鹿留村(読み)ししどめむら

日本歴史地名大系 「鹿留村」の解説

鹿留村
ししどめむら

[現在地名]都留市鹿留

北東流する桂川右岸に位置し、対岸夏狩なつがり村。西・南・東の三方に高山が連なり、南北に長い村域の過半山地が占める。ほぼ中央部を鹿留川が蛇行しながら北流して桂川に注ぐ。南西小明見こあすみ(現富士吉田市)との山境辺りから大沢おおさわ川が東流し、鹿留川に合流する。集落は鹿留川下流右岸の古渡こわたり(小渡)、対岸の宮下みやしたを中心に比較的平坦な両岸に点在する。鹿留川の最上流域に富士信仰の山であった御正体みしようたい(一六八一・六メートル)がある。江戸期から御正体山へは道志どうし(現道志村)開地かいち口と鹿留口の三つの信仰の道があったが、このうち村域を通る鹿留口が一般的に使用された。文化三年(一八〇六)の御正体山絵図(都留市蔵)によれば、鹿留口は鹿留川が蛇行するため右岸、あるいは左岸をたどって上流へ登り、現在はおきと総称される最奥の地区あたりで里宮に至り、里宮からは急峻な登山道に入って籠り屋に着く。室町時代から村名がみえ、宍富とも書く。当地の光照こうしよう寺旧蔵の応永一八年(一四一一)一二月一七日の紀年銘をもつ梵鐘に「甲斐州鶴郡宍富村大医山広照禅寺」とある(甲斐国志)。永正五年(一五〇八)七月二八日の旦那願文案(熊野那智大社文書)に「しゝとみ」住の渡辺安衛門と源六、天文一八年(一五四九)八月六日の旦那願文(同文書)には「しゝとヰ」の住人として「はんはの村」渡辺新衛門尉、「同かぬま」の渡辺弥次郎ら八名の名がみえ、シシトミ、シシトイともよばれていたと考えられる。このうち「はんはの村」は地内の馬場ばばを遺称地とするとみられ、「うえ狩の村善三郎」も現都留市域にあった村の住人とも考えられるが、比定地は未詳

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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