イギリスを構成する連合王国の一つ。グレート・ブリテン島の北部を占める。面積7万8133平方キロメートル、人口506万2011(2001)。首都エジンバラと経済的中心グラスゴーが二大都市。北と西は大西洋、東は北海に臨み、南はトゥウィード川とチェビオット丘陵を境界としてイングランドと隣接する。地形的にはハイランド、グランピアン山脈、中央低地、サザン・アップランズに分かれる。氷食地形が発達し、氷河湖が多く、西岸にはフィヨルド海岸が多くみられる。北部にシェトランド諸島、オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島がある。
気候は、暖かい北大西洋海流の影響を受けるため西岸海洋性気候となる。北西部のフォート・ウィリアムの月平均気温は最低の1月が4℃、最高の6月が15℃である。内陸部の山地は偏西風にさらされ、主要な低気圧の経路となっているため、年間を通じて低温多湿である。ベン・ネビス山の年降水量は4570ミリメートルにも達する。そのため土壌の溶脱、酸性化が著しく、作物の生育期間が限られるので、オート麦、大麦、ジャガイモなどの作物が卓越する。また、西岸のグリーノックでは年降水量1573ミリメートルであるが、東岸のエジンバラでは695ミリメートルと、東へ向かうほど降水量は減少し、日照時間は逆に多くなる傾向がある。
幅80キロメートルの地溝帯をなす中央低地は、肥沃(ひよく)な土壌と、ファイフ、ミッドロージアン、エアシャー(各旧県)などの炭田、さらにクライド湾のような天然の良港に恵まれ、早くから交通の要衝として栄え、大都市が発達し、造船、機械、化学、製紙などの工業が集積してきた。セントラル・クライドサイド・コナベーション(グラスゴーを中心とする連接都市域)は、面積ではスコットランドの約1%を占めるにすぎないが、35%の人口をもつ。ハイランドはスコッチ・ウイスキーの特産で有名である。また北西高地と島嶼(とうしょ)部は人口希薄地帯で、人口流出が続いている。放牧地は共有であるが、可耕地は分割されてクロフターとよばれる小作人や小農が自給的農業を営む。海岸地帯ではこのようなクロフト制度に基づいた農業と、漁業によって生計がたてられてきた。ローモンド湖北西にある多雨地域(年降水量2670ミリメートル)ではグレン・シーラ開発計画に基づき、ファイン湾上流にあるクラッチャン発電所が1955年に完成し、アルミニウム製錬工業が立地するようになった。最北端の町サーソーから西へ12キロメートルのダウンレーには原子力発電所がある。また、フォート・ウィリアム近郊のコーパッチにはパルプ・製紙工場が誘致された。このように、伝統的なクロフト制度農業、海藻加工業、ウイスキー醸造業のほかに、最近では水力、原子力による計画的な発電所開発計画、木材、観光資源の開発によって北部のハイランド地域は大きく発展しようとしている。北東低地の沿岸地帯は、アバディーン、ピーターヘッド、フレーザーバーグなどの主要港湾都市が発達し、北海、大西洋海域の漁業基地がある。アバディーンのビクトリア・ドックは北海海底油田の採掘の後方基地としてにぎわいをみせている。ここではツイード、リンネルなどの繊維産業、造船、食品加工業に加えて、北海油田開発に関連する産業が立地し、構造的不況に悩むイギリス経済に刺激を与えている。
[米田 巌]
考古学的発掘の結果、中石器および新石器時代にスコットランドには人間が住んでいたことがわかっている。彼らはアイルランドやヨーロッパ本土から移住してきたのであろうが、詳しいことは不明である。有史時代に入ると、ローマ帝政期に、アグリコラのもとにローマ軍が侵入し(後80)、北東部スコットランドでケルト系諸部族を撃破したことが知られている。2世紀なかば、ローマ軍は南部からフォース湾に至る地域を占拠し、アントニヌス防壁を築いた。これより遅れてスコットランド各地に、のちにスコットランド国民を形成する人々が到来した。6世紀にアイルランドからきたスコット人は、アーガイル(スコットランド西部の旧県)にダルリアダ王国を建設し、その一人である聖コランバは、563年、インナー・ヘブリディーズ諸島のアイオナ島(マル島南西)に修道院を建ててケルト系キリスト教を伝えた。古い時代の移住民の子孫であるピクト人は北部に居住し、ウェールズ方面からはブリトン人がきて南西部に住み着いた。6世紀後半にはアングル人が東部ローランドに定住した。このうちまず843年、スコット人とピクト人の融合がなってアルバ王国がつくられ、その血統を引くダンカン1世が1034年に即位して単一のスコットランド王国を樹立した。
初代のスコットランド王ダンカンは、シェークスピア劇に登場する人物と同名のマクベスに殺されたが、マクベスはダンカンの息子のマルコム3世に打倒された。このケルト的なスコットランド王国に大きな変化をもたらしたのは、マルコムの王妃となったイングランド出身のマーガレットである。マルコム3世の死(1093)からジェームズ4世の即位(1488)までの時期には封建化が進行し、西欧キリスト教世界との同化が行われた。またイングランドとの不和が激しくなり、13世紀末から14世紀初めにかけて、封建的上長を主張するイングランド王家との間に、いわゆる独立戦争が遂行された。ところで1371年、デビッド2世が後継ぎなしに死亡したため、王位は王の甥(おい)であるスチュアート家のロバート2世に移った。イングランドとの不和の裏返しであるフランスとの提携は、スチュアート朝期にはいっそう強まり、ジェームズ5世(在位1513~42)はフランス出身の女性と二度にわたり結婚し、女王メアリー・スチュアート(在位1542~67)はフランス皇太子と結婚するに至った。
