エジプト(英語表記)Egypt

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改訂新版 世界大百科事典 「エジプト」の意味・わかりやすい解説

エジプト
Egypt

アフリカ大陸の北東隅,ナイル川第1急湍(たん)以北の約1200kmにわたる細長い流域地帯が本来のエジプトで,地形上幅8~25kmの河谷地帯(上エジプト)と河口のデルタ地帯(下エジプト)とからなる。古くよりガルビーヤ砂漠中のオアシス(シワSiwa,バフリーヤal-Baḥrīya,ファラーフィラal-Farāfira,ダーヒラal-Dākhila,ハーリジャ(カルガ)al-Khārija,Khargaの各オアシス),第1・第2急湍間の下ヌビア,紅海沿岸,シナイ半島を勢力圏とし,この地域は現在のエジプト・アラブ共和国にほぼ対応する。エジプトという名称は,古都メンフィスの別名フウト・カ・プタハḤut-ka-Ptaḥに由来するとみられるギリシア名アイギュプトスAigyptosの転訛である。古代エジプト人は自国のことをケメトKemet(〈赤い〉砂漠に対する〈黒い〉土の国の意),タ・ウイTa-wi(上エジプトと下エジプトの〈二つの国〉の意)などと呼んだ。ヘブライ語ではミツライムMiṣrayimと記され,現代アラビア語での名称ミスルMiṣrにつながる。

 北アフリカの砂漠地帯を貫いて北流するナイル川がエジプトの生命線である。デルタ北西端のアレクサンドリアの年間降雨量204mm,カイロ30mm,ミニヤー以南の上エジプトはほとんど0に近いという,オリエントでは砂漠につぐ乾燥地帯にあり,ナイル川の浸食作用により形成された河谷および河口に,川が上流より運んできた肥沃な沖積土が堆積してつくりあげた土地(ナイル河谷約2万2000km2,デルタ約1万3000km2)だけが,人間の生存と農耕に不可欠な水を得て,人間生活の舞台となった。この状況は,灌漑地域の拡大による近年の生活空間の広がりにもかかわらず,基本的には変わっていない。毎年6月半ばより10月までの約4ヵ月間,ナイル川に流入する青ナイルとアトバラ川の水源であるエチオピア高原の季節的降雨を集めて増水した河水は,両岸の沖積原を覆う。この期間は主要作物である麦類の休閑期にあたるため,水路によって堤防で囲った耕地に増水を導き,約1ヵ月間冠水したままの状態に保つというエジプト独特の貯溜式灌漑が案出され,エジプトを古代世界最大の穀倉とした。まさにエジプトは〈ナイルの賜(たまもの)〉(ヘロドトス《歴史》2巻5節)であり,古代エジプト人は川を恵みの神ハピHapiとして崇拝した。灌漑機構の効率的な配置・運用のための集団労働の必要から政治社会の組織化が進んだ。

 東西を砂漠で限られた閉鎖的な地形と,きわめて規則的な季節的増水をもたらすナイル川の恵みとにより,エジプト文明は他のオリエント文明に比べて相対的に孤立した自律的発展を示す。このため文明の性格は伝統主義的,保守的で,豊かな食糧と砂漠の鉱物資源(石材,金,銅など)のおかげで対外侵略に乗り出すことはまれであり,平和的な交易で満足した。王朝末期以来次々と他民族の征服を受けて政治的自立を失い,ギリシア文明,イスラム文明などの強い影響を被ったが,古代に確立した生活様式を根本的に変えることなく,民族的特性を現在もなお保持している。

エジプトのナイル流域の人類の痕跡はヨーロッパの第2間氷期までさかのぼる。前期および中期旧石器の文化は西ヨーロッパや北アフリカと共通である。当時は湿潤で,北アフリカには草原が広がり,各所に森林が繁茂し,野生動物の宝庫であった。前期旧石器はナイル河岸の30mおよび15m段丘,カイロ近郊アッバーシーヤ`Abbāsīya,ハーリジャ・オアシスなどで確認され,アブビル型やアシュール型の握斧(あくふ),剝片(はくへん)石器(30m段丘),中後期アシュール文化の石器(15m段丘)が発見されている。中期旧石器は9m段丘上にみられ,ルバロア型の剝片石器や三角形の小型尖頭器(ポイント)などを特徴とする。これらはアッバーシーヤ,ハーリジャのほかファイユーム湖辺でも発見されている。後期旧石器時代とともに北アフリカの乾燥化が始まり,エジプトは周辺地域と異なる文化を形成する。北アフリカのカプサ文化やレバントの後期旧石器文化の石刃(ブレード)石器文化に対するルバロア型の剝片石器文化(エピ・ルバロア型とよばれる)である。同時にファイユームのエピ・ルバロア文化,ハーリジャのルバロア・カルガ文化とこれに続くカルガ文化,上エジプトのセビル文化など各地に地方色ある文化が出現する。上エジプト,クーム・アンブーKūm Ambū(コム・オンボKom Ombo)近郊の3m段丘より発見されたセビル文化は3期に分かれ,中期以降細石器化の傾向が顕著である。エジプトの場合典型的な中石器文化はまだ確認されていないが,細石器的傾向を示すものとして前述のセビル文化後期,カルガ文化のほかパレスティナのナトゥフ文化と類似する下エジプトのヘルワン文化がある。

沖積世に入ると乾燥化はいっそう進んでサハラは砂漠となり,ナイル流域の自然条件はほぼ現在に近づく。西アジア起源の農耕が伝わり,デルタ西縁のメリムデ・バニー・サラーマMerimde Banī Salāma(メリムデ遺跡),ファイユーム(ファイユームA文化),中エジプトのターサTasa(ターサーTāsā)にエジプト最古の農耕遺跡がみられる。これらの遺跡の時代・性格など未解決の部分が多いが,今のところ前5000年ころに始まり,前5千年紀を通じて存続した新石器文化とされている。大麦,エンマ小麦を栽培し,ヤギ,羊,牛,豚を飼育するが,なお狩猟漁労採集にも依存し,集落の規模は小さい。穀物はフリント製石刃を木柄に取り付けた石鎌で刈り,地中に埋め込んだ編籠や地下貯蔵穴に蓄え,石棒と石皿で粉にした。弓矢・棍棒などでカモシカ,カバ,ワニを狩り,銛(もり)で魚を捕った。石器にはほかに局部磨製石斧があり,石鍬(いしぐわ)として用いられたと見られる。亜麻も栽培され織物とされた。土器は手づくねの黒地または赤地の粗製品が日常用いられたが,ターサでは朝顔形の口縁をもつ幾何学文の黒色刻文土器も作られた。住居は簡単な木組みに葦の壁や天井をめぐらせた程度で,楕円形や馬蹄形のプランをもつが,メリムデでは後に粘土張りの床・壁をもち,排水用の土器を床に埋め込んだ竪穴式住居も発達する。ファイユームには炉址も発見されている。埋葬には地方色が見られ,メリムデでは住居の近くまたは住居内に掘った浅い坑に右側を下にして顔を東に向けた横臥屈葬で,副葬品はほとんどないが,ターサでは墓地内に左下西面の横臥屈葬である。副葬品には,土器,石器のほかさまざまな装身具類(貝製・象牙製ビーズ,貝製の垂飾(すいしよく),駝鳥(だちよう)の卵殻の円盤)や日用品(象牙製の櫛,眼の周りに塗るクジャク石をすりつぶすための化粧板)がある。シナイ半島産のクジャク石や紅海産の貝など,既に交易も始まっていることが知られる。

