黒鳥村(読み)くろどりむら

日本歴史地名大系 「黒鳥村」の解説

黒鳥村
くろどりむら

[現在地名]和泉市黒鳥町・府中ふちゆう町五丁目・伯太はかた町二丁目・桑原くわばら町・山荘さんそう

伯太村南方の平坦地にある。

〔中世〕

古代の和泉郡上泉かみついずみ郷と坂本さかもと郷の境界に位置し、両郷にわたって成立した村。長和三年(一〇一四)宗岡光成は、上泉・坂本両郷内山野と田地二五町の私有公認を求めて留守所に解状を提出したが、その四至の東限は信太しのだ大道と黒鳥道が行会った所であった(同年一〇月一八日「宗岡光成解状案」河野家所蔵文書。以下同文書については個別文書名のみ記す)。黒鳥村の初見は建長八年(一二五六)五月二五日の沙弥蓮覚山林荒野売券で、沙弥蓮覚が上泉かみいずみ庄内の山林荒地を黒鳥村安明あんみよう寺に売渡している。安明寺は後述のように、鎌倉末―室町時代、単に当村にとどまらず上泉郷(庄)・坂本郷(庄)など周辺地域に、経済・文化・信仰生活上で大きな影響力をもつ寺院であった。元弘三年(一三三三)六月四日、上泉郷梨子本なしもと里内黒鳥村が南朝護良親王によって宮内丞為成に宛行われている(脇家文書)。応永五年(一三九八)には黒鳥村に法華(禅)寺があって温室(風呂)が営まれていた(同年一二月一三日沙弥是忠田地寄進状)。長享二年(一四八八)坂本庄代官職をめぐる争いから、細川元治被官人の北村・野田某が黒鳥村備光びこう寺へ入部しようとしたが、坂本庄代官吉井貞祐が相支えて追出している(「北野社家日記」同年一一月二六日条)

正中二年(一三二五)上泉庄梨子本里地頭藤原資員は、仁治元年(一二四〇)の六波羅下知状を確認して、梨子本里内山野一八町と白木谷池(白木池)六底が今後とも安明寺の管領であることを認め、地頭として違乱しないことを約した(正中二年三月二二日「地頭藤原資員下知状案」立石家文書)。元徳二年(一三三〇)前述山野と白木池について本主の儀善房から安明寺へ宛行状が出されている(同年四月二三日「上泉庄梨子本里山野等宛行状」同文書)。白木池はこれよりさき正和四年(一三一五)勧進聖仏阿が、梨子本里の百姓に協力を求めて修固したが、このおり、百姓たちは、用水利用について権門勢家を問わず私の取水・排水を認めないという条件を求め、梨子本里地頭がこれを承認している(同年九月二一日地頭藤原某下文)


黒鳥村
くろどりむら

[現在地名]安芸市黒鳥

安芸平野の西、妙見みようけん(四四八メートル)を中心に南北に連なる山並の南東麓に位置し、北は一宮いちのみや村、東南は安喜浜あきはま村に接し、黒鳥・上野うえの集落に分れる。山際を北へ安喜浜村から畑山はたやま村に至る道が通る。「和名抄」に黒鳥郷があり、村の東が安芸平野に残る条里制地割に接するなど、古くから開かれた地である。中世安芸庄に含まれた。天正一七年(一五八九)の安喜庄地検帳に黒鳥村・下黒鳥しもくろどり村が記され、すでに「ウヘ野」の地名もみえる。


黒鳥村
くろとりむら

[現在地名]黒埼町黒鳥

北場きたば村の西、南は木場きば村。集落は南北に細長い自然堤防上にあり、北端緒立おたての集落がある。正保国絵図では高一〇二石余で幕府領。慶安二年(一六四九)以降村上藩領。天保一〇年(一八三九)の五ケ組御案内帳(吉田昭平氏蔵)では本百姓八二軒・水呑七〇軒、男五〇八・女四五八。


黒鳥村
くろどりむら

[現在地名]安来市黒井田町くろいだちよう

細井ほそい村の南に位置する。正保国絵図に村名がみえ、元禄十年出雲国郷帳によると高一六〇石余、寛文四年(一六六四)には本田高一五〇石余・新田高六石余。「雲陽大数録」では高一五〇石。明治八年(一八七五)細井村などと合併して黒井田村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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