鴻池家
こうのいけけ
江戸時代の大坂の豪商。始祖新六(しんろく)は、武士を辞めて摂津川辺(かわべ)郡鴻池村(兵庫県伊丹(いたみ)市)に住み、清酒醸造法を始めて巨利を博し、のち大坂内久宝寺(うちきゅうほうじ)町(大阪市中央区)に移り、さらに海運業にも手を伸ばした。
新六の八男正成(まさなり)(1608―1693)は、初代善右衛門(ぜんえもん)を称し、九条島(港区)を拠点として清水諸白(しみずもろはく)酒の江戸積みに従事していたが、1650年(慶安3)内久宝寺町店を継ぎ、酒造・海運のほかに両替屋を始めた。2代喜右衛門之宗(きえもんゆきむね)(1643―1696)のとき、1670年(寛文10)天王寺屋(てんのうじや)、平野屋(ひらのや)などとともに十人両替の一員となった。鴻池家の寛文(かんぶん)10年初冊『算用帳』は、西国五藩貸銀・江戸積み米・町人貸の預け銀有銀(ありぎん)から負債を差し引きした有銀を流動的な純資産=元銀=資本とし、これに浜家賃(はまやちん)・利銀・為替打銀(かわせうちぎん)を加えた合計から、利打銀・小判売買損銀を控除して有銀を算定するもので、複式記帳の初見である。また、酒の江戸積み代金を超えて、大坂問屋の江戸問屋への貸勘定を大名貸金の江戸屋敷仕送りに替(かわ)す「江戸為替」を取り組み、大坂登米(のぼせまい)で返済するという、大名財政―鴻池両替店―問屋の信用体系も成立している。1674年(延宝2)には、今橋二丁目浪花(なにわ)橋角に両替店を移し、ここを本拠地とした。
3代善右衛門宗利(むねとし)(1667―1736)は、1682年(天和2)家督を継いだ。彼の時代に鴻池家はさらに発展を遂げ強固な基盤を築いた。元禄(げんろく)期(1688~1704)には手船100余艘(そう)をもち、さらに250艘新造を約して、十組問屋の結成と廻船(かいせん)問屋の船手支配を成功させている。
家業の隆盛にしたがって、酒造・海運業を廃止し両替屋一本となり、大名貸をはじめ、岡山藩、広島藩の掛屋(かけや)・蔵元を勤めるなど、取引のある諸藩は32に及んだという。1705年(宝永2)宗利は8歳の長男宗貞(むねさだ)(4代。1698―1745)に家督を譲り、河内(かわち)国若江郡内(大阪府東大阪市)の開発に着手、120町歩余の鴻池新田を開き、経営した(のち158町歩余に増加)。
1723年(享保8)、5代宗益(むねます)(1717―1764)の相続に際して、宗利は家憲を定めて、本家当主を中心に結集し、「随分慥(たし)かなる利廻(りまわ)し致し、新規のことに取掛り申さざるよう」堅実な大名貸の徹底を規定した。三井高房(たかふさ)の『町人考見録』(1728)は「鴻池のみ手廻しよく、ますます身上(しんしょう)厚く成り申(もうし)」たという。
初期の貸付金利は年14%であるが、中期以降実効金利が低下、諸藩の御頼談(ごらいだん)で、新借、利下げ、年賦借の掛合いが増加し、浜方先納銀・蔵米切手を質にとる入替両替の大名貸もしばしば行われた。幕府御用は、御買米(おかいまい)を一族で11万8000石(文化(ぶんか)期)、御用金6360貫目(天保(てんぽう)期)など最高額を負担している。幕府、町奉行(ぶぎょう)との結託を強めたため、大塩平八郎の乱では打毀(うちこわし)、火災にあうなどしたが、幕末に至るまで富豪・豪商の地位を保持し、明治維新に際しては新政府財政を援助、経済混乱のなかで家業を存続させた。しかし、産業資本への転化を果たさず、1877年(明治10)第十三国立銀行の創設など金融業中心の経営にとどまった。第十三国立銀行は、1897年鴻池銀行(普通銀行)に改組、1933年(昭和8)山口銀行、三十四銀行と合併し、三和銀行となった。なお、三和銀行は2002年(平成14)東海銀行と合併し、UFJ銀行に、さらに2006年には東京三菱(みつびし)銀行と合併、三菱東京UFJ銀行(2018年三菱UFJ銀行に改称)となった。
[川上 雅 2018年8月21日]
『宮本又次著『鴻池善右衛門』(1958/新装版・1986・吉川弘文館)』▽『勝田貞次著『川崎・鴻池コンツェルン読本』(1999・日本図書センター)』▽『大阪歴史博物館編『豪商鴻池――その暮らしと文化』(2003・東方出版)』
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鴻池家 (こうのいけけ)
江戸時代の大坂の豪商。始祖は新六幸元,初代は鴻池善右衛門正成である。2代目は喜右衛門を名のったが,3代目以後はふたたび善右衛門を名のる。摂津国伊丹出身で近世初頭に大坂に出て,酒造,酒・米の海運,大名貸,両替業,新田開発を行って,長者番付の筆頭にあげられるような富を築いた。1670年(寛文10)から残されている〈算用帳〉は現存する日本最古の複式簿記帳であり,同家の合理的な経営管理をしのばせる。同家が成功した背景には,戦乱が治まり,江戸開府があり,経済先進地である畿内から多くの商品が江戸へ運送・販売される機構が確立されつつあったことがある。鴻池の諸営業はそれを背景とし,その拠点であった大坂で活躍した。明治以後は,新しい産業体制に適合した三井家や住友家が財閥化に成功したのに対し,同家は転換に遅れをとり,明治末以降は金融業中心の地方的な小財閥にとどまった。鴻池銀行は1933年他2行とともに三和銀行となった。
