1870-71年のプロイセン・フランス間の戦争。プロイセン・フランス戦争ともよばれる。プロイセンが普墺戦争(1866)に勝利しながらも,ドイツ統一の完成に至らなかったのは,隣国ドイツに強大な統一国家の成立を恐れたフランス皇帝ナポレオン3世の干渉と妨害があったからである。このためドイツ統一の完成への道は,普仏両国の軍事対決を避けられないものとした。フランス側においては,メキシコ遠征の失敗と国内政情の不安から,ナポレオン3世は名誉回復をねらって,プロイセンへの冒険的対決の道につき進んだ。プロイセン首相ビスマルクは,スペイン国王選出問題を利用して,フランスを開戦へと挑発し,プロイセン王家の支流の王子レオポルトのスペイン王位就任をめぐり,普仏両国の対立は深まった。1870年7月14日,フランスの開戦決定をもって両国間に戦端が開かれた。南ドイツ諸邦軍をふくむプロイセン・ドイツ軍は連戦連勝し,9月2日ナポレオン3世をフランス北東セダンSedanの地に包囲・降伏させた(セダンの戦)。フランスには共和政権が樹立され,対独抵抗戦が続けられたが,71年1月28日パリを開城するに至り,5月講和条約が結ばれた。フランスは賠償金50億フランの支払,アルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)の大半を割譲する。なお,この間の1月18日,ベルサイユ宮殿鏡の間でドイツ帝国の成立が宣せられた。
この戦争は,一方においてドイツ統一という目標を達成したかぎりでは,ドイツにとっては国民的戦争であり,防衛戦争であった。だが他方においてナポレオン3世の降伏以後も戦争が続けられ,賠償金を課し,領土を割譲させた点からいえば,フランスに対する征服戦争であった。またパリ開城後に樹立されたパリ・コミューンの圧殺に,ドイツ軍の砲火が大きな役割を果たした点からいえば,フランス人民に対する反人民戦争でもあった。普仏戦争は,このような相矛盾する二重の性格を帯びている。次にこの戦争は,プロイセンの短期(3年)兵役の大衆軍隊とフランスの長期(9年)兵役の職業的軍隊との対決であり,前者の勝利を内外に明示した戦争であった。長期兵役制は国内治安のためには有用な軍隊を生み出したが,短期兵役制は膨大な予備兵力を国民のなかに潜在させ,対外戦争の際に大量の戦時兵力量を確保しえた。この戦争以後,ヨーロッパ兵学界においては,短期兵役の大衆軍隊が注目され,モルトケ兵学の隆盛を迎える。最後に,この戦争はフランス側にドイツに対する深い怨恨を残し,後年フランスとロシアが同盟し,ドイツ挟撃体制が形成される。
執筆者:望田 幸男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…第3回,第4回大会では,鉱山,鉄道,耕地,森林などは社会の共同所有たるべきだという決議がなされ,協会の資本主義的私有財産制に対する批判的立場が鮮明になった。70年の普仏戦争に際しては,総評議会はフランス,ドイツの労働者が平和と友好を呼びかけ合ったことを高く評価し,ナポレオン3世の没落を歓迎したが,フランスの労働者がさらに新政府の打倒を試みることには否定的だった。しかし,71年,パリ・コミューンの蜂起が起こると,マルクスは《フランスにおける内乱》(1871)を書いて断固たる支持を与えた。…
…しかし日本でドイツ帝国というとき,普通第二帝国をさす。
[ドイツ統一]
ドイツ帝国は,普仏戦争の最中,1871年1月,フランスのベルサイユ宮殿における皇帝戴冠によって誕生した。これに象徴されるように,ドイツ帝国をつくりあげた直接の力はプロイセン軍隊であり,この事業の政治的指導者はプロイセン首相ビスマルクであり,彼の政策は〈鉄血政策〉と称される。…
…そこで61年,彼がウィルヘルム1世として即位すると,王はユンカー出身の保守主義政治家ビスマルクを招いて首相に任じ(1862),ここに軍事予算問題をめぐる〈プロイセン憲法紛争〉が燃え上がった。ビスマルクは議会の反対を無視して軍備拡張を強行,この軍事力と巧みな外交工作により普墺戦争でオーストリアを倒し,プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を組織,さらに普仏戦争の勝利により,南ドイツ諸邦をもこれに組み入れるかたちでドイツ帝国の建設をなしとげた。 ドイツ帝国は,なお連邦体制を維持したものの,プロイセン王が世襲の皇帝として君臨し,ビスマルクが帝国宰相に任ぜられたことが示すように,まったくプロイセン主導の国家であった。…
…しかしパリでは67年クレディ・モビリエの瓦解後,ロスチャイルド家は再び指導的な地位を回復し,ロンドンでもクリミア戦争での公債引受け,スエズ運河購入にあたっての金融などで依然として力を発揮した。普仏戦争後の講和交渉でフランスの償金支払を保証し,また早期支払を可能にしたのもロスチャイルド家の金融力であった。 19世紀の半ば以降ヨーロッパ各地での鉄道建設および海運業にも資本参加して,そこでも重要な役割を果たしてきたロスチャイルド家は,帝国主義の時代の開幕とともに,ロンドンとパリを中心に南アフリカ鉱山業やロシアのバクー油田への資本投下など,国際的な金融資本としての活動をも強めるようになる。…
※「普仏戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加