日本大百科全書(ニッポニカ) 「エジプト」の意味・わかりやすい解説
エジプト
えじぷと
Arab Republic of Egypt 英語
Jumhūrīa Misr al Arabīa アラビア語
アフリカ大陸北東端にある国。正称はエジプト・アラブ共和国Jumhūrīa Misr al Arabīa、旧称アラブ連合共和国。国土の一部シナイ半島はアジア大陸に属して、アジアとアフリカ、紅海と地中海とを結ぶ重要な地理的位置にある。このため古くから多くの民族がここを通過し、その時代の大国の支配を受けてきた。面積100万2000平方キロメートル、人口7200万9000(2006推計)、8299万9000(2009推計)。人口密度は1平方キロメートル当り72人であるが、全土の95%が砂漠であり、住民の99%は、国土の2.8%のナイル河谷とナイル・デルタ地域に居住しており、そこでの人口密度は1平方キロメートル当り2900人以上ときわめて高い。ヘロドトスの「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」ということばは現在も生きている。国土は北緯22度(台湾南端と同緯度)から32度(九州南端)の間にあり、西はリビア、南はスーダン、東のシナイ半島ではイスラエルと国境を接している。首都はカイロ(人口813万。2008推計)。砂漠の中を緑の帯となって流れるナイル川は、肥えた土を運び、古くから農耕文明を花開かせ、エジプトを支えてきた。19世紀以後は用水路やダムの構築により、綿花モノカルチュア(単一作物生産)の国となったが、1970年代後半からは石油・天然ガスの輸出額が増加し工業化も進んでいる。2008年時点での主要財政収入は、石油輸出、スエズ運河通航料収入、観光収入、海外労働移民者の送金などで、1人当り国民総所得(GNI)は1800ドルである。
1952年7月、自由将校団によるエジプト革命を成功させた大統領ナセルは、スエズ運河の国有化、土地改革、アスワン・ハイ・ダムの建設などを行い、社会主義化路線、親ソ政策をとって第三世界の有力な指導者となった。第一次から第四次にわたる中東戦争では、エジプトはアラブ側の先頭にたって戦ったが、莫大(ばくだい)な戦費、シナイ半島の喪失、スエズ運河の閉鎖などにより国家財政は破産に瀕(ひん)した。このため1970年のナセル病死後、後を継いだ大統領サダトは、第四次中東戦争で勝利したのち、イスラエルとの和平交渉を進め、親米路線をとり、経済の自由化を促進したが、アラブ諸国の批判を受け、国内の貧富の格差も拡大した。1981年10月6日大統領サダトがイスラム(イスラーム)主義運動勢力により暗殺され、副大統領ムバラクが後継者となり、アラブ関係、対ソ関係を修復し、バランスのとれた発展によって、ふたたびアラブ諸国の中核への復帰を進めてきた。
[藤井宏志]
自然
地形
地形は、大部分を占める標高数百メートルの台地と、溝状のナイル河谷および河口の巨大なデルタ、シナイ半島南部や紅海沿いの山地、南西部のカビール山地の1000メートルを超す山地からなっている。ナイル・デルタを除けば海岸の平野はごく狭い。地形の特徴から次の4地域に分けられる。
(1)ナイル河谷とデルタ 世界最長の河川であるナイル川は、長さ6690キロメートルのうち1350キロメートルがエジプト国内にある。スーダン国境から第一急流(カタラクト)までは幅5キロメートル内外の狭い谷が続き、現在はそこにアスワン・ハイ・ダムによってできたナセル湖が水をたたえている。12キロメートルに及ぶ第一急流を過ぎ、キーナの大曲流から下流は谷の幅が広くなり、15~17キロメートルで25キロメートルに達する所もある。河谷の両側の台地との段丘崖(がい)は、上流では300メートルで、下流に行くほど低くなり、150メートル程度になる。キーナの大曲流から下流の広い河谷では、河流は谷の東方に偏り、西側には豊かな谷底平野が広がっている。かつては夏季の氾濫(はんらん)を利用した農耕が行われていたが、現在は大部分がナイル川の堰(せき)やダムなどにより取水した水路網によって灌漑(かんがい)されている。厚い沖積土は、主としてアトバラ川や青ナイル川によりエチオピア高原から運ばれ堆積(たいせき)した玄武岩質のもので黒色である。アスワンでの河床の標高は83メートル、約900キロメートル下流のカイロで12メートルと、きわめて緩やかな河川勾配(こうばい)である。
