永山則夫(読み)ながやまのりお

日本大百科全書(ニッポニカ) 「永山則夫」の意味・わかりやすい解説

永山則夫
ながやまのりお
(1949―1997)

小説家。北海道網走市番外地生まれ。父は則夫が幼い頃に失踪。則夫が5歳のとき、母も出奔。一冬を兄弟だけで過ごし、見かねた近所の住人の通報で、翌年、青森県に移り住んでいた母親に引き取られる。9歳の時より何度も家出を繰り返すが、そのたびに保護される。13歳のとき、実父が死去。貧しさのためアルバイトを優先させ、結果的にはあまり学校には通えなかったが、16歳で青森県北津軽郡板柳町の町立板柳中学で認定卒業を果たし、集団就職で東京都渋谷区内のフルーツパーラーに就職する。口論から仕事を辞め、何度か密航を試みるが失敗に終わる。17歳のとき、取り寄せた戸籍抄本に「網走番外地」と記載されていることに衝撃を受ける。その後、窃盗などのため保護観察処分を受けながら、クリーニング店や牛乳店の住み込みや港湾労働者など職を転々とするが、その一方で、自ら夜間高校にも通おうとする。

 19歳の時、1968年(昭和43)10月8日、米軍横須賀基地に忍びこみ、8ミリムービーカメラとともに、ドイツ製の拳銃と弾丸を窃取。以後、いわゆる「108号事件」に指定される一連の事件を引き起こし、警備員、タクシー運転手など4人を殺害することになる。この間永山は、窃取した金や兄と母からもらった金を使い、汽車や自転車、徒歩などで逃走、発砲事件を繰り返すが、結局1969年4月7日、東京都渋谷区代々木の路上にて拳銃の不法所持により逮捕される。以後、裁判の過程で、検察より死刑が求刑され、1981年には一度無期懲役となるが、最高裁において差し戻し判決が下され、1990年(平成2)に死刑が確定する。永山にかかわる裁判過程は、たびたび弁護士や支援団体と本人が衝突することで、数度の弁護団の切り替えや支援運動の分裂および動揺を繰り返すが、1997年8月1日に死刑が執行される。死刑が確定する直前、少しでも死刑が遠のくようにとの担当編集者の働きかけで、加賀乙彦秋山駿(1930―2013)を推薦人とする日本文芸家協会理事会への「入会申請書」が提出されるものの、入会委員会において決定が保留されるに及び、入会申請は取り下げられた。当時この騒動に付随して、中上健次、柄谷行人、筒井康隆が日本文芸家協会を退会している。

 永山則夫は、獄中生活において読書と執筆を開始するが、そのデビュー作となるのは『無知の涙』(1971)である。この作品は、詩や短歌なども含むエッセイ風の文章をノートに書き付けていたものを集めて出版したものである。そして以後、永山は、自分の生い立ちを題材とする数々の自伝的な小説を書くことになる。『木橋(きばし)』(1984)は、永山の小説としては第一作品集となるが、新日本文学新人賞を得ることにより、作家として認知されることになる。続いて『捨て子ごっこ』(1987)、『なぜか、海』(1988)、『異水』(1990)などが出版される。いずれも、貧しい自分の生い立ちや育った場所の風景、あるいは兄弟間の葛藤(かっとう)などの身のまわりの事件や家出などが描かれているが、視点や語り口などその都度の工夫がなされている。それらの作品群の基底で響いているのは、貧しさと貧しさゆえのサバイバルの問題である。永山作品の特色として、調理や食事、あるいは空腹にかかわる描写など、食べることにかかわる執着が刻みこまれている。ただし永山のそれら諸作品全体に対する評価としては、裁判過程で、殺人を犯してしまった自身について、執筆を通じてその自身を作り上げた過去へと遡行する試みの側面が強いといえる。そこでの問題点として、作家永山則夫としての評価というものと、いわゆる「殺人犯」であることのスキャンダルの効果というものについて、現実にそれを分けることが困難だという点がある。またそれと関連して、永山則夫への社会的・歴史的な眼差しには貧困とそこからの脱出としての集団就職、そしてその集団就職における挫折という戦後の高度成長に含まれる闇の部分への着目がある。永山が移動した風景を撮った映画作品として、足立正生(1939― )などによる『略称 連続射殺魔』というフィルムがある。この映画の制作過程から、足立、松田政男(1933―2020)、中平卓馬などによって、「風景論」が展開される。フィルムに刻まれているのは、地方から都市へと移動して来た「金の卵」の見た風景と、またその風景自体が高度成長の荒波によって激変していくことであった。

 永山の刑死により、『華』(1997)が中断された遺作となる。左翼くずれやホームレスが共同して「リサイクル」の会社を設立しようとする長編小説である。獄中での生活範囲の極限的な少なさが、ユートピアを呼びこむことになるのだろうが、以前の自伝的な作品から離れようとの試みがうかがえる。最期の時まで、執筆への意欲を持続していたといえる。

[丸川哲史]

『『捨て子ごっこ』(1987・河出書房新社)』『『なぜか、海』(1989・河出書房新社)』『『異水』(1990・河出書房新社)』『『華』全4巻(1997・河出書房新社)』『『無知の涙』『木橋』(河出文庫)』『『文芸別冊――永山則夫』(1998・河出書房新社)』『佐木隆三著『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫)』

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百科事典マイペディア 「永山則夫」の意味・わかりやすい解説

永山則夫【ながやまのりお】

犯罪者。北海道生れ。青森県の中学校卒業。19歳だった1968年にアメリカ海軍基地からピストルを盗み,東京都,京都府,北海道,愛知県で4人を殺害(広域手配108号連続射殺事件),1969年逮捕された。死刑,無期懲役,差戻し審での死刑判決を経て,1990年最高裁判所で死刑が確定し,1997年東京拘置所で絞首刑が執行された。少年の犯罪に対する死刑判決は議論を呼んだが,判決に際して最高裁判所が示した9項目の基準は〈永山基準〉と呼ばれ,その後の死刑判決の判断指針とされた。獄中で哲学などを独学し,手記《無知の涙》(1971年)などで無知と貧困が犯行の遠因だったと主張。また小説《人民をわすれたカナリアたち》(1971年)などを発表し文学的にも評価を得たが,日本文芸家協会への入会申込みをめぐって,入会を拒否した協会に抗議する会員が脱会する騒動が起こった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永山則夫」の解説

永山則夫 ながやま-のりお

1949-1997
昭和24年6月27日生まれ。青森県の中学を卒業後,集団就職で上京,職を転々とする。昭和43年米軍横須賀基地でぬすんだピストルで連続4件の射殺事件をおこし,翌年逮捕。獄中で哲学や文学をまなび,「無知の涙」や小説「木橋」などを発表。平成2年死刑が確定。9年8月1日死刑執行。48歳。北海道出身。

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