翻訳|Scotland
イギリス(連合王国)の一地方で,グレート・ブリテン島の北部を占める地域。主都エジンバラ。ローマ時代にはケルト語で〈森林〉を意味する〈カレドニアCaledonia〉と呼ばれたが,アイルランドからのスコット人の移住にともない,11世紀には〈スコシアScotia〉の名称が与えられ,現在の地名の語源となった。北をノルウェー海,東を北海,西を大西洋とノース海峡に囲まれ,南はソルウェー湾,リデル川,チェビオット丘陵,トウィード川を結ぶ境界線によってイングランドと接している。総面積は,北方沖のオークニー諸島とシェトランド諸島,西岸沖のアウターおよびインナー・ヘブリディーズ諸島などの付属島嶼を含めて7万8762km2,人口506万(2001)。1975年に歴史的な州が廃止され,九つの地域regionと三つの島嶼部に再編成された。
スコットランドの地質は,北西部に一部先カンブリア時代の地層がある以外は古生代の岩石が卓越する。とくに北部にはカンブリア紀の変成岩を中心に,カレドニア造山運動による褶曲の結果生じたスコットランド高地(ハイランド)が横たわる。高地全体は北東~南西走向を有し,グレン・モアの断層線によって北西高地とグランピアン山脈に区分され,後者の西部にはイギリス最高峰のベン・ネビス山(1343m)が位置する。また洪積世氷期には地域的な氷河の中心となり,グレンglen(U字谷)やロッホloch(氷河湖,入江),ファースfirth(フィヨルド)と呼ばれる氷食地形が発達する。これに対し中央低地は幅約80kmの巨大な地溝帯であり,デボン紀,石炭紀の堆積岩が地向斜をなすが,一部では火山性丘陵が突出し,石炭層の露頭もみられる。さらにオルドビス紀,シルル紀の堆積岩がカレドニア造山運動による褶曲で隆起準平原化した南部高地では開析が進み,ヒースにおおわれた標高200~600mの不毛地(ムーアランド)が広がる。気候は西岸海洋性気候のため高緯度のわりには温和であり,エジンバラ(北緯56°)の年平均気温8.3℃は日本の函館(北緯42°)に相当する。降水量は比較的多く,とりわけ西部の降水日数は年250日にも達する。しかし偏西風と山地の関係で生じる地形性降雨が中心となるため,西岸の年降水量は2500mm以上になるが,雨陰にあたる東部の平野は乾燥して年700mm前後である。
自然の制約から農牧業は粗放的経営となり,ハイランドや南部高地の粗放的放牧地ではおもに牧羊が行われ,また南西部のクライド湾岸からソルウェー湾岸の低地は湿潤なため酪農地帯となっている。耕作農業は東部の乾燥した平野が中心で,マリー湾やフォース湾周辺がオート麦,大麦の畑作農業地帯を,その間のバハン低地が麦類,ジャガイモと肉牛の組合せによる混合農業地帯を形成している。水産業は古くから盛んで,北海や北大西洋でのタラ・ニシン漁が知られるが,テイ川ではサケ漁もみられる。最大の漁港アバディーンをはじめ,大規模な漁港は東海岸に集中する。鉱業に関しては,伝統ある石炭と新興の石油の採掘が重要である。スコットランド炭田と総称される中央低地の炭田は,エア,ファイフ,ロージアンの各炭田に分かれ,産出した一般炭は発電や地元産業に利用される。1960年代後半より開発された北海油田はシェトランド諸島沖の鉱区が最大であり,パイプラインによってシェトランド諸島,オークニー諸島および本土東岸の原油基地と結ばれ,またダンディー,グレーンジマスには精油所が立地する。このように石油を基礎に北東部や島嶼部の地域開発が進められてはいるが,工業の重心は依然として中央低地の大都市にあり,グラスゴーを核とするクライド川流域に鉄鋼,造船などの重工業が,政治・文化中心のエジンバラに製紙,出版業がそれぞれ発達する。これ以外のハイランドではウィスキー醸造や毛織物,南部高地ではツイード織など,伝統的工業がみられるにすぎない。
執筆者:長谷川 孝治
氷河期が終わると,はじめはたぶんアイルランドから,ついで大陸,バルト海方面から移住者が渡来した。しかし有史時代はローマ帝政期から始まった。80年にブリタニア総督アグリコラがカレドニアに侵入し,84年ごろケルト諸部族は撃破された。2世紀にはケルト人の南下を抑えるために防壁が造られたが,4世紀末までにローマ軍の圧力は消滅した。6世紀にアイルランドからスコット人が来住し,西部にダルリアダ王国を建設。563年にはコルンバがアイオナ島に修道院を造り,ケルト系キリスト教を伝えた。従来の住民は北部に住みピクト人と呼ばれていたが,ウェールズからはブリトン人が南西部に来住し,6世紀後半にはアングル人が東部ローランドに定着。このうちスコット人が843年にピクト人を統合してアルバ王国を建設し,1034年にはその流れを汲むダンカン1世が上記4部族を統合してスコットランド王国を樹立した。