ナイル・デルタは典型的な扇状の三角州で、南北170キロメートル、東西幅200キロメートル、面積2万2000平方キロメートルで、日本の四国以上の広さをもつ。ナイル川はカイロの北で、東のダミエッタ支流と西のラシード(ロゼッタ)支流とに分岐している。19世紀以後の水路網、排水路網の建設により大農耕地となった。デルタの縁辺部すなわち地中海沿岸には、海側を砂州で囲まれたマンザラ湖、ブルルス湖、エドコ湖、マルユート湖などの潟湖(せきこ)があり、湿地もみられる。またデルタ北部沿岸には海岸砂丘がある。
(2)西(カルビーヤ)砂漠地域 ナイル河谷西縁より西側の地域で、北を地中海、西をリビア国境、南をスーダン国境に囲まれており、国土面積の3分の2を占める。広義のサハラ砂漠の一部で、平均標高500メートルの台地からなり、北部は緩やかな傾斜で地中海へ達する。例外は、標高1000メートル以上もある南西部の火山性のカビール山地と、陥没により海面下133メートルの低所もある北部のカッターラ低地などの窪地(くぼち)群である。窪地では、低緯度降雨地域からの地下水脈により水が得られ、オアシスが成立している。中央部には砂の海とよばれる砂丘が広範囲に広がっている。
(3)東(シャルキーヤ)砂漠地域 ナイル河谷東縁から紅海沿岸までの南北に細長い地域で、紅海に沿って標高1500メートル以上の険しい山脈が走っている。山陵の傾斜は紅海側が急、西側が緩やかで、ワジ(涸(か)れ川)が発達している。
(4)シナイ半島地域 地中海沿岸を底辺とし、南の紅海へ頂点が突出した逆三角形の地域である。南部は東砂漠地域の連続で険しい山地となっており、エジプト最高峰のカテリーナ山(2637メートル)がある。中部から北部にかけては、ナイル川西方の台地の連続で標高平均800メートルの台地になっており、地中海沿岸へと緩やかに低くなっている。
地中海沿岸の海岸砂丘は滞水層を有し、この水を利用した農耕が行われている。地中海沿岸の低地は古来多くの民族が往来した通路で、中東戦争の際の激戦地ともなった。
[藤井宏志]
気候
北アフリカ、サハラ砂漠から西アジアへと続く大乾燥地帯の中にあり、冬季に150~200ミリメートルの降雨があるのは地中海沿岸の一部のみで、国土の大部分は年降水量150ミリメートル以下の砂漠気候である。このため、ナイル川、オアシスの湧泉(ゆうせん)といった外来の水源が重要な意味をもつ。気温のうえでは温帯から亜熱帯に属し、冬季1月の平均気温はカイロで14℃、アスワンで15.8℃と涼しいが、夏季は暑さが厳しく、8月の平均気温はカイロで27.9℃、南部のアスワンでは33.4℃にもなる。しかし地中海沿岸のアレクサンドリアは26.8℃としのぎやすく、避暑地になっている。全般的に、地中海沿岸から南部へ行くにしたがい気温は高くなり、雨量は少なくなる。1年の季節は、11月から翌年3月の涼しく降雨のある冬季と、5~9月の暑く乾燥した夏季との二季からなっている。地中海を低気圧が東進すると、内陸部から砂混じりの乾いた熱風が吹く。3月から7月にかけて吹くことが多く、この季節風をハムシン(カムシン)Khamsinとよぶ。ハムシンとは正則アラビア語で「50日風」の意で、吹き出すと毎週繰り返し7週にわたって吹くことに由来している。
[藤井宏志]
地誌
ナイル河谷地域、ナイル・デルタ地域、西砂漠地域、東砂漠地域、シナイ半島地域の5地域に区分される。
(1)ナイル河谷地域は、それ自体砂漠の中の細長いオアシスであり、古くからの農業地帯である。綿作の導入により通年灌漑(かんがい)の必要が生じ、アスワン・ダム、アシュート堰(せき)など多くのダムや水路、排水路がつくられ、一大灌漑体系が完成された。小麦、豆類、綿花のほか、スーダンに近い上エジプトではサトウキビが栽培される。集落は少し高い盛り土の上にあることが多く、石造りや日干しれんが造りの家が密集し、周辺にはナツメヤシ、イチジク、ユーカリなどが植えられている。農地改革は施行されたものの、フェラーferrahとよばれる農民は貧しく、都市や外国への労働移住(出稼ぎ)者が多い。河谷の都市には製糖、製粉、紡績などの工場が建設され、水力発電により、アシュートやアスワンは工業都市となっている。ナセル湖の完成で観光客は増加した。