原始農耕文化はエジプト独自の文化の始まりであり,上エジプトではターサ文化に続いてバダーリ文化アムラ(ナカダ第1)文化ゲルゼ(ナカダ第2)文化と継起し王朝時代へ移行する。しかし下エジプトのメリムデ文化に続くオマリ文化,マアディ文化の内容は,ナイル水位の上昇によるデルタ内部の考古学的調査の困難さのためほとんど不明である。

 バダーリ文化は遺跡の分布,文化の内容共に先行するターサ文化と重なる部分が多く,ターサ文化をバダーリ文化の一局面とみる説も強い。鍛造による銅製のビーズが出現し,金石併用期に入ったことを示す。土器には黒色刻文土器のほか,赤色磨研土器,黒色口縁土器が加わり,細かな条痕文を特徴とする。象牙製の櫛やスプーンの動物装飾,小型の人物土偶や象牙偶(特に女性像)は造形美術の萌芽を示す。土器をはじめ南方の強い影響が指摘されている。

 アムラ文化はナカダを中心に上エジプト全域に広がり,人工灌漑の普及による農耕経済の確立を示唆するが,土器(白色交線文土器)の文様,動物形土器,動物装飾の櫛・化粧板(パレット)・ピン,各種の狩猟具(鏃,槍,銛,棍棒)などからみて依然として狩猟漁労も重要な生業である。銅の使用も拡大し,化粧具,銛,鏃,ピンなどが作られ,金のビーズも多量出土する。交易圏は拡大し,アジアから銀,鉛が輸入されている。

 ゲルゼ文化と共に人口の増加,文化水準の著しい向上,社会分化の拡大と政治的統一の進行など王朝時代への発展が加速する。アムラ文化と同じく上エジプト中部から上エジプト全体を覆い,下ヌビアに及び,末期にはデルタのマアディ文化にも取って代わる。土器は特徴的な〈彩文土器〉や波状把手土器が出現し,手回しドリルの導入により精巧な石製容器が製作され,圧剝法によるフリント製石器(石刃,石鏃など)の技法も最高水準に達する。化粧板は動物形が盛行するが,後期には大型の楯形奉納用化粧板が出現,表面に浮彫が施された。集落,墓地の規模は拡大し,日乾煉瓦造りの住居や墓も現れ,後期には西デルタに周壁をもつ都市が成立する。西デルタを通じて注口土器や円筒印章などが伝えられ,西アジアとの交渉の活発化を示す。文字の使用も始まったと見られる。

王国の統一による歴史時代の開始からアレクサンドロス大王のエジプト征服までは〈王朝時代〉とよばれ,前3世紀にマネトン(マネト)が著した《エジプト史》にもとづいて31の王朝に分けられている。この王朝区分は現代においても踏襲されているが,王権の強弱(同時に文明の水準の高低)に対応して,古王国・中王国・新王国の各時代,それらにはさまれた第1・第2中間期,および興隆期(初期王朝時代)と衰退期(末期王朝時代)の7期にまとめられている。

マネトンによればメネスという名のティニス出身の上エジプト王が下エジプトを征服して第1王朝を開き,新都メンフィスを建設したという。王国の最終的統一以前にも〈さそり〉王など下エジプトを征服した上エジプト王がいたことはゲルゼ文化末期の奉納用大型化粧板の浮彫などから知られており,ゲルゼ文化のデルタへの浸透はこの過程に対応すると考えられる(〈原王朝〉)。メネスが当時の王名のどれを指すのか論争があるが,下エジプト征服を刻む有名な化粧板の奉納者ナルメルNarmer王よりも,メンフィスの墓地サッカラに最初の王墓を建造した次のアハAha王と見るべきであろう。ティニスからメンフィスへの王都移転は,王国統一に協力した上エジプト有力首長の影響力からの離脱と下エジプトの確保とを目指しており,州知事を通じて州単位の灌漑水路網を整備し,レバノン杉の輸入など対外交易を独占しつつ王権の強化と中央集権化が進められた。王は天の神ホルス(隼(はやぶさ)の姿をとる)の化身とされ,王名はセレクserekhと呼ばれる隼を頂く王宮の枠内に記された。第2王朝末,王権強化に反対する勢力がペルイブセンPeribsen王を擁立,国内は一時乱れるが,カセケムイKhasekhemui王が再統一に成功,王の権威は最終的に確立する。

第3王朝とともに王を頂点とする中央集権国家は名実ともに完成,古代エジプト文明は最初の繁栄期を迎える。王は行政(司法を含む),祭祀の最高責任者であり,みずから行うべき機能を委任して代行させるものとして官僚・神官の任命権を握り,要職には王族をあてた。地方には40あまり(プトレマイオス王朝では42)の州(ノモスnomos)が置かれ,州知事が任命された。州は守護神を共同信仰する共同体あるいは部族国家を原型とすると思われるが,初期王朝時代に整備された貯溜式灌漑水路網の一単位に相当し,それぞれが公儀宗教に組み込まれた州の守護神をもつ。王は天の神ホルスの化身,第4王朝初頭では太陽神そのもの,第5王朝以降は太陽神ラーの子として統治し,死後は冥界の支配者オシリス神として永遠に支配するとされ,これにふさわしい墓所として壮大なピラミッドが造営された。このため古王国時代は〈ピラミッド時代〉とも呼ばれる。第3王朝のジェセル王がサッカラに造営した〈階段ピラミッド〉を最初とし,第4王朝の祖スネフルSnefru王のメイドゥーム,ダハシュールのピラミッドを経て,ギーザの三大ピラミッド(クフKhufu,カフラーKhafra,メンカウラーMenkaura3王のピラミッド)で頂点に達する。とくにクフ王の〈大ピラミッド〉の周囲に整然と配置された王妃の小ピラミッド,王族・高官のマスタバ墳は,高度に中央集権化された国家の身分秩序を忠実に反映している。

