日本歴史地名大系 「黒島村」の解説 黒島村ふしいまむら 沖縄県:八重山諸島竹富町黒島村[現在地名]竹富町黒島(くろしま)黒(くろ)島全島を村域とする。地元ではフシィマと発音する。近世初期黒島には宮大里村(高四〇石余)・中大里村(高二〇石余)・迎里(んぎすとう)村(高二六石余)・はいひた村(高三二石余)・崎原村(高七石余)・ひかち村(高二一石余)・ほふり村(高六二石余)・ふかい村(高一六石余)の八村があった(両島絵図帳)。宮大里村はほぼ現在の宮里(みやざと)(方音メシトゥ)集落、中大里村は仲本(なかもと)(方音ナハントゥ)集落、迎里村は仲本集落南西の迎里(んぎすとう)御嶽付近、はいひた村は同集落南方の南風保多原(ばいふたばる)、崎原村は東筋(あがりすじ)(方音アースン)集落南の小字崎原(さきばる)、ほふり村は保里(ほり)(方音プリ)集落、ふかい村は宮里集落の北に隣接する小字保慶(ふき)に比定され、ひかち村は不明。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上(八重山島年来記)には石垣(いしやなぎい)間切「くろしま村」と、宮良(めーら)間切「不る村」(「ほり村」とする写本もある)がみえ、このときまでに前記八ヵ村は黒島・保里(ぷり)二村に統合された。しかし各村が二村のいずれに属したかは不明で、伝承では島の北西角から南東に線を引いて西を黒島村、東を保里村としたという。「琉球国由来記」には黒島村の御嶽として迎里御嶽・ハイフタ御嶽・フカイ御嶽・ハイカメマ御嶽が、保里村の御嶽として保里(ぷり)御嶽・仲盛(なはむり)御嶽・西神山(にしかめま)御嶽・喜屋武(けん)御嶽がみえる。順治八年(一六五一)の人口は黒島村二九九人、保里村二八二人(八重山島年来記)。なお黒島には八重山最古の造船所があった。竹富(たけとみ)島から流れ着いた船模型を手本に造ったのが始まりといい(前掲由来記・慶来慶田城由来記)、地船クラスの大船を建造した。 黒島村くろしまむら 石川県:鳳至郡門前町黒島村[現在地名]門前町黒島町道下(とうげ)村の南、日本海に面した海岸および傾斜地に立地。村の起源についてこの釜エ口(かまえぐち)に住し半農半漁の生活をしていた人々が漁業に重きを置くようになり、島(高島か)の近くに移り七軒丁(しちけんちよう)と称したと伝える。永禄八年(一五六五)本誓(ほんせい)寺宗現のもとに鳳至郡の真宗坊主が四組に編成されたが「黒嶋」の観徳が「志津浦・五浦」組一〇ヵ村を代表して署名している(同年一二月一六日「鳳至郡中四組定書」本誓寺文書)。年未詳七月二八日の教如消息(名願寺文書)は、黒島村の太郎右衛門・兵右衛門・弥三らに懇志の銀子献納を謝し、天正八年(一五八〇)頃と推定される九月二日の本願寺印判状(本誓寺文書)でも「クロシマノコウ」から教如に銀子が献納されていた。なお同年加賀一向一揆の旗頭であった河北(かほく)郡の光徳(こうとく)寺(現七尾市)が織田信長に追われ一時当地に移っていたが、前田利家から現在地を与えられ移転している。 黒島村くろしまむら 長崎県:南松浦郡富江町黒島村[現在地名]富江町黒島郷(くろしまごう)富江湾に浮ぶ黒島を村域とする。東方の黄(おう)島・赤(あか)島(現福江市)とともに倭寇の拠点の一つであったとされる。宇久囲を弔うために建立された宝泉(ほうせん)坊(宝仙坊)がある。江戸時代は初め福江藩領で、富江掛に属する。慶長国絵図に黒島とみえ、高八八石余。万治二年(一六五九)の惣高積之帳では黒島として正保国絵図の高四七石余、今高一五七石余、富江領であるが、絵図之帳には別に記載されているという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by