(2)ナイル・デルタ地域は、カイロ以北のナイル・デルタとその東側、スエズ運河までの地域である。首都、国際港湾都市、重工業都市があり、この国の政治、経済の中心地域である。整然とした用水路が走り、集落が並び、区画された耕地が広がり、綿作、米作が行われている。
(3)西砂漠地域は、台地状の砂漠で、その中の窪地(くぼち)群に湧泉(ゆうせん)があり、人間が居住する。シワ・オアシス、カッターラ・オアシスなどがその例である。ハールガ、ダハラ、バハラなどのオアシスでは、地下水源再開発による農地拡大を目ざすニュー・バレー計画が進められており、ナツメヤシ、トマト、ソラマメ、小麦を栽培する。北部では石油、天然ガスの開発が進んでいる。
(4)東砂漠地域は、紅海山脈などの山岳砂漠が連なり、これを刻むワジにオアシス農業や、ヒツジ、ヤギを飼う半遊牧の牧畜が行われている。スエズ湾沿岸では石油や天然ガスの開発が進んでいる。
(5)シナイ半島地域も大部分が砂漠で、冬季に降雨のある地中海沿岸で農業が行われ、南部でアラブ系遊牧民族ベドウィンによる遊牧も営まれている。スエズ湾沿岸はこの国第一の油田地帯となっており、海底油田の開発も進んでいる。突端(とったん)のシャルム・エル・シェイクは国際的な海岸リゾート地となり、国際会議の場ともなる。
[藤井宏志]
政治
政治制度
議会制立憲共和国である。1971年9月の国民投票により承認された新憲法には、国家の性格を、労働者の同盟を基礎にした、民主主義、社会主義のアラブ共和国と定義しており、主権は人民にある。国家元首は大統領で、国民議会が推薦した候補を国民投票で決定する。任期は6年で再選に制限はない。大統領は閣僚を任命し行政権を行使する。エジプト革命以後、ナセル、サダト、ムバラクと軍人出身の大統領が続いている。国会は国民議会のみの一院制で、議員は、大統領指名のコプト教徒議員10名のほかは一般投票で選出される。政党は、ナセル政権時代は一党制であったが、サダト政権の1976年複数政党制となった。与党の国民民主党のほか新ワフド党、国民進歩統一党などがあり、女性議員もいる。2007年イスラム主義政党を阻止するため、宗教政党の禁止、反テロ法を国民投票で定めた。軍人、財閥の勢力が強い。地方行政区分はカイロ県、アレクサンドリア県など29県があり、その下に郡、村がある。それぞれ任命制の県知事、郡長、村長が置かれている。県、郡、村にはそれぞれ議会があり、議員は一部の指名議員のほかは一般投票で選出される。いずれにせよ中央政府の統制が強い。
近代的な司法制度が施行されたのは、イギリスによる実質的なエジプト支配が始まった1883年である。3種の下級裁判所と最高裁判所で構成される。第一審は各県にある地方裁判所、第二審は19の中央裁判所、第三審は六大都市にある高等裁判所が担当する。各裁判所とも刑事と民事の法廷がある。最終審はカイロにある最高裁判所が行う。このほか最高憲法裁判所、国家治安裁判所がある。最高裁判所は長官、副長官および36名の判事からなる。死刑制度がある。
[藤井宏志]
外交
エジプトは地理的にアラブ諸国の中心にあり、アジア、アフリカが接する位置にあるので、アラブ諸国や第三世界諸国の交流の場となり、政権担当者はアラブや第三世界の代表としての外交を展開したいという意志をもち、ナセル外交はその典型であった。パン・アラブを指向してシリアとの合邦を試み、イスラエルとの中東戦争ではアラブの盟主として戦った。非同盟諸国の代表としても活躍したが、アスワン・ハイ・ダム建設、軍事援助などで実質的にソ連に依存した。サダト政権の初期はナセル外交を踏襲したが、1972年7月ソ連軍事顧問団を追放し、アラブ穏健派の後援のもとに第四次中東戦争を戦い、イスラエル不敗の神話を打ち破った。そのあと米国務長官キッシンジャーの仲介によってイスラエルとの和平交渉に乗り出した。1976年にはソ連との友好条約を破棄、西欧諸国に武器供給を要請した。