 第5王朝にはいると太陽神ラーの信仰が有力となり,王はピラミッドと同時に太陽神殿をも造営し,国家祭祀の中心は王から太陽神に移る。このためピラミッドは小規模となり,建造技術も急速に低下する。王族の高官職独占は崩れ,官職世襲化の動きが強まる。この傾向は第6王朝になると州知事職を中心にいっそう加速し,州知事は土着化して自立性を強め,ペピ2世Pepi IIの在位94年という長い治世が終わると,王権は有名無実となる。しかし第5~6王朝の対外交渉は活発で,ヌビア,シナイ半島,ビュブロス,プント(現在のソマリアか)にしばしば交易遠征隊が派遣され,銅,香料,木材,象牙などが輸入された。第6王朝のウニWniやハルクウフHarkhufのヌビア遠征は名高い。

第7~8王朝は短命な王が相次いで交替,王朝の支配領域は首都メンフィス周辺に限られ,各地に州知事の世襲化した州侯が分立,一種の〈封建時代〉を現出する。この時代の初めメンフィスを中心に民衆による〈社会革命〉が行われたことが,《イプエルの訓戒》などの文学作品から読み取れる。しかしこの激しい混乱期は長続きはせず,ヘラクレオポリスを都とする第9・10王朝とテーベを都とする第11王朝との国土二分状態が約100年間続き,中エジプトをめぐって一進一退の和戦を繰り返す。社会の混乱は,古王国時代の神殿墳墓の破壊略奪など従来の権威に対する挑戦を引き出し,古王国時代に確立した秩序を至上とする価値観を揺るがして厭世観や来世への不信,王や神に対する非難などさまざまな思想の実験を行わせた(〈思想革命〉)。これらの実験は当時興隆した文学にその痕跡をとどめている。

南北2王朝の対立は,南が北を征服して統一を回復するというエジプト史の基本パターン通り第11王朝メンチュヘテプ2世Mentuhetep IIの国土再統一で終わる。以後テーベは約1000年にわたりエジプトの政治の中心となり,その守護神アメンも王朝神・国家神として神々の王の地位を保つことになる。第11王朝は中央集権国家体制の再建に急であったため,第1中間期に成長した世襲貴族の反発をかってクーデタで倒され,アメンエムハト1世を祖とする第12王朝が成立する。新しい王朝は地方有力貴族の多くを州知事に任命,貢租の一部の自由裁量処分や私兵の保持など支持勢力である世襲貴族の特権を尊重するが,州知事間の衝突や特定の州知事の勢力拡大を防ぐため,州の境界と灌漑水路の用水権を明確に定め,裁判官の任命権を確保,王権の経済的基盤を強化するためファイユームの干拓に着手し,首都をテーベからファイユーム盆地に近いイチ・タウイ(現在のラーフーン)に移すなど将来の中央集権化の実現へ向けて準備する。王に忠実な官僚を養成するため,第1中間期に形成された都市居住の工人層や王に直属する小土地保有民(いわゆる〈庶民〉)の子弟に対し教育を奨励し,文字を習得させた。アメンエムハト1世の方針は,王の暗殺にもかかわらずセンウセルト1世以下の諸王によって受け継がれ,第5代センウセルト3世Senusert IIIの〈行政改革〉の断行により完全な中央集権化に成功する。対外交易も活発で,ビュブロス,クレタ,プント,シナイ半島,ワーディー・ハンマーマートにしばしば通商のための遠征隊が派遣され,王権の経済基盤強化に貢献した。ヌビアに対しては軍事遠征が行われ,植民地化が試みられた。センウセルト3世は治世の前半ヌビアに親征して第2急湍地方までを領土とし,セムナ,ブヘンなどの要塞を築いて南の備えとした。〈行政改革〉によって完成した官僚機構は,古王国に比べて官僚の数がはるかに多く,機構も複雑化し,同一の任務に必ず複数の官僚が関係し,相互にチェックし合い,最終の判断は宰相を通じて王に一元化するしくみになっている。王権の基盤である工人層は,同業組合によって国家の統制を受けた。

第13王朝にはいると王権は再び衰えて王位は次々と交替する。しかし前半は官僚機構が有効に働いたため社会の混乱は少なかった。デルタ東部国境の防備が手薄となったのに乗じてヒクソスと呼ばれる異民族がアジアより侵入,デルタ東部を中心に定着し,傭兵として実力を蓄えたのち,前1650年ころクーデタにより新王朝を開く(第15王朝)。前2千年紀前半の西アジアはインド・ヨーロッパ語系諸民族の移動を契機とする民族大移動期にあたり,小アジアのヒッタイト,ユーフラテス上流のミタンニ,バビロニアのカッシートなどインド・ヨーロッパ語系民族を支配者とする国家が建国された。この余波がシリア・パレスティナを経てエジプトに達したもので,第15王朝を形成したヒクソスの主力民族については北西セム人(アモリ人)説とフルリ人説とが対立している。第15王朝はデルタから南パレスティナを直接支配するとともに上エジプト,ヌビアには宗主権を行使した。ヒクソスの支配はエジプト史の転換点といえる。アジアの一部を包含する国家の出現の結果エジプトはそれまでの交易中心の相対的孤立状態を脱し,政治・経済・文化ともにアジアと緊密な関係をもつにいたる。ヒクソス自体は独自の文化に乏しいが,馬と戦車,複合弓,青銅製の剣,小札鎧(こざねよろい)など各種の軍事技術・兵器をはじめ,新しい文化要素がさかんに流入した。ヒクソスの宗主権下にテーベに成立した第17王朝は,異民族支配からの解放を旗印に職業軍人層の養成,軍事国家体制の整備,国民意識の高揚に努力し,新王国時代の対外進出の道を準備する。

前1542年ころテーベ王朝のアアフメス1世Aahmes Iがヒクソスの王都アバリスを占領,ヒクソスを国外に駆逐し第18王朝を開く。王はヒクソスの最後の根拠地をたたくため南パレスティナに遠征,下ヌビアも回復する。トトメス1世Thotmes Iは当時シリア・パレスティナに進出を図っていたミタンニに対抗して一時的にユーフラテス河畔まで占領する。しかしハトシェプスト女王は平和交易政策に転じ,プントとの香料貿易を再開,国内ではディール・アルバフリーの葬祭殿をはじめ,旺盛な建築活動を行い,芸術の復興を鼓吹する。女王の死後単独の支配者となったトトメス3世はただちにアジア遠征を再開,17回に及ぶ出兵の末,北はユーフラテス河畔から南はナイル第4急湍に達するエジプト史上最大の領土を獲得,一時的な支配権の承認をこえた植民地としての支配体制を確立する。王は有能な将軍であると同時に行政官であり,臣属国の君侯の地位は保障して自治を認める代りに,長子を人質としてテーベの宮廷に集め,エジプト風の教育を施した。アジアの支配地を三つの属州に分割してそれぞれ総督を置き,要所に駐屯軍を常駐させ,臣属国に対する押さえとし,一方ヌビアは総督を置いて直轄支配地とした。王の巧みな支配体制は帝国の繁栄を保障し,当時の大国(ヒッタイト,バビロニア,アッシリア,キプロスなど)はこぞって友好関係を求めて朝貢した。交易圏はエーゲ諸島からアラビアに及び臣属国の貢租や戦利品を含めた膨大な富が王の宝庫に流入,カルナック神殿はじめ豪壮な建築にあてられた。トトメス4世Thotmes IVのミタンニとの同盟とミタンニ王女の後宮入りにより支配体制はいっそう固まり,アメンヘテプ3世(在位,前14世紀前半)の下で頂点に達する。当時のエジプトを軸とするオリエント世界の外交関係の史料が,楔形文字で記された〈アマルナ文書〉である。