ダンカンよりマクベスを経て,マルコム3世が継承したのはケルト的社会で,教会もケルト教会の方式を多分に踏襲していた。しかしイングランド出身の王妃マーガレットを通じ,マルコムの3人の子息が王位につくころからイングランド化が推進された。15世紀末までにスコットランドの封建化・一体化,西欧キリスト教世界との同一化,そしてイングランドとの対立が進行した。13世紀末から14世紀初めにかけ,封建的上長であるイングランド王との対立が独立戦争として激化。R.ブルースは1328年スコットランドの独立を獲得した。その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513-42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。
スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。スコットランド宗教改革は親イングランド的運動でもあり,イングランド女王エリザベスの支持を受けた新教勢力とカトリック女王メアリーとの対立はメアリーの退位として終わり(1567),その後を継いだジェームズ6世は,1603年イングランド王兼摂(スコットランドとイングランドの同君連合)のためロンドンに赴くまで,貴族・牧師層を懐柔して巧みな統治を行った。チャールズ1世は父王と異なり政治目標の実現に急であり,世俗領化していた教会領の収入を旧に復し,かつスコットランド教会とイングランド教会の信仰の統一を実現しようとした。その第一歩として1637年に《祈禱書》を一片の勅令で国民に課した。国民のほとんどがこれに反対して,〈国民契約〉を作成し,国家と教会の両面における革命が勃発。41年国王が譲歩して契約派は勝利を収めたが,その勝利を強化するため,イングランドの議会派と提携して内乱(ピューリタン革命)に介入した。しかし独立派の台頭のため逆にO.クロムウェルらのスコットランド支配を引き起こした(1651-60)。短期間とはいえクロムウェルによるイングランドとの合併は,西部の商人層とアメリカ新大陸との接触をもたらし,伝統的な封建的支配層の力は弱まった。
1660年の王政復古体制はスチュアート王家による強権支配であり,契約派は徹底的に弾圧を受けた。しかしローマ・カトリック教徒のジェームズ7世(イングランド王としてはジェームズ2世)が即位して(1685),カトリック教徒に対する信仰の自由を認めると国内の情勢は急変し,長老派ばかりでなく主教派も国王に対して批判的となった。1689-90年の革命は,主としてイングランドの名誉革命の随伴現象として生じたものではあったが,スコットランド史に与えた影響は大きかった。スコットランド議会により国王はその王位を奪われ,代わって1689年ウィリアム2世(イングランド王としてはウィリアム3世)とメアリー2世の即位が承認され,〈権利章典〉に類似した〈権利要求章典〉が制定されて,議会はその独立的な地位を獲得したが,行政はイングランド政府によって大きく左右された。また1560年以来長老制と主教制の間を揺れ動いていたスコットランド教会も,議会の決定によって長老制の基礎の上に再建された。
ウィリアムはスコットランドと長老制に好意を示さず,国内ではジェームズの支持者(ジャコバイト)や主教派が活動し,90年代には凶作が続き,またスコットランド会社による中米植民地の建設(ダリエン計画)は失敗して,革命後には混乱と不穏の時期が続いた。1700年にアンの王子が死亡してスチュアート朝の王統の消滅が明らかになると,政治的・外交的混乱はさらに高まった。ハノーファー家を推すイングランドに対し,スコットランドは別個の後継者の支持をほのめかし,イングランドはスコットランド人を外人とみなす法を作成して,これに対抗した。このような対立の解決策として両王国の連合案が画策され,1707年連合条約が成立して,スコットランド議会と枢密院は消滅し,これ以降のスコットランドはグレート・ブリテン連合王国の一部として扱われることとなった。
人口は1801年の162万から1995年の514万に増えたが,イングランド,ウェールズの人口に対する比は,その間18%から10%弱に減少した。国内の人口分布にも大きな変動があり,1801年にはハイランド・東北部がスコットランド全人口の半ば近くを占めていたが,今日では激減し,グラスゴー地域に人口の約50%が集中している。
中世末以来のイングランド化の現象は言語の面で著しく,現在はイングランド語(英語)もしくはスコットランド方言化したイングランド語が用いられている。ゲーリック語の使用は減少し(1971年の使用者は8万8753人,うちゲーリック語のみ338人),ハイランド・西部島嶼地帯の一部に限られている。しかし,ナショナリズムの復興とからみ,文化運動としてのゲーリック語の尊重がみられる。
