こやまむら

[現在地名]鏡村小山

梅木うめのき村の南にあり、集落は標高四〇〇―五〇〇メートルの山腹に立地。領家郷一四ヵ村の一で「土佐州郡志」には「当梅木南、東限梅木石神、西限成山、南限領家、北限梅木、東西二十七町南北二十町余、(中略)其土黒」とみえる。天正一七年(一五八九)の領家山地検帳に「小山之村」がみえ、すべて針原はりはら名からなり、無姓の者の作・扣となっている。針原名の名本は東方約六キロの針原村(現高知市)に居住するが、小山村での作職はない。地積二町三反余のうち田一町九反余・畠三二代余・屋敷四反余で、屋敷五筆はすべて居屋敷。


小山村
こやまむら

[現在地名]会津高田町吉田よしだ

みや川左岸の扇頂部付近にあり、東は堀内ほりのうち村・仁王にんのう村。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、冑組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一〇一石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高一一五石余。化政期の家数一六八(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数二一・人数一一(人員録)


小山村
こやまむら

[現在地名]南光町小山

佐用郡に属し、米田よねだ村の東、千種ちくさ川と志文しぶみ川の間の丘陵地に立地する。正保(一六四四―四八)以後に米田村から分立して成立。元禄郷帳に古くは米田村の注記付きで村名がみえ、高六一石余。江戸期の領主の変遷は林崎はやしさき村に同じ。年貢米などは久崎くざき(現上月町)河岸へ道程一里一三町、駄賃一匁で運び、赤穂へ津出しした(延宝七年「津出し道法等書上」間嶋家文書)


小山村
こやまむら

[現在地名]下郷町豊成とよなり

上添わそう村の西、阿賀川左岸の段丘と山地に立地。下野街道が通る。南山御蔵入領楢原組に属する。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」に村名がみえ、鎮守は上添村の小倉大明神を同村・くら村と共同で祀っていた。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)によれば高一一石余、反別田一反・畑二町、家数一・人数六。宝暦八年(一七五八)の家数二・人数九(「会津郡大沼郡人別牛馬改帳」阿久津家文書)


小山村
こやまむら

[現在地名]御津町野々口ののくち

旭川右岸、野々口村の北に接する。田畑は旭川の氾濫原を中心に開かれ、集落は村の中ほどを南北に通る津山往来沿いおよび山際に散在する。寛永備前国絵図に高八〇石余とある。「備陽記」では田畑一一町二反余、家数二四・人数一九三、池五。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、田高八〇石余・五町四反余、畑高五三石余・六町二反。直高一六九石余ですべて蔵入。家数四四・人数一七一、牛一四、池五、樋六、藪一町四反余、百姓自林一〇町八反、猟師鉄砲二。


小山村
こやまむら

[現在地名]大野村小山

鹿島灘沿岸にあり、北は荒野こうや村、南は清水しみず(現鹿島町)。天正一九年(一五九一)佐竹氏一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「こやま」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、清水村の内にあった。元禄期(一六八八―一七〇四)頃には自立し、元禄郷帳に村高一二二石余とある。


小山村
こやまむら

[現在地名]上川村豊川とよかわ 小山

常浪とこなみ川右岸に位置し、北は太田おおた村。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「小山 百壱石一升」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は一一一本(津川旧記)。貞享二年(一六八五)の地下風俗家業旧例改帳(玉木敏雄氏蔵)によれば雑紙役四束。


小山村
おやまむら

[現在地名]秋田市豊岩小山

雄物川左岸の河岸段丘北側に立地。豊巻とよまき村より半里南東にある。豊巻村前郷まえごうなどから移住した人々が一村をなしたという。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)によれば太閤蔵入地。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二八七石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「四十軒。


小山村
こやまむら

[現在地名]西区玉津町小山たまつちようこやまあまおか長畑町ながはたちよう

明石川中流左岸の段丘に位置し、南はしん村。三木への道が通る。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方三六三石余・畑方七一石余、芝山あり。天保郷帳では高四五一石余、旧高旧領取調帳では高三九五石余。


小山村
こやまむら

[現在地名]津和野町山下やました

市尾いちのう村の北西、須郷田すごうだ(五七四メートル)南麓の山間村。津和野川沿いに集落がある。明治四年(一八七一)の万手鑑によれば古高六六石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一二二石余、明治四年の総高一九五石余・反別三一町三反余、家数三四(うち士族一・本百姓二三)・人数一三三(うち士族五・本百姓一〇八)、牛三六、紙漉舟一四、鉄砲六。


小山村
こやまむら

[現在地名]守谷町小山

辰新田たつしんでん村の南に所在。「北相馬郡志」に「天慶年間将門東国合戦の時老臣増田監物爰に本城の防兵を構ひ古山と称し後ち此地開けて古山村と称す、天正十年土岐内膳領主となりしが当時五、六戸にして一村をなし小山村と改称す」とみえている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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