 しかしこの征服の加護者とされたテーベの守護神アメンもまた大量の富や土地の寄進を受けて経済力を蓄え,アメン神官団の政治や王位継承への介入が始まる。神官団の影響力を排除し,王権の一元支配の貫徹を目ざしたのがイクナートン(アメンヘテプ4世)の〈宗教改革〉である。しかし急激な改革に伴う内政の混乱とヒッタイトの進出によるアジア植民地の喪失は官僚と軍人の信頼を失わせ,改革は一代限りで終わり,ツタンカーメン王による伝統信仰の復興がなされる。アメン神官団の支持で将軍ホルエムハブHoremhabが即位,王権側の試みは挫折して軍人と神官の勝利に終わる。
アマルナ時代

第19王朝の諸王は帝国の再建を試み,セティ1世はパレスティナの再征服に成功,シリアに軍を進めるが北シリアはヒッタイト側にとどまる。ラメセス2世は北シリアの回復を目ざして東デルタに新都ペル・ラメセスを建設,オロンテス河畔のカデシュでヒッタイト軍と決戦するが痛み分けに終わり(前1286ころ),のち前1260年ころヒッタイト王ハットゥシリ3世との間で平和条約を結んで,戦争状態の終結,政治亡命者の引渡し,相互軍事援助,国境の現状維持を確認し合い,ヒッタイト王女を後宮に迎えた。その際ヒッタイト王自身もエジプトを訪問している。両国が防御同盟を結んだのはアッシリアの進出と東地中海北部で新しい民族移動(〈海の民〉の移動)の動きが始まったためである。条約締結により対外情勢は一時的に安定,王の精力は国内での大建築活動に向けられた(カルナック神殿大列柱室,アブ・シンベル神殿など)。メルエンプタハMerenptah王はリビア人と連合して,西デルタに侵入してきた〈海の民〉(シチリア人,サルディニア人,アカイア人,リュキア人,テュルセニア人)を撃退,捕虜を傭兵としてエジプトに定住させた。ヘブライ人の〈出エジプト〉は王の晩年の事件かもしれない。〈海の民〉は第19王朝末期の混乱に乗じてヒッタイト王国を滅ぼし,第20王朝初頭水陸よりパレスティナ・東デルタに迫るが,ラメセス3世はこれを撃破,捕らえたフィリスティア(ペリシテ)人らを南パレスティナ海岸に定住させ国境の備えとした。対外的には危機を脱するが,国内では神殿への富の集中,神官職の世襲化,外人傭兵の増大,官僚の汚職など状況は悪化し,ラメセス3世を継いだ4世から11世までの同名の王の間に王権は急速に衰え,アジア植民地は失われ,経済力も低下した。傭兵と神官のみ勢力を増大,ついにアメン大司祭ヘリホルHerihorが王位を奪取する(前1070ころ)。

ヘリホルと同じころデルタのタニスで将軍スメンデスSmendesが即位,第21王朝を開く。以後政治の中心は完全にデルタに移り,テーベはアメンの聖都として宗教の中心地の色彩を強める。前950年ラメセス時代以降傭兵として定住していたリビア人の将軍シェションク(シシャク)Sheshonqがブバスティスに第22王朝を開き,エルサレムを占領するなど一時勢威をふるうが,のちサイスに第23~24王朝が並立,政治・文化ともに水準低下が著しく,第21~24王朝を〈第3中間期〉と呼ぶ学者もいる。前8世紀後半ナイル第4急湍地方のナパタに興ったエチオピア人の王がエジプトを征服(第25王朝),アメン信仰の復興など文化の再建に努めるが,前671年アッシリア王エサルハドンにタハルカTaharqa王が追われ,エジプトはアッシリア帝国の一部となる。しかし将軍プサンメティコス(プサメティコス)1世がイオニア人傭兵の援助でアッシリアから自立(第26王朝),文化の復興のため古王国時代の芸術・言語・文字を模倣した復古主義を推進した。王はイオニア人傭兵をデルタに植民させ,のちアアフメス(アマシス)2世Aahmes IIがメンフィスに都を移したが,ギリシア人商人のため植民市ナウクラティスの建設を許可,ギリシア交易の独占権を与え,経済の復興の一助とした。ネコ(ネカウ)2世は,アッシリア再興のため援軍を送るが,前605年カルケミシュの会戦で新バビロニア王ネブカドネザル2世の軍に大敗し,以後アジアへの野心を放棄する。オリエント世界を統一したアケメネス朝ペルシアのキュロス2世(大王)の子カンビュセス2世は前525年エジプトを征服(第27王朝),第28~30王朝の下で一時的に独立を回復するが,再びペルシア帝国に併合され(第31王朝),前332年アレクサンドロス大王に征服される。相次ぐ異民族支配の下でエジプト文明はますます神殿と神官の手で担われていくことになる。

社会の中心は王,すなわちファラオ(旧約聖書ではパロ,エジプト語ペル・アア〈大きな家〉に由来)である。王は地上において創造神の役割を演じ,創造神が天地創造時に定めた宇宙秩序(エジプト語マアト)を維持し更新することが期待され,この意味で神と見なされた。マアト維持の機能は,人間社会に対する行政機能と,秩序を保証する神々との調和ある関係を保つための祭祀機能とからなり,王はそれぞれを官僚と神官に権限を委任して代行させた。理念上,官職と神官職との区別はなく,いずれに任命されるかはまったく王の意志次第とされた。古王国前半においては,ファラオの職務代行者はファラオの血統の濃い者こそふさわしいとして,要職は王族(とくに王子)に独占されている。後には文字を習得し,有能でさえあれば,家柄に関係なく高位に昇進できるとされた。国家の要職についた官僚(および神官)が〈大人(たいじん)〉(貴族)である。古代エジプトの社会層は〈大人〉と〈小人(しようじん)〉とに大別でき,下級官僚(〈書記〉)から〈大人〉への道は理念上平等である。現実には教育を受けうるのは貴族の子弟に事実上限られ,中王国時代王権が積極的な勧誘を行った場合を除き,農民や工人の子弟が〈大人〉になることは困難であった。

