鹿妻穴堰
かづまあなぜき
雫石川南岸と北上川西岸を潤す灌漑用水路。鹿妻堰とも称する。現在は江戸時代初期に開削された鹿妻穴堰(鹿妻本堰)と、鹿妻穴堰の分流で昭和初年に開削された鹿妻幹川水路(新鹿妻堰)があり、灌漑面積は前者が二八〇二ヘクタール余、後者が一七四六ヘクタール余。受益地域は盛岡市の本宮・太田地区、都南村の飯岡・見前地区、矢巾町の煙山・不動・徳田地区、紫波町の古館・水分・日詰地区に及ぶ。この地域(通称紫波平野)は奥羽山脈の南昌山地の東麓断層下に発達した上位扇状地・下位扇状地・低地上段・低地下段(北上川氾濫原)の四地形からなり、ほぼ鹿妻穴堰が低地上段、鹿妻幹川水路が下位扇状地を潤す。
鹿妻穴堰の開削年代について、「内史略」や「篤焉家訓」は慶長四年(一五九九)としている。取水口を雫石川右岸の上太田村(現盛岡市)と繋村(現同上)の境の穴口に設け、盛岡藩は鉱山師の釜津田(鎌津田)甚六を登用し湯坂山の連崖剣長根に長さ約六間、幅約一間の隧道を掘ったという。甚六は生没年など詳細は不明であるが、閉伊郡釜津田村(現下閉伊郡岩泉町)出身とも稗貫郡大迫(大迫町)出身とも伝え、「篤焉家訓」によればその功により田地を与えられたという。この時どこまで用水路が開削されたかは不明であるが、当堰の名は鹿妻村(現盛岡市)に引水することを目的としたことに由来するという(鹿妻穴堰開発史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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