藤原為房(読み)ふじわらのためふさ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原為房」の意味・わかりやすい解説

藤原為房 (ふじわらのためふさ)
生没年:1049-1115(永承4-永久3)

平安後期の公卿。但馬守隆方の長男。母は右衛門権佐平行親の女。1071年(延久3)六位蔵人となって後三条天皇に近侍して以来,白河・堀河両朝の五位蔵人,鳥羽朝の蔵人頭兼内蔵頭として4朝にわたり天皇の側近に仕え,その間,権左少弁,左少弁を兼ね,また遠江加賀尾張の国守を歴任し,1111年(天永2)ついに参議に昇り,ついで大蔵卿を兼ねた。一方,後三条院の判官代,白河院別当に補されるとともに,師実,師通2代の家司として摂関家の家政を執った。15年4月1日,病のため出家,翌日没した。その日記は,官名の大蔵卿により《大府記》《大記》と呼ばれ,内容の豊かな記文を伝えている。また為房を祖とする勧修寺流諸家は,永く実務官僚として活躍し,後世弁官を官歴の特徴とする〈名家〉の過半を占めるに至った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原為房」の意味・わかりやすい解説

藤原為房
ふじわらのためふさ

平安後期の公卿。父は但馬守隆方(たかかた)、母は右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)平行親(ゆきちか)の女(むすめ)。五位蔵人(ごいのくろうど)、左少弁、修理権大夫(しゅりのごんのだいぶ)などを歴任し、1107年(嘉承2)鳥羽天皇の蔵人頭(くろうどのとう)兼内蔵頭(くらのかみ)となる。1111年(天永2)参議、1113年(永久1)には従三位に叙せられた。この間、白河院院庁別当、摂関家の師実(もろざね)・師通(もろみち)の家司(けいし)も務めるなど、天皇家・摂関家ともにその抜群な実務能力に大きな信頼を寄せた。勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏繁栄の基礎を築き、同流長者も為房の系統が独占することになる。子孫は吉田・甘露寺(かんろじ)・清閑寺(せいかんじ)・坊城(ぼうじょう)などの家に分かれた。日記『為房卿記』は六位蔵人となった1071年(延久3)から断続的に1114年(永久2)まで現存する。『撰集秘抄』『貫首抄』『装束抄』などの儀式書を著した。

[美川 圭]

『橋本義彦著『平安貴族社会の研究』(1976・吉川弘文館)』

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朝日日本歴史人物事典 「藤原為房」の解説

藤原為房

没年:永久3.4.2(1115.4.27)
生年:永承4(1049)
平安時代の公卿。但馬守隆方と平行親の娘の子。後三条・白河天皇の近臣で,譲位後は院司として仕える一方,蔵人・弁官を勤め,遠江守・加賀守などの受領を歴任。また摂関家の藤原師実・師通の家司を勤める。寛治6(1092)年為房の下人が日吉社の神人に乱暴を働いたとして訴えられ,阿波に配流されるが,翌年許されて帰京。鳥羽天皇の蔵人頭を経て天永2(1111)年参議,その後大蔵卿を兼ねる。藤原高藤の子孫である勧修寺流では久々に公卿にのぼり,息子の為隆,顕隆ら以後の一門が繁栄する基礎を築いた。後世には博識の人物として高を評を得,大江匡房,藤原伊房と並び「前の三房」と称された。著書に『撰集秘記』『貫首抄』『装束抄』など,日記に『為房卿記(大府記)』がある。<参考文献>橋本義彦『平安貴族社会の研究』,河野房雄『平安末期政治史研究』

(吉田早苗)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原為房」の意味・わかりやすい解説

藤原為房
ふじわらのためふさ

[生]永承4(1049).京都
[没]永久3(1115).4.2. 京都
平安時代の廷臣。隆方の子。母は平行親の娘。左近将監,遠江守,防鴨河使 (ぼうかし) ,周防介,左少弁,加賀守などを歴任,寛治6 (1092) 年彼の下人が日吉社神人 (じにん) を凌轢した罪で解官され,阿波権守に左遷された。翌年許されて帰京,修理権大夫,蔵人頭,参議,正三位にまでなった。その間,院別当 (白河上皇の) や,摂関家の家司にもなった。大江匡房,藤原伊房とともに,「前の三房」の一人。勧修寺,吉田,坊城,万里小路家の祖。

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百科事典マイペディア 「藤原為房」の意味・わかりやすい解説

藤原為房【ふじわらのためふさ】

平安後期の高官。但馬守隆方の子,母は右衛門権佐平行親の女(むすめ)。1071年以来,蔵人として後三条・白河・堀河・鳥羽4朝にわたり天皇の側近に仕え,その間,権左少弁,左少弁を兼務,また遠江・加賀・尾張の国守を歴任した。1111年参議となり,大蔵卿を兼ねた。摂関藤原師実・師通2代の家司として家政をとり,白河院中では別当としても活躍した。《大府記》《大記》とよばれる日記が残る。なお為房を祖とする勧修寺流諸家は,実務官僚として長く活躍した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原為房」の解説

藤原為房 ふじわらの-ためふさ

1049-1115 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
永承4年生まれ。藤原隆方の長男。鳥羽(とば)天皇の蔵人頭(くろうどのとう),摂関家の家司(けいし),白河院の別当として活躍。天永2年(1111)参議となり,3年大蔵卿を兼任。正三位にいたる。勧修寺(かじゅうじ)家の基盤をきずき,博学で大江匡房(まさふさ),藤原伊房(これふさ)とともに「前(さき)の三房(さんぼう)」と称される。永久3年4月2日死去。67歳。日記に「為房卿記」,儀式書に「撰集(せんじゅう)秘記」。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原為房の言及

【三房】より

…時代の違いにより前三房と後三房とがある。前三房は平安時代の摂関期から院政期にかけて活躍した藤原伊房(これふさ),大江匡房(まさふさ),藤原為房。伊房は名筆として有名な藤原行成の孫で書家として高名なだけでなく,後三条天皇,白河天皇に仕えて実務家としても腕を振るった。…

【為房卿記】より

…参議藤原為房の日記。大蔵卿の職にあったことから,その唐名〈大府卿〉によって《大府記》《大記》などともいう。…

※「藤原為房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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