フランスの哲学者。ボルドーで生まれる。ドイツのバーデンバーデン、ついでドルドーニュ県で中等教育、トゥールーズ大学とパリ大学で高等教育を受け、ポール・リクールの下でヘーゲルの宗教論に関する修士論文を提出。大学教授資格取得(1964)以後、ストラスブール大学で教鞭(きょうべん)をとる。ドイツ、ベルリン大学、アメリカ、カリフォルニア大学などにも出講。
ストラスブール大学での同僚ラクー・ラバルトPhilippe Lacoue-Labarthe(1940―2007)との共同作業は、ラカン批判である『文字の資格』Le titre de la lettre(1972)やドイツ・ロマン主義研究『文学的絶対』L'Absolu littéraire(1978)などの共著、ニーチェの『悲劇の誕生』などの共訳だけでなく、「政治的なものをめぐる哲学的研究センター」(1980~1982)やデリダをめぐるコロック(合宿討論会)「人間の諸終焉(しゅうえん)=目的」(1982)、「ヨーロッパ文学の十字路」(1988~1993)の共宰など多岐にわたっていた。
ナンシーの思想は、哲学、美学、政治の三つの領域を横断していた。哲学の領域では、形而上(けいじじょう)学の脱構築というハイデッガーあるいはデリダの哲学的要請を引き受け、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッガーらのテクストを考察。美学の領域では、『ミューズ』Les Muses(1994)、『隠された思考』La pensée dérobée(2001)、『イマージュの背後に』Au fond des images(2003)などの著作がある。政治の領域では、『ナチ神話』Le mythe nazi(共著、1990)、グローバリゼーション論『世界の創造』La création du monde ou la mondialisation(2002)、戦争論、移民問題論などがある。
この三つの領域の交点にあってナンシーの思想の主軸をなしていたのが、共同体論である。『声の分割』Le partage des voix(1982)、『無為の共同体』La communauté désœuvrée(1986)、『共出現』La comparution(1991)、『共同体』Corpus(1992)、『複数にして単数の存在』Être singulier pluriel(1996)等で、ハイデッガーの「共存在」から出発して、共同体を存在論的に基礎づけた。ナンシーは、古典的共同体の亡霊と主体の形而上学をともに拒否し、新たな共同体の可能性を、分割=共有(パルタージュ)とよぶ働きのうちに求めた。それは、存在者同士を分割すると同時に、それらが「共―に―あること」を可能にする、「われわれのいっさいの企てや意志や企図のはるか手前に」ある差異化―共出現の働きである。
これらのテーマは、「キリスト教の脱構築」という主題へと収斂(しゅうれん)しつつあった。まず『神的な様々の場』Des lieux divins(1997)や『訪問』Visitation(2001)等で、宗教画を導きの糸としてこのテーマへの接近が図られた。『我に触れるな』Noli me tangere(2003)でも、レンブラントの作品を論じながら、デリダのナンシー論『彼に触れる――ジャン・リュック・ナンシー』Le toucher; Jean-Luc Nancy(2000)への応答と、「復活」をめぐる議論が展開されていた。
[松葉祥一 2015年5月19日]
『ジャン・リュック・ナンシー著、庄田常勝他訳『エゴ・スム』(1986・朝日出版社)』▽『ジャン・リュック・ナンシー著、大西雅一郎訳『共同-体』(1996・松籟社)』▽『加藤恵介訳『声の分割』(1999・松籟社)』▽『ジャン・リュック・ナンシー著、西谷修訳・編『侵入者』(2000・以文社)』▽『ジャン・リュック・ナンシー著、澤田直訳『自由の経験』(2000・未来社)』▽『ジャン・リュック・ナンシー著、大西雅一郎訳『哲学の忘却』(2000・松籟社)』▽『ジャン・リュック・ナンシー著、西谷修他訳『無為の共同体』(2001・以文社)』▽『大西雅一郎訳『神的な様々の場』(2001・松籟社/ちくま学芸文庫)』▽『ジャン・リュック・ナンシー他著、大西雅一郎他訳『共出現』(2002・松籟社)』▽『ジャン・リュック・ナンシー著、大河内泰樹他訳『ヘーゲル』(2003・現代企画室)』▽『西山達也訳『訪問』(2003・松籟社)』▽『Philippe Lacoue-Labarthe, Jean-Luc NancyL'Absolu littéraire(1978, Seuil, Paris)』▽『Philippe Lacoue-Labarthe, Jean-Luc NancyLe mythe nazi(1990, Aube, La Tour d'Aigues)』▽『Philippe Lacoue-Labarthe, Jean-Luc NancyLe titre de la lettre(1990, Galilée, Paris)』▽『Les Muses(1994, Galilée, Paris)』▽『Être singulier pluriel(1996, Galilée, Paris)』▽『La pensée dérobée(2001, Galilée, Paris)』▽『La création du monde ou la mondialisation(2002, Galilée, Paris)』▽『Au fond des images(2003, Galilée, Paris)』▽『Noli me tangere(2003, Bayard, Paris)』▽『Jacques DerridaLe toucher; Jean-Luc Nancy(2000, Galilée, Paris)』
フランス北東部、ムルト・エ・モーゼル県の県都。パリの東306キロメートルにある。モーゼル川の支流ムルト川が市の東部を北流し、マルヌ・ライン運河が通じる。人口10万3605(1999)、10万5162(2015センサス)。ロレーヌ地方の中心都市で、第三次産業が卓越し、同地方の行政、商業、金融、文化、司法、宗教の中心地。旧市街には中世の繁栄をいまに伝えるクラッフェ門(15世紀)、コルデリエール教会(15世紀)、旧公国宮殿(16世紀)、スタニスラス広場などが残り、観光地としてもにぎわう。またロレーヌ工業地帯の主要都市で、機械、電気、織物、食料品、靴、印刷、ガラス製品など多種の工業が発達する。道路、鉄道、空港があり、交通の要衝ともなっている。
[大嶽幸彦]
13世紀からドイツ帝国領ロレーヌ(ロートリンゲン)の首都として栄えた。16世紀なかばにロレーヌが帝国領から独立すると、その後フランスはしばしば侵攻を繰り返し、首都はリュネビルに移された。18世紀なかばにポーランド人で国王ルイ15世の義父スタニスワフ1世Stanisław Ⅰ Leszczyński(1677―1766)の治政のもとで大規模な都市開発が行われ、近代的な美観の都市に生まれ変わった。1766年にフランスに併合された。プロイセン・フランス戦争後、ムルト・エ・モーゼル県の県庁所在地になるとともに、多数のアルザス人が移住して経済都市として発展するようになった。第一次世界大戦では対独戦略基地となり、フランス軍はナンシーを西に見下ろす高地グラン・クロネの激戦で、ドイツ軍を撃退して占領を免れた。第二次世界大戦ではドイツ軍の占領下に置かれ、1944年9月アメリカ軍によって解放された。
[本池 立]
フランス東部,ムルト・エ・モーゼル県の県都。モーゼル川の支流ムルト川に臨む。人口10万3533(1999)。ロレーヌ地方の行政,商業,金融,文化,司法,宗教,観光の中心。12~18世紀ロレーヌ公国の主都として繁栄,旧市街にはクラッフェ門(14世紀),コルドリエ教会(15世紀),旧公国宮殿(16世紀)が残り,スタニスラス広場周辺は特ににぎわう。郊外での工業は機械,電気,織物,食料品,靴,印刷,ガラス製品など,アルザス・ロレーヌ工業地帯を形成する。また数多くの科学技術専門学校がある。
執筆者:大嶽 幸彦
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