佐々木経高(読み)ささきつねたか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐々木経高」の意味・わかりやすい解説

佐々木経高
ささきつねたか
(?―1221)

鎌倉初期の武将。秀義(ひでよし)の次子。母は宇都宮(うつのみや)氏の女(むすめ)。中務丞(なかつかさのじょう)。通称次郎。平治(へいじ)の乱後相模(さがみ)国渋谷荘(しぶやのしょう)(神奈川県藤沢・大和(やまと)・綾瀬(あやせ)市近辺)に住し、1180年(治承4)の源頼朝(よりとも)の挙兵に際して活躍、その戦功により淡路阿波(あわ)、土佐守護職に任ぜられた。1200年(正治2)淡路の国務不履行のかどで後鳥羽院(ごとばいん)に訴えられ守護職を奪われたが翌年許された。03年(建仁3)院の命を受けて延暦寺(えんりゃくじ)堂衆(どうしゅう)を討った。21年(承久3)承久(じょうきゅう)の乱には院の側近にあって作戦の参画にあずかったが敗れ、土佐の鷲尾(わしお)(高知県高知市)に退いた。六波羅(ろくはら)に入った北条泰時(やすとき)は罪を許したが、同年6月16日自害した。法名経蓮(けいれん)。

[太田順三]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「佐々木経高」の解説

佐々木経高

没年:承久3.6.16(1221.7.7)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武将。佐々木次郎ともいう。秀義と宇都宮氏の娘との次子。平治の乱後,父・兄弟らと共に本拠の近江国を離れ相模国渋谷荘に居住。治承4(1180)年の源頼朝の挙兵に,兄弟らと山木兼隆襲撃に参加。その後頼朝の側近として行動し中務丞。淡路・阿波・土佐の守護および京都警衛に当たる。正治2(1200)年京に軍勢を集めたとして後鳥羽上皇の逆鱗に触れ,守護職以下の所帯を没収される。出家し法名経蓮。翌年赦され,阿波・淡路の守護に復帰。承久の乱(1221)には上皇の倒幕計画に加担した。敗北後鷲尾に逃れたが,北条泰時の投降を促す書状を見て自害した。

(佐々木文昭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐々木経高」の解説

佐々木経高 ささき-つねたか

?-1221 鎌倉時代の武将。
佐々木秀義(ひでよし)の次男。平治(へいじ)の乱後,相模(さがみ)(神奈川県)の渋谷荘にのがれる。治承(じしょう)4年源頼朝の挙兵にくわわり,功をたてて淡路(あわじ),阿波(あわ),土佐の守護となった。承久(じょうきゅう)の乱では後鳥羽(ごとば)上皇方に属して敗れ,北条泰時(やすとき)に降伏をうながされたが,承久3年6月16日自害。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の佐々木経高の言及

【淡路国】より

…8世紀中期以後は淡路は皇族の配流の地となり,淳仁天皇,不破内親王,早良(さわら)親王らが流された。【直木 孝次郎】
【中世】
 鎌倉時代の初め,武蔵の豪族横山時広が淡路守護となったらしいが,やがて近江の名族佐々木経高が阿波,土佐とともに3ヵ国の守護を兼ねた。経高は淡路国司の国務妨害,京都騒擾などの罪によりいったん解任され,横山時兼が守護となったが,時兼は和田の乱(1213)で没落し,経高が守護に復した。…

【阿波国】より


【中世】
 源平争乱のさなか,1185年(文治1)鎌倉幕府は守護・地頭設置の勅許を獲得する。そしてこの勅許をうけて,佐々木経高が淡路・阿波・土佐3国の守護に任ぜられる。阿波の中世のはじまりである。…

※「佐々木経高」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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