教如(読み)キョウニョ

デジタル大辞泉 「教如」の意味・読み・例文・類語

きょうにょ〔ケウニヨ〕【教如】

[1558~1614]安土桃山時代浄土真宗の僧。大坂の人。いみな光寿顕如けんにょ長男石山合戦織田信長戦い、父の死後本願寺12世を継いだが豊臣秀吉の命で隠退。徳川家康寄進を受け、東本願寺大谷派)を京都に建立した。

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精選版 日本国語大辞典 「教如」の意味・読み・例文・類語

きょうにょケウニョ【教如】

  1. 安土桃山、江戸初期の浄土真宗の僧。東本願寺(大谷派本願寺)初代。顕如(けんにょ)の長男。諱(いみな)は光寿。大坂の人。石山合戦で父とともに織田信長と対戦。本願寺一二世を継いだが、豊臣秀吉の命で弟准如に譲り、のち烏丸に東本願寺を創建した。永祿元~慶長一九年(一五五八‐一六一四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「教如」の意味・わかりやすい解説

教如
きょうにょ
(1558―1614)

安土(あづち)桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺12世で、東本願寺の開創者。幼名を茶々、俗名を光寿(こうじゅ)、信浄院(しんじょういん)と称する。本願寺11世顕如(けんにょ)の長子で、母は細川晴元(ほそかわはるもと)の娘如春尼(にょしゅんに)(1544―1598)。本願寺が織田信長と戦った石山合戦の最末期の1580年(天正8)、開城をめぐって父顕如と対立し、4月の顕如退城後も籠城(ろうじょう)を続け、8月に退出した。以来、信長が没するまで義絶状態となったが、1592年11月に顕如が没すると、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から命ぜられて本願寺12世を継いだ。しかるに如春尼が顕如の譲状を示して弟准如(じゅんにょ)(1577―1631)の継職を秀吉に訴えたので、翌1593年10月退隠を命ぜられ、准如が本願寺住持職についた。以来裏方と称して活動を続け、1602年(慶長7)徳川家康から京都六条烏丸(からすま)の地を寄進され、東本願寺を別立した。

[大桑 斉 2017年6月20日]

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改訂新版 世界大百科事典 「教如」の意味・わかりやすい解説

教如 (きょうにょ)
生没年:1558-1614(永禄1-慶長19)

安土桃山~江戸初期の浄土真宗の僧。諱(いみな)は光寿。顕如の長男。1570-80年の石山本願寺一揆で父とともに織田信長と戦った。和睦により石山本願寺から退去することとなったが,父と同時には退かず,寺内にとどまり再挙のかまえをみせた。92年(文禄1)顕如の跡を継いだが,翌年母如春尼が宗主の地位を末子准如に譲ることを豊臣秀吉に申し出で命令により隠居。信浄院と呼ばれた。徳川家康から新寺建立の許可を得て1602年京都烏丸に東本願寺を別立し,これが東西本願寺分立となる。
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百科事典マイペディア 「教如」の意味・わかりやすい解説

教如【きょうにょ】

東本願寺派第12世法主。諱(いみな)は光寿(こうじゅ),顕如(けんにょ)の子。1570年顕如とともに織田信長と戦い(石山一揆),父の死後法灯を継ぐ。徳川家康の許可を得て,1602年京都七条烏丸(からすま)に東本願寺を創建,以後東西本願寺が並立するに至る。
→関連項目西本願寺東本願寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「教如」の解説

教如(1) きょうにょ

1558-1614 織豊-江戸時代前期の僧。
永禄(えいろく)元年9月16日生まれ。摂津東成郡(大阪府)の浄土真宗石山本願寺11世顕如(けんにょ)と如春尼(にょしゅんに)の長男。元亀(げんき)元年からの織田信長の石山本願寺攻めの際,父をたすけてたたかう。文禄(ぶんろく)元年12世をつぐが,豊臣秀吉の命で弟准如(じゅんにょ)にゆずり退隠。慶長7年徳川家康から京都烏丸(からすま)の地を寄進されて東本願寺を建立し,本願寺は東西に分立。慶長19年10月5日死去。57歳。法名は光寿。
格言など】彼方(織田信長)の表裏眼前に候(信長との和議に反対し,諸国の門徒に送った檄文)

教如(2) きょうにょ

1847-1928 幕末-昭和時代前期の僧。
弘化(こうか)4年生まれ。越後(えちご)(新潟県)の人。万延2年京都の真言宗智積院にはいる。20年にわたって密教をまなび,声明(しょうみょう)もおさめる。明治32年智積院47世,33年最初の真言宗智山派管長となった。昭和3年12月20日死去。82歳。俗姓は瑜伽。法名は法順。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「教如」の解説

教如
きょうにょ

1558.9.16~1614.10.5

織豊期~江戸前期の浄土真宗の僧。本願寺12世,東本願寺初世。童名は茶々丸,諱は光寿。父は11世顕如,母は細川晴元の養女如春尼。1580年(天正8)石山合戦の和議がなり,顕如は紀伊国鷺森に,教如も籠城半年で同じく雑賀(さいか)に退いた。91年,顕如は豊臣秀吉から京都堀川七条の地を得て本願寺(西本願寺)を再興。その没後12世をつぐが,93年(文禄2)秀吉の命で弟准如に譲る。1602年(慶長7)徳川家康から京都烏丸六条に寺地を得て東本願寺をおこした。

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367日誕生日大事典 「教如」の解説

教如 (きょうにょ)

生年月日:1558年9月16日
安土桃山時代;江戸時代前期の真宗の僧
1614年没

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世界大百科事典(旧版)内の教如の言及

【難波別院】より

…本願寺派の津村別院を北御堂(きたのみどう)と称するのに対して,南御堂(みなみのみどう)ともいう。1594年(文禄3)本願寺教如は本願寺住持職を弟准如に譲って隠退,翌95年に摂津国西成郡渡辺の石山本願寺の旧地に寺を営み,大谷本願寺または大坂本願寺と号したのが起源である。1598年(慶長3)現在地に移り,1603年堂舎を完成,これを難波御堂と称した。…

【本願寺】より

…その後83年和泉国貝塚,85年大坂天満(てんま)を経て91年豊臣秀吉の命により京都七条堀川に寺を移した(西本願寺)。1592年顕如の没後,長男教如が継職したが,故あって翌年弟准如に譲り隠退した。1602年(慶長7)教如は徳川家康から寺地を七条烏丸に得て寺を造建(東本願寺)。…

※「教如」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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