日本歴史地名大系 「魚崎村」の解説 魚崎村うおざきむら 兵庫県:高砂市魚崎村[現在地名]高砂市伊保(いほ)一―四丁目・伊保東(いほひがし)一―二丁目・伊保港町(いほみなとまち)一―二丁目・松陽(しようよう)一丁目・同三―四丁目・伊保崎南(いほざきみなみ)・伊保崎(いほざき)一―六丁目・高須(たかす)・梅井(うめい)一―二丁目・同四丁目・伊保町伊保崎(いほちよういほざき)・荒井町新浜(あらいちようしんはま)二丁目・中筋(なかすじ)五丁目・竜山(たつやま)一―二丁目洗(あらい)川(現法華山谷川)を隔てて今市(いまいち)村の西に位置し、竜山丘陵の南方に立地する。印南(いなみ)郡に属した。古代から中世にかけては伊保崎と記されることが多い。寛治四年(一〇九〇)七月一三日の年紀をもつ「賀茂社古代庄園御厨」のなかに御厨散在所々の一つとして「播磨国 伊保崎」が記されている。京都下鴨社の御厨の一つであった。中世には伊保庄に属した。正応二年(一二八九)五月日の僧快円・源有家連署父母遺領等配分状案(祇園社記)には正一殿分として魚崎などの広峯(ひろみね)神社(現姫路市)檀那が譲られている。南北朝期のものと推定される賀茂御祖社社領目録(賀茂神社文書)には御厨所のなかに伊保崎がみえる。天正一六年(一五八八)一二月二五日の伊保庄指出案(曾根文書)に「いほさき村分」として五一九石一斗四升が記される。なお天福元年(一二三三)源経家は出家して時光坊と号して、須磨(現神戸市須磨区)・明石を経て伊保崎心光寺(近世には網堂とよばれる)に入室している(「播州遍照山時光寺縁起」智恵袋)。慶長国絵図に村名がみえ、ほかに新屋敷(しんやしき)・東(ひがし)村が記される。 魚崎村うおざきむら 兵庫県:神戸市東灘区魚崎村[現在地名]東灘区魚崎南町(うおざきみなみまち)三―五丁目・同七―八丁目・魚崎西町(うおざきにしまち)一―四丁目・魚崎中町(うおざきなかまち)四丁目住吉(すみよし)村の南東、住吉川河口沖積地に位置する。南は大阪湾に面する。正応二年(一二八九)五月日の僧快円・源有家連署父母遺領等配分状案(祇園社記)によると、広峯(ひろみね)社(現姫路市)の檀那所在地に魚崎がみえ、同社の公事として年に京上夫一人を負担することとなっていた。永徳二年(一三八二)二月一二日の長盧寺宗算跡諸方出挙方証文目録(大徳寺文書)には、応安三年(一三七〇)「うおさきの教法房」に年利六割で一石が貸付けられている。文安二年(一四四五)の兵庫北関入船納帳によると、同年の入船船籍地に魚崎とあるものが一〇艘以上あり、積荷の大部分は米(八〇石から一一石)、ほかに大麦・赤米、船頭は兵衛、問丸は道祐が記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by