宇都宮公綱(読み)うつのみやきんつな

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇都宮公綱」の意味・わかりやすい解説

宇都宮公綱
うつのみやきんつな
(1302―1356)

南北朝時代下野(しもつけ)(栃木県)の武将。初名高綱。正眼庵と号す。元弘(げんこう)の変(1331)に北条高時の命を受けて西上し、「戦場で命を捨てることなどまるで塵(ちり)か芥(あくた)のようにしか思っていない」と恐れられた股肱(ここう)の臣「紀(き)・清両党(せいりょうとう)」(『太平記』)を率いて大坂・四天王寺楠木正成(くすのきまさしげ)と戦った。のち後醍醐(ごだいご)天皇に投じ、建武(けんむ)政権成立後、兵部少輔(ひょうぶのしょう)に任じ、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)一番の奉行(ぶぎょう)を務めた。足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎌倉で反すると、新田義貞(よしさだ)に従って東下し、箱根竹ノ下で足利軍と戦って敗れ、いったん降伏するが、ふたたび朝廷方に帰順し各地を転戦した。吉野の行在所(あんざいしょ)にも参じ、その功により正四位下左少将に叙任された。のち出家、益子(ましこ)町大羽(おおば)に隠栖(いんせい)した。法名理蓮。1356年10月20日没。

[新川武紀]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「宇都宮公綱」の意味・わかりやすい解説

宇都宮公綱 (うつのみやきんつな)
生没年:1302-56(乾元1-正平11・延文1)

鎌倉末・南北朝期の武士。父は貞綱。宇都宮検校。法名理運。正眼庵と号す。元弘の乱には幕府軍に属して西上し四天王寺で楠木正成と戦うが,その後,後醍醐天皇に付き,建武政権では雑訴決断所一番奉行となる。1335年(建武2)足利尊氏の反乱に対し箱根竹ノ下で戦うも敗北する。その後,後醍醐天皇に従い吉野に下り,功により正四位下左少将に叙任された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇都宮公綱」の解説

宇都宮公綱 うつのみや-きんつな

1302-1356 鎌倉-南北朝時代の武将。
乾元(けんげん)元年生まれ。宇都宮貞綱の子。下野(しもつけ)(栃木県)宇都宮城主。元弘(げんこう)の乱には幕府側として楠木正成とたたかう。のち後醍醐(ごだいご)天皇方にしたがい,建武(けんむ)政権では雑訴決断所一番の奉行となる。同政権が崩壊後も南朝方について各地を転戦した。延文元=正平(しょうへい)11年10月20日死去。55歳。初名は高綱。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「宇都宮公綱」の解説

宇都宮公綱

没年:延文1/正平11.10.20(1356.11.12)
生年:乾元1(1302)
南北朝時代の武将。初名高綱。鎌倉幕府の命令で上洛。楠木正成と戦い「坂東一ノ弓矢取」と恐れられる。建武政権下では雑訴決断所の奉行人となり,同政権崩壊後は後醍醐天皇(南朝)方に属して各地を転戦した。なお没した日を11月25日(12月17日)とする説もある。

(荒川善夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宇都宮公綱の言及

【下野国】より

…鎌倉期の寺院では,仏国国師の再興になる黒羽町の臨済宗雲巌寺や足利義兼の持仏堂から発展した足利の鑁阿寺(ばんなじ),二宮町高田の専修寺などが著名である。
[南北朝時代]
 1331年(元弘1)後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると小山,足利,宇都宮,那須などの諸氏は幕府方として戦い,とりわけ宇都宮公綱は紀・清両党を率いてめざましい活躍をした。最初幕府方として挙兵した足利尊氏は33年後醍醐天皇に応じて京都の六波羅探題を攻め,幕府倒滅に活躍した。…

※「宇都宮公綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android