しかしローマ・カトリック教会の堕落、およびこれと結び付くスチュアート王家=フランス勢力に対する反感から、16世紀なかばには親イングランド的な宗教改革運動が展開された。ジョン・ノックスはイングランドとジュネーブに亡命したのち、1560年、カルバンの教義に基づくスコットランド教会を樹立した。カトリック教徒であった女王メアリーは、改革教会および貴族との闘争に敗れて退位し、イングランドのエリザベスに庇護(ひご)を求めた。メアリーの子のジェームズ6世は、1603年、このエリザベスの死没後イングランド王を兼ね、イングランドの富と力とを背景に、教会と貴族とを懐柔し、スコットランドに対する強力支配を築き上げて、1625年平穏のうちに世を去った。
その後を継いだチャールズ1世(在位1625~49)の統治は、父の治世とは対比的な様相を示した。彼は王室と教会のために、世俗領化した教会領の収入の回復を企てて貴族の反感を買った。さらにスコットランド教会とイングランド教会との信仰の統一化を目ざして、祈祷書(きとうしょ)を強制的に公布した。貴族層と牧師とは「国民契約」を作成して国王に反抗し、これが教会と国家の両面における革命をもたらした。1641年、王の譲歩により契約派の目標はほぼ達成されたが、事態の恒久化のためにはイングランドの議会派との提携を必要とし、44年には国境を越えて北から王党派を制圧した。しかし議会派の勝利はイングランドの長老主義化を志した契約派の希望を打ちくじき、50年代には議会派によるスコットランドの軍事的支配を引き起こすに至った。
1660年の王政復古により、スチュアート朝の強権支配が復活して長老派は激しい迫害を受けたが、名誉革命(1688~89)に伴う1689~90年の革命は、ジェームズ7世の廃位とウィリアム2世、メアリー2世の即位をもたらした。イングランドの「権利章典」に類似した「権利要求章典」が議会によって採択され、同時に長老主義教会体制が恒久的な安定をみるに至った。革命後スコットランド議会は以前よりも独立的な地歩を獲得したが、行政者たちはイングランド政府の指名によるところが多かった。ついで1700年にアンの王子が死亡すると、予想されるスチュアート朝の消滅に伴う王位継承問題が、イングランドとの間に政治的外交的な緊張を生み出した。その解決策として、1707年に連合条約が成立し、スコットランドはグレート・ブリテン王国のうちに統合されることとなった。この連合条約によってスコットランド独自の議会は消滅していたが、1997年の住民投票によってスコットランド議会の復活が決定。99年5月、約300年ぶりの議会選挙が行われ、6月に行政府が発足した。
[飯島啓二]
『難波利夫著『オールド・ラング スコットランド』(1979・日本経済評論社)』▽『村上文昭著『スコットランドあれこれ』(1979・中央書院)』▽『藪内芳彦著『島――その社会地理』(1972・朝倉書店)』▽『David Turnock ed.Scotland's Highlands and Islands (1974, Oxford University Press)』▽『飯島啓二著「スコットランド・ウェールズの抱える問題」(青山吉信編『実像のイギリス』所収・1984・有斐閣)』▽『D. Daiches ed.A Companion to Scottish Culture (1981, Edward Arnold, London)』
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ローマ時代の呼称はカレドニア。古くはケルト系のピクト人が居住していたが,6世紀にアイルランドから移住したスコット人がしだいに支配地域を広げ,11世紀に統一王国を形成。以後封建的な上級君主権を主張するイングランドとの抗争が続いたが,14世紀にロバート・ブルースのもとで独立を達成。ステュアート朝ではフランスの影響が強まり,イングランドとの対立が厳しくなる。1603年ジェームズ6世のイングランド王位継承によって,両国は同君連合の関係になった。ピューリタン革命においては議会側を支持したが,クロムウェルによる侵略を受けた。1707年両国は合同し,グレート・ブリテン王国となった。この18世紀にスコットランド啓蒙と呼ばれる文化運動が展開。産業革命によって西南部のグラスゴーを中心に工業化が進展をみせ,イギリス帝国発展の原動力を提供した。第二次世界大戦後,北海油田の開発を契機に自治を要求する声が高まり,1997年の住民投票を背景にして,99年大幅な自治権を有する独自の議会の設置が認められた。
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…ノルウェー海,北海,イギリス海峡によってヨーロッパ大陸から隔てられ,イギリス諸島の大半を占める。主島であるグレート・ブリテン島は面積約23万km2で日本の本州とほぼ等しく,行政上はイングランド,ウェールズ,スコットランドの3地域に区分されている。このほかアイルランド島北東部の北アイルランドやアイリッシュ海のマン島,イギリス海峡のチャンネル諸島を含む。…
…しかしローマ時代に入ると,最も遅くこの島へ移住したケルト系ブリトン人にちなむ〈ブリタニア〉の名称が定着し,今日のブリテンとなった。正式にグレート・ブリテンの名称が採用されるのは,1707年にイングランドとスコットランドが合同して連合王国を形成したときであり,フランスのブルターニュ地方をさすリトル・ブリテンと区別するため命名された。島は行政上,北部のスコットランド,南西部のウェールズ,中部・南部のイングランドに区分される。…
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