鹿籠村
かごむら
[現在地名]枕崎市
東本町・
西本町・
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東鹿籠・
西鹿籠・枕崎・
別府 現枕崎市域を村域とする村。中世には鹿児村などと記された。東は知覧郷西別府村(現知覧町)、北は山田郷上山田村(現川辺町)・加世田郷津貫村(現加世田市)、西は坊泊郷坊村・泊村(現坊津町)、南は海に面する。村の西寄りを花渡川が南流し、下流は小湊川という。概して北高南低の地勢で、海岸部に枕崎浦・白沢津浦および塩屋八ヵ村と称される塩焼の村がある。海岸に沿って山川郷へ至る道、およびこれから分岐して川辺郷を経て鹿児島城下へ至る道がある(元禄国絵図)。喜入氏の私領鹿籠郷は当村のみで構成されていた。ただし「三州御治世要覧」では鹿籠村一村だが、同書には元禄一一年(一六九八)に「田布川村・別府村・里村ト三ケ村ニ相分候由、郷村帳ニ見ル」とあり、藤井本「要用集抄」は正徳三年(一七一三)頃の鹿籠郷を三ヵ村(村名はなし)としている。なお大字の東鹿籠・西鹿籠は、現在行政上は東鹿篭・西鹿篭の表記を用いる。
〔近世〕
文禄五年(一五九六)正月二〇日の島津忠恒加増目録(旧記雑録)に「鹿籠之内別府村」の「真萱之門」は高一六〇石余とあり、現在別府のうちに真茅の通称が残る。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高五千六三九石余。元禄国絵図には同高の鹿籠村のうちとして高付されていない枕崎村がみえる。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高二千九三三石余。明治二年(一八六九)鹿籠郷が坊泊郷・久志秋目郷(現坊津町)と合併して南方郷となった際、当村は常備隊編制の都合上、家中士の少なかった地域を別府村として分村。旧高旧領取調帳では鹿籠村は高二千七九〇石余、別府村は高三九八石余。明和四年(一七六七)の鹿籠名数記(伊集院家文書)によると、門数六一・屋敷数二三、神社五三・堂二八・寺院一二があり、牧野(鹿籠牧苑)には領主放牧馬五八・家中放牧馬一三〇がいた。枕崎・白沢(白沢津)両浦の船数一七〇余・水手三三七、所内戸数三千・人数八千一五八、牛馬二千八、九〇〇、用夫一千六三、五人組は一七組、ほかに浦浜の五人組は四組。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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