セプティミウスセウェルス(英語表記)Lucius Septimius Severus

改訂新版 世界大百科事典 の解説

セプティミウス・セウェルス
Lucius Septimius Severus
生没年:146-211

ローマ皇帝。在位193-211年。北アフリカのレプキス・マグナを生地とする。フェニキア人の家庭に育ち,ローマに渡る。官職経歴は170年に財務官で始まり,バエティカ属州の財政担当者,北アフリカの知事を務めた後,護民官職を歴任,その後,シリア軍団長,ガリア・ルグドゥネンシス知事,シチリア総督を経て,190年には執政官(コンスル)に就任した。それに続く2年間,当時最も重要な軍事的拠点の一つであった上パンノニア属州の軍事指揮権をゆだねられた。ペルティナクス帝が暗殺された後,193年4月カルヌントゥムで軍団によって皇帝に擁立され,6月ローマに入城した。この時期に各地に乱立した帝位僭称者ディディウス・ユリアヌスDidius Julianus,ペスケンニウス・ニゲルPescennius Niger,クロディウス・アルビヌスClodius Albinusを次々と打ち破り,197年には帝国の単独支配者として君臨した。こうした政敵との戦いを進めるかたわら,彼は内政の改革に着手し,親衛隊の解散と属州出身者による再編,軍隊内の身分制度の撤廃,行政職への騎士身分の重用といった一連の施策を講じた。なかでも,軍人に対する優遇策は著しく,兵士の給与の増額,退役兵の特権の保護,現役兵の結婚の容認などを通じて,皇帝と軍隊との結びつきをますます強化した。一方,政敵の支持者となった元老院議員の多くを処刑するとともに,財産を没収し,元老院の権威を失墜させた。

 外征にあっては,パルティア遠征によるクテシフォンの攻略(198),メソポタミア併合(199)の後,シリアとエジプトに滞在し,202年ローマに帰還した。すでに185年にシリアの名門祭司家系の才女ユリア・ドムナとの結婚により,カラカラとゲタGetaの2児をもうけていたために,彼らを帝位継承者に指名した。208年家族とともにブリタニアに出征しスコットランドまで進軍したが,その地で病に倒れ,ヨークで死去した。彼の治世については,ローマとイタリアの中心的地位が失墜し,伝統的特権が正当化されなくなったことからさまざまな評価が生じている。すなわち,この治世を伝統的な社会秩序の破壊による帝国の野蛮化ととらえることもできるし,伝統と差別の枠を根こそぎ取り払った地中海世界の空前の民主化とみなすこともできる。いずれにせよ,そうした両義的な評価を可能にするほどの錯綜した時代であったことは否定できない。
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世界大百科事典(旧版)内のセプティミウスセウェルスの言及

【ローマ】より

…元老院の立てた皇帝ペルティナクスは親衛隊に殺され,各地の軍隊は69年の〈四帝年〉のときのように,次々と皇帝を挙げた。ブリタニアでクロディウス・アルビヌス,シリアでペスケンニウス・ニゲル,そしてパンノニアでセプティミウス・セウェルスが挙げられ,このうちセプティミウス・セウェルスがローマを占領して競争者を倒し,セウェルス朝の開祖となった。彼の統治(193‐211)は,軍隊にのみ基礎を置く軍事政権で,元老院はほとんど無視した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」