 軍役は賦役の一部として課せられたため,軍人層の成立は,大規模な軍事遠征が恒常化する新王国時代以降である。しかしその社会的評価は低く,指揮官には文官優越の原則が堅持され,新王国後半からは外人傭兵が軍隊の主力となっていく。工人層(彫刻師,金細工師,金属細工師,宝石細工師,指物(さしもの)師,大工,左官,石工,陶工,履物作りなど)は,原料のほとんどが国家の統制品であり,独立自営は事実上不可能であったため,もっぱら国営の工房か神殿など公的機関の経営する工房で働いた。新王国時代の王墓造営工人の集落がテーベ西岸のディール・アルマディーナに発見されている。対外交易は国家に独占され,国内の物資流通も国家統制下にあるため,新王国末期にいたるまで商人層は存在しない。一般人民の大部分を占めるのは農民で,貢納と賦役の主要部分を受け持った。貢租は収穫直後,収穫の2~4割を納入,賦役は増水による農閑期に軍隊として組織され,灌漑水路の開削や浚渫(しゆんせつ),開拓,宮殿や墓陵の造営,採鉱・採石・交易のための遠征や軍事遠征に従事した。土地の所有権は王にあり,国有地もしくは神殿・官庁など公的機関の直営領を割り当てられて耕作した。新王国以降になると事実上の所有権をもち,土地を売却する農民も出現する。官職に付随する土地,功労者に下賜された土地など〈大人〉層の場合には早くから事実上の土地所有が見られた。奴隷の数は少なく,家内奴隷が主体で,生産の主要な担い手となることはなく,貢納賦役の忌避者,罪人,外人奴隷,奴隷の子などからなり,新王国では捕虜奴隷が急増する。商業の未発達のため債務奴隷の少ないのがエジプト奴隷制度の特色である。当時の生活の状況は墓壁に描かれた浮彫や絵画から具体的に知ることができる。

宗教は社会のあらゆる分野を支配している。多神教で,自然現象,天体,動物,石,樹木など人知を超えたあらゆるものに神性を認めて神格化し,部族,村落,都市,州ごとに守護神をもっている。狩猟民の信仰に由来する動物神が多く,歴史時代にはいって神の擬人化が進んでも,完全な人間の姿で表現される神はプタハ,ミン,オシリス,アメンなどごくわずかで,人体に動物の頭をもつ姿で表現される神が多い(山犬頭のアヌビス,隼頭のホルス,雄羊頭のクヌムKhnumなど)。これらの地方神のうちプタハ,ラー,アメンなどは,国家統一後王朝の守護神・国家神として最高神とされたが,州の守護神もまたそれぞれの州で天地の創造者として最高神とされ,王の主宰する公儀宗教に組み込まれて厚く尊崇された。これら諸神の並存する世界に秩序を与えるため,神々を家族に構成し,特殊な職業の守護神と見なし(プタハは工人,クヌムは陶工,トートは書記,アヌビスはミイラ作りなど),宇宙創造神話を軸とする神話の体系化(〈神学〉)を試みた。太陽神アトゥムを創造神とするヘリオポリス神学,4組の原初の男女神(のち月神トート)を創造神とするヘルモポリス神学,市神プタハの言葉による天地創造のメンフィス神学などが知られている。うちヘリオポリス神学がアトゥムに代わってラーを創造神とし,冥界の支配者オシリスとその子ホルスを神々の系譜に加えて優勢となり,創造神は太陽神ラーという観念が定着,新王国の国家神アメン・ラーのように,他の神々もラーとの習合により創造神の地位を正当化した。神殿は神の住居とされ,王侯貴族同様神官が召使いとして仕え,祭祀の基本は神像に対する身の回りの世話と飲食物の奉仕であった。

 エジプト人は死後の再生復活を信じ,現世と同じ生活が来世も続くことを願った。古王国時代は王のみが死後オシリスとなって永生を得,臣民は来世も王に仕えて永生にあずかるとされたが,第1中間期の王権の衰退後は,必要な準備さえ整えれば誰でも永生復活が可能とされた。準備とはまず,(1)死者の住居である墓,(2)死後の生活に必要な品々の副葬,(3)飲食物の定期的な供与(供養)の確保であり,生前より心がけておかねばならず,死ぬと,(4)遺骸をミイラにして保存し,(5)魂を呼び戻し復活させるための葬儀を営んだ。生者と同じく死者も食物が不可欠とされたため,供養の準備に力が注がれ,供養用の土地指定,食物の副葬,模型の副葬,供物や供物に関係する場面の模型や壁画を現実化するための呪文の壁面装飾など工夫がこらされ,供物の壁画は来世で実現したい現世の生活の壁画へと主題を広げていく。

宗教文学には死者の永生復活を助ける呪文を集めた古王国の〈ピラミッド・テキスト〉,中王国の〈棺柩(かんきゆう)文(コフィン・テキスト)〉,新王国の〈死者の書〉,新王国王墓の壁に記された《冥界(案内)書》《アテン賛歌》など神々に対する賛歌があり,王に対する賛歌やラメセス2世の《カデシュ戦勝歌》もある。世俗文学ではまず教訓文学が出現,古王国のカゲムニやプタハヘテプ,中王国のドゥアケティ,新王国のアニの教訓や書記への勧めなどが書かれ,官僚としての人生の知恵を教えた。官吏たちの自伝的な墓碑銘もある。第1中間期から中王国にかけては世俗文学の興隆期で《雄弁な農夫の物語》《イプエルの訓戒》《ネフェルティの予言》《シヌヘの物語》《難破した水夫の物語》《生活に疲れた者の魂との対話》などに混乱に対する政治責任の追及,厭世観,新しい秩序の賛美などのさまざまな思想上の実験が反映されている。新王国の《二人兄弟の物語》《ウェンアメン航海記》は当時の開放的な空気を反映して,心情を率直に表現している。当時の日常生活を反映する恋歌や,牧人・農夫・漁師の歌もパピルスや墓壁の場面に記されて残っている。

 学問は実用的な目的に奉仕するものとして発達した。灌漑農業に必要な増水・減水や播種・収穫の時期,ピラミッドの地取り,宗教祭儀の正しい日時の決定などのため天体観測がなされて天文学や暦学が生まれ,減水後の耕地の再測量,灌漑工事やピラミッド・神殿建築など土木工事のための数学(特に幾何学),ミイラ製作の必要から解剖や症状診断,薬理の知識を得て医学や薬学が発達した。ただし治療には投薬とともに呪術的処置も併用されている。これらの科学的知識はパピルスに記されて神殿の文庫に保管された。算術や幾何学の例題と解答を集めた〈リンド・パピルス〉,病気の症状と治療法を集成した〈エーベルス・パピルス〉,外科手術の診断と治療法の〈エドウィン・スミス・パピルス〉などがある。〈実学〉として発達したため知識の集積にとどまり,事実をつなぐ法則の発見にはいたっていない。

