日本大百科全書(ニッポニカ) 「中平卓馬」の意味・わかりやすい解説
中平卓馬
なかひらたくま
(1938―2015)
写真家、映像評論家。東京・原宿に生まれる。1963年(昭和38)東京外国語大学スペイン語学科卒業後、新左翼系の総合雑誌『現代の眼』編集部に勤務。同誌での原稿依頼を通じて詩人・劇作家の寺山修司、写真家の東松照明(とうまつしょうめい)の知遇を得る。東松の薦(すす)めにより同誌にグラビア頁を新設、1964年東松のほか、森山大道(だいどう)、高梨豊、深瀬昌久らの写真を掲載、同時に「柚木明」の筆名で自らの写真を発表。翌年フリーランスになり、『アサヒカメラ』『アサヒグラフ』などの雑誌に自作が掲載されるようになる。また写真、映画に関する批評を始め、映像に対する鋭い感受性と、現代社会に対する怜悧(れいり)な批判を内包した文章を執筆する。1965~1968年東松の誘いで、日本写真家協会主催による「写真100年 日本人による写真表現の歴史」展の編纂委員となる。
1968年評論家多木浩二(1928―2011)、高梨豊、詩人・美術評論家岡田隆彦(1937―1997)らと写真同人誌『プロヴォーク』を創刊(2号から森山大道が参加)。「思想のための挑発的資料」と銘打った同誌は3号で終刊したが、中平を含めた『プロヴォーク』同人たちの作品に見られる、対象の輪郭をぼやけさせ、粗い粒子の際だつ特有の技法は当時の写真界に大きな衝撃を与えた。この技法は、アメリカの写真家ウィリアム・クラインから影響を受けたものであった。特に中平はそうした写真の構図や階調に関する価値破壊的な表現を通じて、政治体制や国家の隠喩とみなされた「風景」、および従来の風景写真表現を踏襲する既存の写真に対する反抗を企てた。その反抗の身振りの定着した画面には硬質なリリシズムが横溢している。これらの仕事は、写真集『来たるべき言葉のために』(1970)にまとめられた。
1971年パリ青年ビエンナーレに参加、「サーキュレーション 時、場所、行為」と題された、現地パリで写真を撮影、現像し、ただちに展示する実験作を出品、日毎に展示作品が増殖した。1974年「写真についての写真」展(シミズ画廊、東京)には、空のみを写したカラー写真を出品。また「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)には、断片的で脈絡を欠いた多数のイメージで壁面を構成したカラー作品「氾濫(はんらん)」を展示する。これらの中平作品は、写真の記録性や物質性、複製技術という特質、意味作用のありようを極限まで追求することで、結果的に同時代のコンセプチュアル・アートと一定の問題意識を共有している。
実験作を断続的に手がける中平は、1973年の評論集『なぜ、植物図鑑か』において、『来たるべき言葉のために』まで自らの依拠してきた詩的な描写を自己否定した。同時にこのころ、過去に撮影したネガ・フィルムを焼却する。彼は、「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」写真を目指し、いわば「図鑑」のように即物的に提示される写真の制作へと方向転換を図った。中平の「図鑑」的映像の提示という主張は、写真家の主観性・自我・内面に対する根底的な批判をはらんでいた。それはまた、かつての自らを含む、隠喩としての「風景」に亀裂を与えようとする主観的営為に対する批判でもあった。
1977年篠山紀信との共著『決闘写真論』を発表。収録された批評的エッセイは彼の鋭敏な批評意識の健在なところを示すが、この年、急性アルコール中毒から記憶障害を患い、一時は生死の境をさまよった。しかしこの病もまた、「世界を全的にとらえる」ための撮影を継続させる強い契機となり、彼は障害を抱えながら、1983年写真集『新たなる凝視』を刊行する。病後、1978年と1993年(平成5)に訪れた沖縄は、中平の撮影意欲に大きな刺激を与えた。以降も、『Adieu à X』(1989)、『Hysteric Six: Takuma Nakahira』(2002)を出版、「図鑑」的な写真を撮る「素朴な写真家」へと意識的に帰還する。1997年に個展「日常――中平卓馬の現在」(中京大学アートギャラリー・Cスクエア、名古屋)を開催した。
[倉石信乃]
『『来たるべき言葉のために』(1970・風土社)』▽『『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像論集』(1973・晶文社)』▽『『新たなる凝視』(1983・晶文社)』▽『『Adieu à X』(1989・河出書房新社)』▽『中平卓馬・篠山紀信著『決闘写真論』(1977・朝日新聞社)』▽『「特集プロヴォークの現在」(『デジャ=ヴュ』No.14・1993・フォト・プラネット)』▽『『日本の写真家36 中平卓馬』(1999・岩波書店)』