日本大百科全書(ニッポニカ) 「鴻池新六」の意味・わかりやすい解説
鴻池新六
こうのいけしんろく
(1570―1650)
鴻池家の始祖。新右衛門(しんえもん)ともいい、幸元(ゆきもと)と称す。家伝では、遠祖山中鹿介幸盛(しかのすけゆきもり)の次男であり、摂津川辺(かわべ)郡鴻池村(兵庫県伊丹(いたみ)市)で成長、武士を捨て濁り酒の行商をし、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)澄酒(すみざけ)(清酒)醸造を始める。『摂陽落穂集(せつようおちぼしゅう)』は、鴻池山中酒屋の下男が、主人に腹いせのため灰を酒桶(さかおけ)に投げ込んだのが、偶然清澄な香味のよい酒に変わり「夫(それ)よりにごり酒にすまし灰を入れ、清くすみ渡りたる上酒とし、売初め」「次第(しだい)と商売繁昌(はんじょう)し、後世富家の第一となりたる」という。諸白(もろはく)造り、灰汁(あく)入り造りは、それ以前からあるが、後年の名声により鴻池の清酒が元祖とされる。また、2斗入り2樽(たる)を1荷とし、担って江戸に下り、流通経費銭350~360文を要したが、酒1升200~300文という高値で江戸の大名衆に販売し「美酒なき故、うばひとりがちに売りはやらかし、頻(しき)りに上下して夥(おびただ)しく利をえた」ので、4斗入り2樽を馬1駄(だ)として数十駄ずつ送り、清酒江戸積みの元祖とされる。新六には8男2女があり、二男秀成(ひでなり)(分家山中家祖)、三男之政(ゆきまさ)(和泉(いずみ)町鴻池家祖)は、大坂に出て酒造業を始めた。新六も、1619年(元和5)大坂内久宝寺(うちきゅうほうじ)町で酒造を始め、九条島(港区)開発後、廻船(かいせん)で江戸へ積み送ったといわれている。
[川上 雅]
『宮本又次著『大阪経済文化史談義』(1980・文献出版)』