サダトは単身エルサレムを訪問してアメリカ政府仲介のもとにイスラエルとの和平交渉を成立させ、1979年3月両国は平和条約に調印した。こうしたエジプト単独の和平は、アラブ諸国とくに強硬派の批判を受け、外交的に孤立した。スーダンとの合邦を糸口にアラブ諸国との関係修復を図ろうとしたサダトは、1981年10月暗殺された。後任の大統領ムバラクは、アメリカとの友好関係を維持するとともに、アラブ諸国やソ連との関係改善を図り、1984年ソ連との大使の交換が実現した。イスラエルに対しては1982年駐イスラエル大使を召還するなど、関係は冷却化したが、一方で同年イスラエルからエジプトへのシナイ半島の全面返還を実現させた。中東和平交渉では、アメリカが主導しつつも、アラブとイスラエルの間に立って交渉の進展に寄与しているが、イスラエルのネタニヤフ新政権登場後の1996年にワシントンで行われた首脳会議では、新政権の強硬路線に反発して欠席した。1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍主体の多国籍軍に加わった。2001年のアメリカ同時多発テロを発端とするイラク侵攻には加わらず、2008年にはアメリカ軍などのイラクからの早期撤退を希望した。
[藤井宏志]
軍事
陸海空の三軍があり、総現役兵力46万8500人、最高司令官は大統領である。陸軍は誘導兵器ももち中東地域最強を誇っている。ナセル政権時代はソ連の軍事顧問団が駐在し、武器供給を受けたが、サダト政権の1972年ソ連軍事顧問団を追放した。武器供給国もアメリカ、フランス、中国などと多角化し、アメリカと協力して国産化計画を進め、アメリカ陸空軍と合同演習も行った。イスラエルとの和平成立後、戦争省を国防省と改称して、戦時態勢から自国の防衛やスーダンなど同盟国の防衛態勢へと移行した。国防支出は31億ドル(2007年度。国家予算の11.6%)、選抜徴兵制で満18歳以後1~3年の兵役義務がある。陸軍兵力34万人、予備役30万人で、地対地ミサイルをもつ。海軍兵力1万8500人、予備役1万5000人で、艦船56隻をもち、アレクサンドリア、ポート・サイド、スエズなどに軍港がある。空軍兵力3万人、予備役2万人で、作戦機458機、F16、ミグ、ミラージュ機や地対空・空対空ミサイルも保有する。このほか準軍隊として中央治安警察軍32万5000人、国境警備隊2万人、郷土防衛隊6万人、沿岸警備隊2000人を有する。
[藤井宏志]
経済・産業
エジプトは古くから、ナイル川流域に展開する農業と、砂漠のオアシスの恵み、それに地中海沿岸とアジア、アフリカを結ぶ商業とに国民の経済が依存してきた。依存の仕方はそれぞれの社会の条件によって異なる。
ナイル川流域の農業は、19世紀前半ムハンマド・アリーによる綿花の導入により、小麦、豆類の一毛作から二、三毛作へと変化した。殖産興業によるエジプト近代化のため、官営工場やインフラストラクチャー(道路、上下水道、鉄道など都市の基幹施設)の建設が進められた。日本の明治維新に先だつこと半世紀の壮大な構想であった。しかし19世紀後半、軍事支出とポート・サイド―カイロ―スエズを結ぶ鉄道建設およびスエズ運河の建設という大工事を進めたため巨額の対外債務を負い、フランス、イギリスの支配を受けることとなった。官営工場も経営不振で、近代化は挫折(ざせつ)し、スエズ運河も外国に管理され、以後、綿花モノカルチュア(単一作物生産)経済の道を歩むこととなった。1922年独立し、民族資本の芽生えがあったものの、大きな変化は1952年のエジプト革命を待たなければならなかった。革命後ナセルは反封建・民族主義の立場から、農地改革、スエズ運河の国有化、外国系金融機関の国有化を行い、1957年以後は社会主義的政策に移行し、重工業、金融、貿易、インフラストラクチャー(都市基盤整備)などを国有化して公共部門を強化した。しかし1967年の第三次中東戦争以後は、外貨収入の減少と巨額の軍事支出により、国家財政は逼迫(ひっぱく)した。1973年の第四次中東戦争後、破綻(はたん)に瀕(ひん)した経済を復興するため、ナセルの後継者サダトは対イスラエル和平交渉を進める一方、経済自由化政策をとり、市場経済への移行、外国資本の導入、民間部門の活性化による工業化を進めた。しかしそのため特定階層だけが恵まれ、インフレは高進して貧富の格差は拡大した。