1690年にスコットランド教会は国教会と認められ,1712年には主教派もその礼拝を許された。18世紀半ばから19世紀半ばにかけ,教会と国家の関係をめぐりスコットランド教会が分裂を繰り返し,長老派の諸派が出現したが,その後統合が行われてきた。1996年現在スコットランド教会員は68万人で,そのほかに他の長老派やプロテスタント諸派,ローマ・カトリック教会,ユダヤ教などの信徒がいる。キリスト教の影響力は減少し,スコットランド教会員数は,成人人口の約4分の1にすぎないが,スコットランド教会は依然として国教会であり,イングランドにおけるイングランド教会よりも社会的に重要な役割を果たしている。
中世以来,法体系はフランスの影響を受けて大陸法の伝統を継ぎ,その点イングランドとは異なった発展を示してきた。1707年のイングランドとの連合条約において,スコットランド法の維持は保証され,18世紀にはスコットランド法の体系化がなされた。しかしイングランド法との同化も進行し,刑法や私法の面では依然として独自の特徴を保持しているものの,商法,税法,社会福祉法などにおいてはほぼ同化が完了している。スコットランド内における最高法廷は高等刑事裁判所と高等民事裁判所である。
1707年の合同以来,文化面でもイングランド化がすすんでいるが,その反面,対抗意識が強い。スコットランド文化を代表するものはタータン,バッグパイプ音楽,民族舞踊であろう。タータンはハイランドの住人のキルトなどの服装に用いられ,氏族clanによってその柄が異なっていた。1745年のジャコバイトの反乱後には,スコットランドの民族意識を高揚するものとして一時禁止されたこともある。民族楽器としてはバッグパイプのほかにハープとフィドルが代表的であり,民族舞踊としてはジーグとリールが古くから盛んである。これらの音楽,舞踊は各地で行われているが,かつてのようなハイランドや氏族などとの関係は希薄になっている。民族文化の維持・復活には18~19世紀のロマン主義が寄与したが,なかでもR.バーンズはスコットランドの国民詩人として知られている。階級意識と郷土意識とが結びついた文学運動や,ケルト文化尊重の動きもある。またイングランド化,商業化に反対する政治的急進主義や,都市の共同体意識が演劇活動となって現れている。
執筆者:飯島 啓二
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ローマ時代の呼称はカレドニア。古くはケルト系のピクト人が居住していたが,6世紀にアイルランドから移住したスコット人がしだいに支配地域を広げ,11世紀に統一王国を形成。以後封建的な上級君主権を主張するイングランドとの抗争が続いたが,14世紀にロバート・ブルースのもとで独立を達成。ステュアート朝ではフランスの影響が強まり,イングランドとの対立が厳しくなる。1603年ジェームズ6世のイングランド王位継承によって,両国は同君連合の関係になった。ピューリタン革命においては議会側を支持したが,クロムウェルによる侵略を受けた。1707年両国は合同し,グレート・ブリテン王国となった。この18世紀にスコットランド啓蒙と呼ばれる文化運動が展開。産業革命によって西南部のグラスゴーを中心に工業化が進展をみせ,イギリス帝国発展の原動力を提供した。第二次世界大戦後,北海油田の開発を契機に自治を要求する声が高まり,1997年の住民投票を背景にして,99年大幅な自治権を有する独自の議会の設置が認められた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ノルウェー海,北海,イギリス海峡によってヨーロッパ大陸から隔てられ,イギリス諸島の大半を占める。主島であるグレート・ブリテン島は面積約23万km2で日本の本州とほぼ等しく,行政上はイングランド,ウェールズ,スコットランドの3地域に区分されている。このほかアイルランド島北東部の北アイルランドやアイリッシュ海のマン島,イギリス海峡のチャンネル諸島を含む。…
…しかしローマ時代に入ると,最も遅くこの島へ移住したケルト系ブリトン人にちなむ〈ブリタニア〉の名称が定着し,今日のブリテンとなった。正式にグレート・ブリテンの名称が採用されるのは,1707年にイングランドとスコットランドが合同して連合王国を形成したときであり,フランスのブルターニュ地方をさすリトル・ブリテンと区別するため命名された。島は行政上,北部のスコットランド,南西部のウェールズ,中部・南部のイングランドに区分される。…
※「スコットランド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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