前323年のアレクサンドロス大王の病没後,部将の一人プトレマイオス1世はエジプト太守として赴任,部将間の後継者争いの末に前305年エジプト王位を宣言する。王はファラオの完全な後継者としてその宮廷儀礼を踏襲,支配民族であるギリシア人固有のポリスは,第26王朝以来のナウクラティス,アレクサンドロス大王の建設したアレクサンドリアにプトレマイスを加えたにとどめ,前代よりの行政機構をそのまま受け継ぎ,要職にギリシア人(およびマケドニア人)をあて,ギリシア的合理性をもって運用した。国土王有の原則はいっそう徹底し,神殿領,兵役義務の代償に軍人に与えられる軍事賦田地,高位高官に贈られる恩賜地のような下賜地といえども貢納の義務を負い,一方,王領の農民は借地人として登録され,作物の種類や播種量,播種・収穫の時期まで統制を受け,貢納賦役の義務は重く,小麦の収穫の1/3を納入した。経済活動にも国家統制の網がめぐらされ,油,塩,パピルス,織物,ビール,皮革などの生産・販売,天然炭酸ソーダ(ナトロン)坑,鉱山,採石場での採掘,狩猟,漁労,牧畜,銀行業務など直接間接に国家の独占事業とされ,毎年生産規定を発布,価格を公定し,高い関税を輸入品に課して国内での高価格を維持した。南シリア沿岸地方の領有により,南アラビア経由のインド商品(象牙,染料,黒檀(こくたん),木綿,絹など)およびアラビア商品(真珠,香料,珊瑚(さんご)など)の仲継貿易は国庫に大きな利潤をもたらし,首都アレクサンドリアは国際都市として栄え,豪奢な宮廷生活を支えた。こうしてプトレマイオス1世から同3世までの間に,中央集権的官僚機構,統制経済および東西交易による利潤の獲得と国力の充実により,プトレマイオス王朝はヘレニズム世界最強の国家に成長し,その領土は北はフェニキア沿岸,キプロス島,小アジア沿岸,キクラデス諸島からトラキア,黒海沿岸に及び,西はキレナイカに達した。土着エジプト人の支持を確保するために旧来の神々の信仰を認め,ファラオとして祭祀を主宰,神殿を建立したが,ギリシア人とエジプト人との融合を宗教上で積極的に推進するため,メンフィスで崇拝された聖牛ハピHapiの姿をもったオシリス神にギリシアの神ハデス(プルトン)の属性を加えた新しい予言と治癒の神セラピスを創設して国家神とし,オシリスの妻イシスとその子ハルポクラテスHarpokratēs(ホルスの一形態)と共に三柱神とした。君主崇拝も採用され,プトレマイオス2世以降王は生前より神として国家祭儀を受け,死後は救済神として祀られた。2世はまた実姉アルシノエ2世を王妃とし,エジプト王家に伝統的な姉弟(兄妹)婚を導入した。

 しかしシリアのセレウコス朝にアンティオコス3世が即位すると,東西交易の拠点フェニキア沿岸の占拠を狙って進軍,プトレマイオス4世はエジプト人を初めて徴兵してこれを撃退する(前217,ラフィアの戦)が,5世の在位中(前204-前180)にキプロス以外の全海外領土を喪失,ローマに援助を求めたため以後ローマの東方干渉が始まる。ラフィアの戦の勝利によるエジプト人の民族的自覚と海外領土喪失による農民への重税は,農地放棄や農民一揆を頻発させ,神官階級の特権を増大させ,国家財政はいっそう窮迫した。王位継承をめぐる王室内の対立はローマの干渉をいっそう露骨にし,ローマの将軍アントニウスと結んだクレオパトラ(7世)は,オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れて(アクティウムの海戦),エジプトはローマの属州となる。
プトレマイオス王国

オクタウィアヌスはエジプトの戦略的・財政的重要性を認識し,騎士階級出身者を総督に任命する皇帝直属の属州としたのみならず,ファラオの後継者としてプトレマイオス王朝の統治原理を継承し,皇帝の金庫,ローマ市民の穀倉として最大限に利用し尽くすこととした。ローマ人が官僚・軍人として渡来し,ギリシア人,マケドニア人は第2位に転落,エジプト人の被征服者としての地位はいっそう固定した。既にプトレマイオス朝後半より土地私有の傾向が増大していたが,皇帝はこれを承認,その代償として土地私有者を強制的に国家官僚に任命した。村や町は自治体としての機能を認められ,評議会が組織されたが,徴税義務が課せられ,義務の増大以外の何ものでもなかった。ローマ帝国の窮乏化とともにエジプトに対する財政的負担はますます増大,国有地農民の逃亡が相次ぎ,荒廃した国有地は私有地に強制的に割り当てられ,大土地所有を促進した。この傾向は東・西ローマ帝国分裂(395)後も変わらず,穀物納付先が東ローマ(ビザンティン)帝国の首都コンスタンティノープルに代わっただけで,大土地所有はさらに進行,地方の大領主は独自の徴税機構をもち,自己の船と船員を用いてアレクサンドリアまで運んだ。重税にあえぐ農民は後年イスラム軍を解放者として歓迎することになる。

 五賢帝時代までのローマ皇帝はファラオと同じく伝統的な神々の神殿を建立,祭祀を主宰する姿を壁面に刻ませ,カルトゥーシュ(王名枠)にヒエログリフで名前を記した。ラテン語はギリシア語とともに公用語とされたが,ローマ文化は浸透せず,アレクサンドリアを中心にギリシア文化とエジプト文化の混交が進み,エジプト固有の文化は神殿と神官の手に集中していく。1世紀よりキリスト教が普及し,2世紀にはアレクサンドリアに司教が置かれ,問答教示法による教校も開設され,エジプトは新興キリスト教の一大中心地として大迫害をくぐりぬけ,教義をめぐる論争では中心的役割を演じた。4世紀には修道院運動もアントニウスにより始められた。4世紀末テオドシウス帝によるキリスト教国教化はエジプトから古来の神々を根絶し,エジプト人の国民的自覚はコプト教会に受け継がれていった。
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ビザンティン帝国をヤルムークの戦(636)に破り,シリアを征服したアラブ・イスラム軍は,次いでアムル・ブン・アルアースの指揮の下にエジプトへ侵攻し,641年にはビザンティン帝国のバビロン城を陥れて,翌年ここにフスタートFusṭāṭの町を建設した。この事件は,エジプト史ではファトフ(開くこと,征服)とよばれ,以後,エジプトのイスラム化,アラブ化が始まる。フスタートは,クーファやバスラとならぶ軍営都市(ミスル)の一つであったが,すでにコーランにモーセとヨセフの伝説の土地として描かれたエジプト全体もまたミスルMiṣrと呼ばれており,こののちエジプトとその首都を共にミスルと呼ぶことが一般化した。征服時エジプト住民の大多数を占めていた単性論派のコプト教徒は,ギリシア正教会のビザンティン帝国よりむしろムスリムの支配を歓迎し,ジンミー(被護民)として徴税をはじめとする帝国行政の諸分野に活躍した。アラブ化政策(705)によって公文書がコプト語からアラビア語に改められてからも,彼らは行政に重要な役割を演じて官僚の名家を次々に輩出したが,イスラムへの改宗もしだいに進み,14世紀ころまでにはコプト教徒の数は全人口の10分の1程度に減少していたという。