2008年時点で、エジプトの国家経済を支えているのは、スエズ運河通航料収入、海外労働移民者の送金、観光収入、石油輸出代金の四つであり、これに先進国の経済援助が加わる。2008年度の国民総生産(GNP)1628億2000万ドル、1人当り国民総所得(GNI)1800ドル、国民所得の部門別割合は農業10%、工業32%、サービス52%などである。
[藤井宏志]
資源
輸出額の48.5%を占め外貨収入に大きく寄与している石油・天然ガスは、スエズ湾東岸のシナイ半島油田およびスエズ湾海底油田が主産地であり、このほかシャルキーヤ砂漠油田、ガルビーヤ砂漠油田がある。スエズからアレクサンドリアへはパイプラインが通じている。石油産業は国有化されており、石油公団(EGPC)が石油精製と流通を握っている。探鉱、採掘は外国企業との合弁会社が行っている。年産3697万キロリットル(2007)で、ここ数年増加の一途をたどっている。埋蔵量は5億8800万キロリットル(2007)であり、新油田の開発が進められている。天然ガスも年産2兆1700億立方メートル(2008)で、ナイル・デルタのアブーマディやアラメイン南方のアブガラーディグなどにガス田があり、アブガラーディグからギゼーまでガスパイプラインが通じている。
その他の鉱産物として、アスワン付近の鉄鉱石が年産120万トン(2006)、エシバイーヤなどの燐(りん)鉱石が年産65万トン(2006)、シナイ半島のマンガン鉱、アレクサンドリアなどの塩がある。
エジプトの発電は従来、石炭や石油による火力発電が主であり、アスワン・ダムなど3か所で小規模な水力発電を行っているのみであったが、アスワン・ハイ・ダムに210万キロワットの能力をもつ水力発電所がつくられて、一気に水力の利用が進んだ。このほか、海面下134メートルのカッターラ低地に地中海の水を運河で引き発電する計画がある。原子力発電所建設の計画も進められている。年間総発電量は1154億キロワット時(2006)である。
[藤井宏志]
農・水産業
農業生産の国民所得に占める割合は10%(2006)、農業に従事している人口は全体の31.2%(2006)で、年ごとにその割合を減じているとはいえ、農業は依然として国民経済の重要な部分を占めている。
エジプトの農業はこの150年間で大きく変化した。19世紀前半の綿花栽培導入以前、大部分の耕地は、8~10月のナイル川の洪水期に農地の周囲に築いた囲み堤によって、水を十分浸み込ませ、肥沃(ひよく)な泥土を沈殿させるというベイスン(囲み堤)灌漑(かんがい)方式によっていた。農耕は洪水期のあと冬作の小麦、クローバー、ソラマメ、タマネギなどを栽培する一毛作であった。初夏から秋にかけて栽培する綿花の導入には通年灌漑が必要不可欠であり、このためダムや水路の構築が行われた。綿花を中心とした2年あるいは3年の輪作体系がつくられ、従来の冬作に加えて、夏秋作の綿花、トウモロコシ、米、サトウキビ、ゴマ、さらにナイル川洪水期のアワ、トウモロコシというように、二毛作、三毛作が行われるようになった。灌漑、排水路の整備によって、ナイル・デルタにも耕地が広がった。全耕地面積は353万ヘクタール(2006)である。
綿花は長く柔軟な高品質繊維のエジプト綿として知られ、1940年代には輸出の85%を占め、綿花モノカルチュア(単一作物生産)と称された。作付面積は減少の傾向にあり、国内消費も増え、輸出の1.8%(2006)にすぎないが、11万トン(2007)を産する。主産地はナイル川下流およびナイル・デルタである。米(年産688万トン。2007)、トマト(年産755万トン。2007)も重要な輸出作物である。米は1ヘクタール当り5トン以上と高い収量をあげている。サトウキビ(年産1620万トン。2007)は年間を通じて高温の上エジプトで多く栽培され、国内消費に向けられており、栽培面積は増加の傾向にある。小麦は豆類、トウモロコシ、アワ、米などとともに主食作物であり、栽培面積59万ヘクタール、年産738万トン(2007)であるが、自給率は42%で輸入に多くを依存している。ヘクタール当り収量も低く、貯蔵ロスも10%ある。ナイル・デルタで60%が栽培されている。トウモロコシは栽培面積80万ヘクタールともっとも広く、年産624万トンであり、主として上エジプトで栽培されている。このほかジャガイモ、オレンジ、ブドウが栽培され、オアシスではナツメヤシが収穫される。
