葉室顕隆(はむろのあきたか)(読み)はむろのあきたか

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

葉室顕隆(はむろのあきたか)
はむろのあきたか
(1072―1129)

平安後期の公卿(くぎょう)、白河(しらかわ)院近臣。参議大蔵卿藤原為房(ためふさ)の二男。母は美濃守(みののかみ)源頼国(よりくに)の女(むすめ)。1087年(寛治1)白河院蔵人(くろうど)、左兵衛尉(さひょうえのじょう)となってから諸国の受領(ずりょう)を歴任、蔵人頭(とう)を経て1120年(保安1)従三位(じゅさんみ)、22年参議、ついで権中納言(ごんちゅうなごん)に上る。白河院の寵(ちょう)を得たその昇進は中流貴族としては「世の人耳目を驚かす」ほど異例であったが、同院政下における実際の権力はさらに大きく、「よるの関白」(今鏡)の異名が示すように「天下の政この人の一言にあり、威は一天に振い富は四海に満つ」(中右記(ちゅうゆうき))と評された。院近臣としての奉仕を続ける一方、その室悦子が鳥羽(とば)天皇の乳母(めのと)、別の室が白河院中宮賢子と姉妹であったことを背景に、長子顕頼(あきより)とともに宮廷世界で権勢を振るったのである。大治(だいじ)4年正月15日、58歳で病没、勧修寺(かじゅうじ)流葉室氏の祖となった。

谷口 昭]


葉室顕隆(はむろあきたか)
はむろあきたか

葉室顕隆

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

葉室顕隆
はむろのあきたか

[生]延久4(1072)
[没]大治4(1129)
平安時代後期の廷臣本名藤原顕隆。藤原為房の次男葉室家の祖。白河院の蔵人,蔵人頭を経て,権中納言に就任。白河法皇に信任され,顕隆の室が鳥羽天皇の乳母ということもあり,異例の昇進と権力を持ち,「夜の関白」といわれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説

葉室顕隆 はむろ-あきたか

藤原顕隆(ふじわらの-あきたか)

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世界大百科事典(旧版)内の葉室顕隆(はむろのあきたか)の言及

【葉室家】より

…藤原氏北家高藤の流れ,勧修寺家の分流。藤原為房の次男権中納言藤原顕隆を祖とする。その孫光頼(1124‐73)が山城国葛野郡葉室の地に営んだ別業にちなんで葉室を家号とした。家格は名家。始祖顕隆は白河院の近臣として権勢を振るい,夜の関白と称され,孫光頼も剛直の人と知られ,平治の乱では藤原信西や平清盛とよしみを通じ,平氏政権樹立の道を開いている。また,光頼の孫光親は承久の乱で鎌倉幕府追討の宣旨を書いたために幕府のために斬られ,その子光俊も配流されている。…

【藤原顕隆】より

…平安後期の公卿。参議大蔵卿為房の次男。葉室家の祖。1087年(寛治1)院蔵人に補されて以来,院司として長く白河上皇に仕えたが,また堀河,鳥羽2代の乳母として勢威のあった従二位光子の甥に当たり,かつ妻の典侍悦子も鳥羽天皇の乳母となったため,鳥羽天皇には誕生以来近侍した。天皇の御服以下身辺の用度をつかさどる内蔵頭を10年近くも務めたのも,こうした縁故によるものであろう。1120年(保安1)従三位に昇り,たちまち参議から権中納言に進んだが,とくに関白藤原忠実が白河上皇の勘気にふれて失脚し,宇治に籠居した後は,〈天下の政,此の人の一言にあり〉といわれるほど権勢をほしいままにした。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」