 アラブによって〈牝牛の乳〉とたたえられたエジプトの富は,ウマイヤ朝(661-750)やアッバース朝(750-1258)政府の重要な財源であったが,バグダードから自立してトゥールーン朝(868-905)を興したイブン・トゥールーンは,豊かな租税収入を用いて各地に土木工事を起こすとともに,ローダ島にナイロメーターを建設して〈エジプトのための統治〉の実績をあげた。トゥールーン朝の滅亡後,エジプトは一時アッバース朝の支配に服したものの,30年後には再びイフシード朝(935-969)の下に自立した。この王朝はエジプト・シリアに加えてメッカ・メディナをも領有し,以後オスマン帝国の征服にいたるまでエジプトの諸王朝による両聖都の支配が続くことになる。

 北アフリカに建国したファーティマ朝(909-1171)は,969年,エジプトを征服してフスタートの北に新都カイロを造営した。紅海経由の東西貿易を独占した政府は,その富を用いてトルコ人マムルークと黒人奴隷兵からなる強大な軍団を編成し,また多くの宣伝者(ダーリー)を各地に派遣して活発な宣教活動を続けたが,1065年に始まる〈7年の飢饉〉はエジプトを繁栄から衰退の極へと陥れた。この危機に登場したのが軍人出身の宰相バドル・アルジャマーリーBadr al-Jamālī(?-1094)で,彼はアルメニア軍団の武力を背景に諸改革を実行し,エジプトに秩序の回復と経済的な復興をもたらした。このシーア派王朝の下でコプト教徒とユダヤ教徒の待遇は改善され,特に前半期にはユダヤ教徒のイブン・キッリスIbn Killis(930-991)をはじめとしてジンミーで宰相(ワジール)の職を得た者は,ユダヤ教徒出身者が2名,コプト教徒出身者が5名に達した。カイロで発見されたゲニザ文書によれば,この時代の商業活動はムスリムとコプト教徒やユダヤ教徒との協業によって行われ,各街区(ハーラ)でもこれらの信徒は混住しているのが一般的であった。街区ごとに宗派別の住み分けが行われるようになるのは,キリスト教徒十字軍のエジプト侵攻とスンナ派復活の影響が現れる12世紀半ば以降のことである。

 ファーティマ朝の宰相となって実権を掌握したサラーフ・アッディーン(サラディン)はアイユーブ朝(1169-1250)を創始し,国家の宗旨をシーア派からスンナ派に変更するとともに,それまでセルジューク朝やザンギー朝で実施されていたイクター制をエジプトに導入し,これを軍隊編制と農村支配のための基本制度に定めた。ナイル川流域のエジプトは政府による統治が容易であったから,水利機構の管理・維持は比較的よく行われ,その結果,農業生産は安定し,商品作物であるサトウキビも下エジプトから上エジプトへとしだいに拡大していった。しかし対十字軍戦争の遂行には莫大な戦費が必要であり,政府はその財源を得るためにアデンを攻略して,東西貿易の利益の独占を図ったのである。第7代スルタン,サーリフ(在位1240-49)は強力なマムルーク軍団を編制して君主権の強化を図ったが,やがてこれらのマムルークはクーデタを起こしてマムルーク朝(1250-1517)を樹立した。アイン・ジャールートの戦(1260)でモンゴル軍のエジプト侵入を阻止した第5代スルタン,バイバルス(在位1260-77)は,シリアに残存する十字軍勢力と戦う一方,アッバース家のカリフをカイロに擁立(1261)して,イスラム世界におけるマムルーク朝の威信を高めた。アミールやマムルーク騎士にはアイユーブ朝時代と同様にイクターが与えられ,その支配の下で稲やサトウキビの栽培はさらに発展し,カーリミー商人や奴隷商人が,インド洋・地中海貿易で活躍する基礎が固められていった。カイロは東方のバグダードに代わってイスラム文化の中心地となり,オスマン帝国時代の一時期を除いて,現代にまで続くイスラム世界内部でのカイロの優位が確立した。これに伴ってイスラム史におけるエジプトの独自な地位を評価しようとする動きが強まり,ファラオの時代をも視野に入れたエジプト年代記が執筆されるようになった。また,キンディーKindī(897-961)に始まるエジプトの美点(ファダーイル)と地誌(ヒタト)の記述は,マクリージーにより〈エジプト誌〉として集大成された。エジプトに古くから伝わるグノーシス思想はズー・アンヌーンによってイスラム神秘主義の体系化に援用されたが,この時代になるとイスラム神秘主義はさらに土着的な展開を遂げ,タンターのアフマディー教団は聖者アフマド・アルバダウィーの生誕祭をコプト暦によって祝ったという。

 1517年,カイロに入城したオスマン帝国のセリム1世は,14世紀半ば以降,ペストの流行とマムルーク軍閥の抗争によって弱体化していたマムルーク朝の支配に終止符を打った。エジプトはオスマン帝国の一属州とされ,その統治はオスマン軍の行動を積極的に支援したマムルーク出身のアミール,ハーイル・ベイKhā'ir Bay(?-1522)にゆだねられた。征服後,マムルーク朝時代のイクターは一度国家に没収され,検地の後,改めてオスマン朝の財務官であるエミーンemīnに分与された。この土地をムカーターmuqāṭa‘といい,ムカーター内の土地で徴税の実務を担当したのは旧来通りのマムルークたちであった。これらのマムルークは,17世紀以降,オスマン帝国の支配がゆるむにつれて勢力を伸長し,やがて徴税請負人(ムルタジム)として独立の権限を振るうようになってゆく。オスマン帝国とマムルーク軍人の二重支配を受けて多くの農民が逃散の手段に訴えたから,農村の疲弊はさらに進行した。またイスラム文化の中心がイスタンブールへ移ったことにより,カイロをはじめとする諸都市では見るべき著作活動は行われなくなった。商工業者や農民は種々の神秘主義教団(タリーカ)に組織されていたが,これらの教団にも新しい宗教運動を起こすだけのエネルギーはもはや残されていなかったのである。
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18世紀のエジプトは,オスマン帝国の支配のもとに実質的にはマムルークの将領たちが実権を握って党争を続けており,他方国際商業と結びついた農工業の商品生産が展開しつつあったが,1798-1801年のナポレオン軍の侵略・占領は,オスマン帝国とマムルーク軍を粉砕してこの構造の変容の道を開いた。フランス軍撤退後の混乱期には,カイロのウラマーや商人の一部が大衆を武装させて一種のコミューンを形づくり,1805年には,これに接近してきたオスマン帝国軍のアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリーを総督(ワーリー)に擁立して,帝国政府にこれを認めさせた(ムハンマド・アリー朝の成立)。