執筆者:安岡 重明
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鴻池家
こうのいけけ
江戸時代,三井家,加島屋と並ぶ大坂の豪商。先祖は山中幸盛の次男新六といわれる。摂津国川辺郡鴻池村で濁り酒の醸造販売を始め,さらに清酒の醸造にも成功。元和5 (1619) 年大坂に進出し,醸造業のかたわら海上運送も始めた。明暦2 (56) 年両替商を開業してからは醸造業,海運業をやめ,もっぱら両替商と蔵元,掛屋を兼ね,大名貸を営むにいたった。さらに幕府御国役,東西両奉行の掛屋もつとめ,蓄積した資本を新田開発に投資した。明治維新の変転期に手痛い打撃を受けたが,新政府に協力するなどして困難な時期を切抜け,その後も大阪財界で重きをなした。しかし,その経営は保守的で,人材に欠けたこともあって近代的な総合財閥に成長することなく,事業の主体は第十三国立銀行 (1877設立) を引継いだ鴻池銀行の経営など金融方面におかれた。 1933年山口銀行,第三十四銀行とともに,三和銀行に吸収合併されたのちは経済界での支配力はほとんどなくなった。
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鴻池家
こうのいけけ
近世以来の大坂の豪商。始祖新右衛門が始めた酒造・金融業などを基礎とし,その子孫や奉公人が善右衛門本家のほかに分家・別家をたて,巨大な同族集団を形成した。有力分家としては,新右衛門の次男・三男に始まる栄三郎・新十郎家,4代善右衛門の娘夫婦がおこした善五郎家など。著名な別家には,善右衛門家から独立した有力な両替商中原庄兵衛家や町人学者を出した草間伊助家がある。分家・別家は本家との関係や業種などにそれぞれ特色があるが,金融業へのかかわりは共通した。明治維新後の大名貸債権切捨てにより打撃をうけたが,1877年(明治10)10代善右衛門幸富が第十三国立銀行(のち鴻池銀行をへて三和銀行,現在は三菱東京UFJ銀行に合併)を設立,これに加わった者も多い。しかし,他の財閥ほどには積極的経営を進めなかったため,第2次世界大戦後は影を薄くしていった。
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世界大百科事典(旧版)内の鴻池家の言及
【家法】より
…元禄期(1688‐1704)の投機型商人として一代で産をきずいた奈良屋茂左衛門の1714年(正徳4)の遺言状は,死後の財産管理についての指針を示した家法の先駆的なものといえる。17世紀以降三都に呉服・両替店を設けた三井家の家法は,初代高利の1694年の遺書を祖型とし,1722年(享保7)2代高平の《宗竺遺書》によって確定したといわれ,また大坂随一の豪商鴻池家の場合も,その家法とされる23年の《家定記録覚》は経営の基礎を固めた3代宗利の作成した《先祖之規範幷家務》を集大成したものである。両家家法の内容はそれぞれ個別のものではあるが,その骨子は同族経営の安定性を確保するための家制度のあり方,具体的にいえば,親族・同族の範囲の規定,家督相続法,家産の管理・運営にかかわる定律であり,それを支える営業面での経営方針の明確化,経営組織の合理化・整備,家長の独裁・恣意を抑制する合議制の導入,奉公人の雇用制度・服務規定・冠婚葬祭等に関する精細な規定を伴うものであった。…
【鴻池新田】より
…河内国若江郡の北東隅(現,東大阪市)に位置している。大坂の豪商鴻池家の3代目善右衛門宗利の資力によって旧大和川支流(玉串川)の流末沼沢地の一部を干拓して造成した。町人請負新田の代表例とされている。…
【商業帳簿】より
…この財産勘定のほか,純資産額と前期末純資産額とを比較して資産の増減を確認する方式や,期末の純資産から諸経費を差し引き,純益を求める損益計算を行っている例もまれではない。3都に活躍した三井家,大坂の鴻池家,江州日野の中井家などの帳合法は,記帳法においては西洋式簿記のような取引の貸借複記の形式をとっていないが,原理的には財産勘定と損益計算からなる複式決算構造をもつ,きわめて合理的な決算簿として評価されている。【鶴岡 実枝子】。…
【手代】より
… 手代以上になると,給金のほか各種の報償金が与えられた。例えば大坂の両替商鴻池(こうのいけ)家では,〈名付銀〉〈催合銀(もやいぎん)〉などが与えられた。名付銀は幼年より奉公した者には22,23歳時に,途中採用のもの(外様奉公人)には奉公して8~9年後に与えられ,それ以降2~3年おきに支給された。…
【のれん分け(暖簾分け)】より
…また借家人のなかには縫仕立屋などの職人が居をかまえていた。こうした状況は,大名貸で著名な鴻池家のあった今橋2丁目でも同じで,町内の地主28人のうち,鴻池を名のる者は12人もいる。鴻池家の本家を中心に暖簾内で町内が構成されていたといえる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」