畜産としてウシが455万頭(2007。以下同じ)、農耕や運搬用のスイギュウが398万頭、ロバは167万頭、ヒツジ553万頭、ヤギ398万頭が飼育されている。近年、企業的大規模養鶏が盛んになってきた。
1952年の革命以後3回の農地改革が行われ、封建的な大地主はいちおう消滅した。すなわち、所有上限を1952年84ヘクタール、1961年42ヘクタール、1969年21ヘクタールと定め、これを超える農地を買い上げ、貧農に配分し、配分を受けた者を協同組合に組織化した。しかし21ヘクタールまでの中小地主の支配は依然として残存する。農業就業人口1人当り耕地は0.4ヘクタールと狭く、農耕技術も低い。食糧増産のための灌漑面積の拡大が行われているが、乾燥地の灌漑により、地下水位の上昇による加湿被害や塩害(土中に含まれる塩分が表土まで上昇)などの問題を生じている。
水産業は、紅海や地中海沿岸での漁業と、ナイル川やダムや水路での淡水漁業とが行われている。沿岸漁業では12万トン(2006)、淡水漁業では25.6万トンの漁獲がある。
[藤井宏志]
工業
工業への就業人口の割合は20.8%(2007)、工業生産の国民総生産に占める割合は32%(2007)で、アラブ諸国第一の工業国である。1952年の革命までは繊維、食品、皮革などの軽工業が主であったが、革命後、社会主義政策のもとで、第一次五か年計画により公共部門中心の重化学工業化(製鉄、化学、電気)が進展した。しかしその後の工業化計画は中東戦争のため中断した。1973年、戦時経済体制を脱却し、疲弊した経済を立て直すため門戸開放政策をとり、外資導入による復興を図った。ポート・サイド、スエズなどに免税地域を設け、5~15年の免税期間を置くなど外資による工業化を進める一方、1994年以降は国営企業の民営化を図っている。
主要工業は食品(製粉、製糖、ビール、搾油)、繊維、製鉄、アルミ、機械(自動車、原動機、農機具、自転車、兵器)、電気、肥料、セメント、皮革、石油精製などで、食品と繊維の生産額(石油を除く)が多い。自由経済政策以後、民間部門が伸びつつあるが、まだ公共部門の生産額が多くを占めている。公共部門は官僚化、非能率の欠点があり、民間部門は大手と中小の格差が大きい。主要工業地帯はカイロ、ギゼー、ヘルワン、ポート・サイド、スエズ、アミーリア、アレクサンドリアなどである。製糖、紡績、搾油は原料立地の工業で各地に工場が分布している。
[藤井宏志]
貿易
綿花モノカルチュア(単一作物生産)には変化がみられるが、輸入超過は続いている。総輸出額162億ドル(2007。以下同じ)に対し、総輸入額271億ドルと、109億ドルの輸入超過である。これは、綿花の輸出が振るわず、一方、工業原料、工業製品、食糧の輸入が増加しているからである。主要輸出品目は、石油製品(24.5%)、液化天然ガス(16.6%)、原油(6.6%)のほか鉄鋼、野菜、果物、米など。主要輸入品目は、機械類(14.7%)、小麦(5.8%)、石油製品(5.0%)のほか液化石油ガス、原油、自動車、プラスチックなどである(2007)。主要輸出先は、インド(11.3%)、イタリア(9.8%)、アメリカ(5.8%)、スペイン(6.4%)、フランス(3.1%)のほかオランダ、イスラエル、サウジアラビアなど。主要輸入先は、アメリカ(9.5%)、サウジアラビア(8.3%)、ドイツ(6.6%)、中国(6.0%)、ロシア(4.6%)のほかイタリア、フランス、オーストラリアなどであり、貿易相手国は欧米諸国の比率が高い。
[藤井宏志]
金融・財政
