日本歴史地名大系 「八幡宮神社」の解説
八幡宮神社
はちまんぐうじんじや
〔中世―下津八幡宮〕
当社蔵の永暦元年(一一六〇)三月日の対馬国下津八幡宮所司解案に「八幡宮師等」とあり、宮司らが灯油料畠について国裁を申請している。これを最古とする古文書数十通があり、文治五年(一一八九)八幡宮主神司掾官に藤原秋依が補任され(同年四月二日「留守所下文写」八幡宮文書、以下断りのない限り同文書)、建久元年(一一九〇)「八幡宮大宮大宮司職」に譜代の旨にまかせ掾藤原秋依が補任された(同年七月六日下津八幡宮政所下文案)。文永四年(一二六七)二月二〇日の講師某注進状写に下郡の筆頭に八幡新宮が記される。同一一年一〇月「対馬国府八幡宮」「国府鎮守八幡廟宮」の仮殿が炎上、これが前兆であるかのようにその夕刻に蒙古賊船が襲来したという(「日蓮聖人註画讃」・永禄九年「元祖蓮公薩垂略伝」)。
南北朝期、宗宗香は「しもつ八はん」の一日「さへい」の神事について、先例にまかせて、役供物人を大掾の使いに渡すことを「さすのこほり」「いなのこほり」「さこのこほり」「つゝのこほり」「みねのこほり」の沙汰人中に命じた(年未詳一二月一一日「宗宗香書下写」宗家判物写)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報