日本歴史地名大系 「麻生庄」の解説
麻生庄
あそうのしよう
北九州市
建長元年(一二四九)六月二六日の北条時頼袖判下文(麻生文書/鎌倉遺文一〇、以下断りのない限り同文書)に「山鹿庄内麻生庄」とみえ、山鹿庄内の当庄と
〔南北朝の動乱と麻生氏〕
建武三年(一三三六)麻生宗教(家宗、資氏の孫)は足利尊氏から軍忠を賞され(同年七月一四日「足利尊氏感状」南一)、暦応三年(一三四〇)には麻生次郎が足利直義から大和国吉野への通路にある関所の警固を命じられており(同年三月一二日「足利直義軍勢催促状」南二)、麻生氏は南北朝動乱の初期から尊氏方に属して畿内・近国で戦い、観応の擾乱に際しても尊氏方にくみしている(観応元年四月一九日「足利尊氏感状」南三など)。南北朝の動乱を経て麻生氏はその所領を拡大し(文和四年一一月二五日「一色直氏宛行状」南四など)、延文四年(一三五九)には鎌倉時代からの足利氏所領と考えられる
〔幕府奉公衆麻生氏と大内氏の結び付き〕
永享以来御番帳(群書類従)には麻生上総介(家春か)の名がみえ、大内周防守(盛見か)などとともに室町幕府奉公衆のうち五番衆に属していた。
麻生庄
あそうのしよう
現蒲生町の南東部、日野川中流域右岸に位置した庄園。下麻生の
鎌倉時代末期になると花山院家の当庄に対する領有も不安定なものとなったようで、元弘三年(一三三三)には幕府により大塔宮討伐の恩賞の地とされ(楠木合戦注文)、鎌倉幕府滅亡後の建武五年(一三三八)には足利尊氏が当庄を京都祇園社に寄進(「社家記録」文和元年一二月二六日条)、暦応三年(一三四〇)一〇月二三日には造祇園社雑掌の申請に基づき、同社造営料所の当庄に対しての武家による兵粮料と号した譴責および狼藉を停止している(「足利尊氏御教書」山部神社文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報