鴨部庄(読み)かべのしよう

日本歴史地名大系 「鴨部庄」の解説

鴨部庄
かべのしよう

江戸期の鴨部下庄かべしものしよう・同中筋なかすじ・同東山ひがしやま各村を遺称地とし現志度町鴨部・鴨庄かもしよう小田おだ一帯に比定される。保延三年(一一三七)四月日の光清・任清連署譲状案(石清水文書)に初めてみえ、古代・中世を通じ山城石清水いわしみず八幡宮領として終始した。「和名抄」にみえる寒川さんがわ鴨部かも郷の郷名を継ぐ。右の譲状案によれば石清水社検校以下の祠官職を紀氏一族で独占する道を開いた検校光清は、嫡男の別当任清との連署をもって、娘の鳥羽院女房美濃局に讃岐国内の当庄や阿野あや新宮しんぐう三野みの山本やまもと(現三豊郡山本町)など六ヵ所を譲与した。この六ヵ所は、美濃局が長承元年(一一三二)に生んだ鳥羽院の第六皇子で幼時「六宮」とよばれた、のちの近江園城おんじよう寺の長吏道恵法親王(本朝皇胤招運録)の安泰を祈るため、光清の発願により石清水社内に建てられた観音堂領に充てられた。これらの庄園の年貢はまず観音堂の費用に充てられ、その残りは存命中は同親王のもとへ納められることとされた。同堂の院主職は光清の子で当時修理別当であった最清がもち、六宮の死後は院主職を継いだ最清の門弟が堂領を相伝すると定めた。

仁安三年(一一六八)四月二五日の官宣旨案(石清水文書)および安元二年(一一七六)六月一〇日の後白河院庁下文案(同文書)によれば、仁安三年四月道恵法親王は死去に際して、当庄以下の観音堂領を弟子の鳥羽宮法印定恵へ譲与し勅許を得た。最清は久寿二年(一一五五)に死去していたが、この譲与は光清が美濃局に譲与した際の約束に明らかに背くものである。


鴨部庄
かんべのしよう

荘名は「和名抄」記載の越智郡鴨部かもべ郷に由来するものと思われる。同郷は現玉川町全域を含む広域のものであったと推定されるが、荘域については不詳。嘉祥三年(八五〇)伊予国の鴨部首福主が窮民を救済して位階一階を進められているが(「文徳実録」七月九日条)、当地方との関係は明確ではない。

荘名は建長七年(一二五五)一〇月日の伊予国神社仏閣等免田注進状案(国分寺文書)にみえ、荘内に八幡三昧堂分六丁・佐礼寺分九丁二反余・兼信分二丁八反余等の免田があったことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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