1961年に銀行の統合と国有化が行われ、中央銀行のほか商業銀行はエジプト国営銀行、ミスル銀行、アレクサンドリア銀行、カイロ銀行の4行となった。1974年の自由化措置により、外国銀行の合弁会社あるいは支店は、外国為替(かわせ)業務に限り営業できることになった。国家財政を支える4本の柱の石油・液化天然ガス輸出、海外労働移民者の送金、観光収入、運河通航料のうち、1970年代後半は石油輸出と通航料収入の増加で国際収支は黒字を示したが、その後の不況と逆オイル・ショックにより収入は伸びなかった。1980年代以降も燃料、農産物への補助金と食糧輸入により支出は増大し、市場経済化など経済改革への努力の一方で湾岸戦争により経済は悪化した。しかし1990年以降の石油価格高騰により、2007年の対外債務は299億ドルに減少した。
[藤井宏志]
交通
ナイル川や水路網を利用した水上交通は盛んである。静かに川面をすべるフルーカ(帆船)の姿はナイル川の風物詩である。スエズ運河は第三次中東戦争による8年間の閉鎖後、1975年再開された。船舶の大型化に伴って拡張工事を行い、17万トン級の船の航行と、1日通過量は60隻以上が可能になった。鉄道は、世界的にも早い時期に敷設されたカイロ―アレクサンドリア間(1856)をはじめ、カイロを中心に路線があり、総延長8600キロメートル(1990)、南はアスワン、西はカルアンまで延びている。自動車交通の発達につれて道路は整備されつつある。幹線道路の総延長は3万キロメートルを超え、乗用車264万台、トラック、バス61万台を保有する(2007)。航空路では11の空港があり、カイロ、アレクサンドリアには国際空港がある。国内では観光のためカイロ―ルクソール線がドル箱路線となっている。
1981~1985年の経済開発五か年計画は、鉱工業・運輸通信部門への投資計画とともに、農地開発と食糧増産、住宅と都市建設に力点を置いて進められた。
[藤井宏志]
社会
住民は大部分が地中海人種のエジプト人で、地理的位置からほかの地中海人種、アジア人、アフリカ系とも混血してきた。ナイル川をさかのぼるにつれ黒い肌の人が多くなる。7世紀以後のアラブ人の支配で、イスラム(イスラーム)化、アラビア語化した。少数民族として、スーダン国境近くのヌビア人、マンザラ湖畔のバスムリト、リビア国境付近のベドウィンなどがいる。このほかギリシア人、イタリア人、アルメニア人などの外国系住民もいる。
言語は正則アラビア語が公用語であるが、生活にはアラビア語エジプト方言(アーンミーヤ)を使う。上流階層では英語、フランス語も使う。観光施設では英語が通用する。
宗教は、エジプト革命後イスラム教(イスラーム)が国教となっている。他教徒もいるこの国で国教を定めたのは歴史上最初のことである。スンニー派のイスラム教徒が90%を占め、ムスリム同胞団、イスラム団、ジハードなどの過激派もいる。古くから農民に信じられたキリスト教で、上エジプトとカイロに信者の多いコプト教徒は約10%と推定される。このほか各派キリスト教徒、ユダヤ教徒が約30万人いる。イスラム教の慣習に従い木曜日の仕事は午前中だけ、金曜日が休日である。
1937年に1881万人であった人口は、第二次世界大戦後急速に増加し、1960年2577万人、1995年には5923万人となった。その後の年平均増加率は2.2%と高く、2006年には7200万9000人に、2009年には8299万9000人達した。平均寿命は男68.2歳、女71.7歳(2006)である。また農村から都市への人口の流入が続き、都市人口は43%に達している。とくにカイロへは全人口の8分の1が集中し、住宅難が問題となっている。1人当り国民総所得(GNI)は1800ドル(2008)であるが、階層間の所得格差は大きい。失業者が多く、外国への労働移民者は150万人に達している。鉱工業平均年間賃金は低く、クウェート、サウジアラビア、リビアなどへ働きに行く技術労働者が多い。
革命後、6歳~14歳の義務教育化、無償化が行われた。技術教育には力を入れている。小学校は6歳から6年間の年限で、卒業試験合格者は中学校(3年)、実業学校へ進む。その後、高校(3年)を経て、大学(4年)、高等専門学校(4年)、高等技術訓練所(2年)へ進む。大学は国立大学が7校あり、イスラム系のアズハル大学、カイロ・アメリカン大学が知られている。義務教育就学率は30%(1990)、識字率72.0%(2007)である。
