高田土居城跡(読み)たかだどいじようあと

日本歴史地名大系 「高田土居城跡」の解説

高田土居城跡
たかだどいじようあと

[現在地名]みなべ町気佐藤

南部みなべ川左岸に広がる沖積平野に区画された条里型地割の南端部、標高五メートル付近に位置する。平野部周辺は中世には高野山領南部庄に含まれ、当時の景観を今に残している。高速道路のインターチェンジの建設や県道の改良工事などに伴い、平成一一年度と一三年度に発掘調査が行われ、内郭部と外郭部からなる大規模な城であることがわかった。

「高田城」の名で年不詳一〇月一七日の畠山政長感状(湯河家文書)や年不詳六月五日の畠山尚慶感状(米良文書)に、「高田要害」の名で前掲畠山政長感状、年不詳八月一六日の畠山政長書状(米良文書)、年不詳一〇月五日の神保長誠書状(同文書)に登場し、一五世紀後半代に守護畠山氏の家督相続による内訌で争奪戦が行われていることが記されている。当地には紀伊国おく郡の小守護代がいたことが庄内にある須賀すが神社の棟札、高野山文書、「熊野詣日記」などにより明らかで、一五世紀前半代には中村氏が、一五世紀中頃から一六世紀前半頃にかけては野辺氏が小守護代として居城したと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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