病院1ベッド当り人口は455人、医者1人当り人口は417人(いずれも2000~2007)で、途上国では高いほうであるが、都市と地方の格差が大きい。1964年に健康保険法が成立し、病院は公共化されている。
[藤井宏志]
文化
ピラミッドや神殿に代表される何千年もの文化のうえに、その後の地中海の諸文化、イスラム文化、西ヨーロッパ文化が重なっているが、これらの影響を受けつつ、やはり基盤には悠久のナイル川のほとりに生まれた土着のエジプト人文化がある。国民性は、人なつっこく人情味が深く、温和で融通性に富むが、反面、誇り高く利己的で、自己主張が強い面をもつ。家庭では男性の家長が絶対的権限をもち、子女の結婚に際しても相手と婚資の交渉を行い、女性の地位は低いとされているが、これはたてまえで、実際に交渉を行う実質的権限をもつのは妻であることが多い。結婚式や葬式は古くからのエジプトの風習に従って行われ、イスラム色はない。コプト教徒の結婚式はコプト教の方式に従っている。イスラム教の戒律の遵守は他の国ほど厳しくない。
文化施設はカイロ、アレクサンドリアの二大都市によく整っている。カイロには国立図書館、エジプト博物館、コプト美術館、イスラム美術館があり、杮落(こけらおと)しにベルディの『アイーダ』が初演されたカイロ・オペラ劇場もある。アレクサンドリアにはグレコ・ローマン博物館などがある。
文学、美術の面でも創造的、現代的な作品が生まれつつある。とくに映画製作活動が目覚ましく、一時世界第3位の製作本数を示したこともある。映画は時代劇、音楽劇のほか、農民や労働者を描いた社会派映画がある。
主要新聞・雑誌はアラビア語で発行される。『アル・アクバル』(70万部)、『アル・アハラム』(40万部)、『アル・グムフーリア』(40万部)が三大紙である。ラジオ、テレビは国営である。メインが2チャンネル、地方チャンネルが七つある。テレビは24時間放映され、受像機は1382万台である(2006)。民間企業のCMが入る。言論界が政府批判を行うと取締りを受けることがある。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に、文化遺産として「メンフィスとその墓地遺跡:ギゼーからダハシュールまでのピラミッド地帯」「古代都市テーベとその墓地遺跡」「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」「カイロ歴史地区」「アブ・メナ」「聖カトリーナ修道院地域」、自然遺産として「ワディ・エル・ヒータン(クジラの谷)」が登録されている(「アブ・メナ」は遺跡崩落のおそれがあるとして、2001年に危機遺産リスト入りした)。
[藤井宏志]
日本との関係
1957年(昭和32)に文化協定を結び、文化交流にも力を入れ始めた。カイロ大学には日本語学科が設けられ、国際協力機構(JICA)による日本語講座もある。また日本の考古学者が常駐し、遺跡の発掘を行っている。技術協力では、砂漠の灌漑(かんがい)計画やスエズ運河拡張工事や運河架橋(二つの橋)工事を行ってきた。貿易ではエジプトから日本への輸出983億円、日本からの輸入1514億円(2007)となっている。日本への輸出品目は液化天然ガス(89%)、ガソリン、農産物、織物、日本からの輸入品目は自動車、機械類、電機製品などで、日本の輸出超過となっている。このほか借款による援助プロジェクトがあり、9社が企業進出している。
[藤井宏志]
『石田進著『エジプトの経済』(1978・中東経済研究所)』▽『アブデル・ラフマーン・シャルカーウィー著、奴田原睦明訳『エジプトの農村社会』全3巻(1977・アジア経済研究所)』▽『ムハンマド・マフムード・アルサッヤード他著、奴田原睦明訳『世界の地理教科書シリーズ15 エジプト――その国土と人々』(1979・帝国書院)』▽『吉村作治著『エジプト史を掘る』(1992・小学館)』▽『伊能武次著『エジプトの現代政治』(1993・朔北社)』▽『鈴木八司監修『エジプト』(1996・新潮社)』▽『山田俊一編『エジプトの開発戦略とFTA政策』(2005・アジア経済研究所)』▽『山田俊一編『エジプトの政治経済改革』(2008・アジア経済研究所)』