 ムハンマド・アリー(在位1805-48)は,権力を握ると,カイロの市民勢力を分裂させてこれを武装解除し,他方残存するマムルーク勢力を虐殺して,国の再編成に乗り出した。一方では農民の徴兵による洋式の新軍をつくり,オスマン帝国のもとめに応じて1811-18年アラビア半島のワッハーブ派王国を征服,25年ギリシアに出兵して独立軍を撃破した。他方,全土の国有を宣言して灌漑工事によって農地を開発,商品作物の作付強制と専売制,貿易独占を行い,機械制の軽工業を興し,軍人官吏養成の洋式学校を創設してフランス,イタリアに留学生を送った。これらの施策でエジプトにおける支配権を固めたムハンマド・アリーは自己の帝国を築く野心をもち,1820年にはスーダンを征服,やがてオスマン帝国と対立,31-33年,39-40年の2次にわたってシリアに遠征,イスタンブールに迫った。強力な中東国家の成立を恐れたイギリスは,列強を誘って軍事干渉でこれをはばみ,40年のロンドン4国条約でムハンマド・アリー一族の地位世襲を認める代りに,その支配権をエジプトに限ることとした(以後ムハンマド・アリー朝は,その称号をクーリー,ヘディーウ,スルタン,マリクと変えながらも1953年まで存続する)。

 この条約によって,治外法権,関税自主権の欠如を含む1838年のイギリス・オスマン通商条約がエジプトにも適用されて,エジプトは産業革命を経た英仏を中心とする世界市場に従属的に組み込まれてゆくこととなり,貿易独占体制ひいては自立的な工業機械化の道はついえた。その後エジプトは,60年代に,アメリカの南北戦争を契機として綿作と綿花貿易を飛躍的に拡大させ,良質の綿花の単作供給市場として特化してゆくこととなる。こうした経済的社会的変化に対応して,土地法・商法その他の法制の洋式化も進行したが,思想の面ではタフターウィーアリー・ムバーラクのように自立的な近代化を志向する人びとも現れた。

 第3代のサイード・パシャ(在位1854-63)が認可してイスマーイール・パシャ(在位1863-79)のもとにフランス人レセップスが69年に開いたスエズ運河は,エジプトの戦略的地位の重要性を飛躍的に高め,かえって災いを招くことになった。イスマーイール・パシャの外債依存の欧化政策は,76年国家を破産させ,イギリス,フランス,ドイツ,オーストリアの財政管理が始まったが,これに対してアラービー運動とよばれる民族革命が起こった。発端は81年の青年将校の反乱であったが,アフマド・アラービー大佐を指導者とするワタン(祖国)党勢力は,立憲制の確立,議会の開設による外国支配の排除,総督の権限の制限を求め,ヨーロッパ支配に反発する名望家層やギリシア人高利貸に苦しむ農民大衆も立ち上がって,82年アフマド・アラービーを陸軍大臣とするワタン党政府が成立した。英仏をはじめとする列強は,この運動の民族革命的性格を危険視し介入を繰り返したが,インドに至るスエズ・ルートの確保を欲するイギリスは単独でこれに軍事干渉を行い,ついにはエジプト全土を占領,民族革命を挫折させた。以後エジプトはイギリスの軍事支配下に入ることになる。

 1914年にいたるイギリス占領下に,エジプトは経済的には繁栄した。1898年のアスワン・ダム建設に代表される大規模な灌漑事業,旧ヘディーウ領地の払下げなどによって広大な農地が開発され,綿花やサトウキビを栽培する豪農大地主が成長した。ムハンマド・アブドゥフらのイスラムの内部改革運動はこうした社会変化を背景としたものである。他方,社会資本が充実した都市には,洋式教育を受けた知的中間層が成長して,ムスタファー・カーミルを代表とする民族主義運動が展開した。1906年のイギリス軍人とエジプト農民の間のトラブルに発したデンシワーイ事件には,大きな民族的高揚が興ったが,占領当局はこれを抑え,14年第1次世界大戦が始まると,イギリスはエジプトの保護国化を宣言した。

 大戦中エジプト全土の労働力と資源の大規模な強制徴発が行われて中東の戦線に投入されたが,それはかえって19年の革命を爆発させる条件をつくりだした。サード・ザグルールを指導者として完全独立をめざすこの革命には,ムスリムもコプトも,都市も農村も,男も女もこぞって立ち上がり,デモ,スト,ボイコットなど多様な闘争を行った。22年イギリスは,ムハンマド・アリー朝のヘディーウ,フアード1世(在位1917-36)を王(マリク)と認めて形式的独立を与えたが,軍隊の駐留は続けスエズ運河とスーダンの諸特権を維持した。以後イギリス勢力と宮廷とサード・ザグルールを指導者とするワフド党の三つどもえの権力構造が,エジプト政治を支配することになる。経済面ではミスル銀行を中心とするコンツェルンのような民族資本も成長し,都市化現象が進み,ターハー・フサインらの自由主義的知識人が活躍し,労働,農民,社会主義,女性解放の諸運動が展開する。また,パレスティナ問題を媒介としてアラブの意識が初めてエジプト人の心をとらえはじめた時期でもあった。

 都市化の進展は大衆の伝統的な生活秩序を崩壊させていったが,それは1930年代の世界恐慌による生活苦とあいまって,人びとに伝統的価値の崩壊の危機感をかもし,イスラムやアラブの覚醒をシンボルとする民族革命運動を激化させた。1929年から第2次世界大戦中にかけて100万以上もの人びとを組織したムスリム同胞団や,39年にナーセルら青年将校の結成した自由将校団は,大戦後に大きな役割を演じることとなる。大衆運動の高揚を背景に,1936年ワフド党のナッハース・パシャ内閣はイギリスとの同盟条約によってエジプトの地位を改善したが,スエズ運河地帯の駐兵は続き,スーダンの地位も変わらなかった。第2次世界大戦が始まるとイギリスは武力の威嚇でエジプトを連合国側に参戦させ,それは結果的に第1次世界大戦のとき以上の重い負担をエジプト人に強いた。大戦後大衆的な民族革命運動はいよいよ激化したが,48-49年のパレスティナ戦争におけるエジプトの敗北は,決定的にその後の革命への道を開いたといえる。そして,52年7月,自由将校団はクーデタを起こし,同26日ファールーク国王を追放し,53年6月共和国の成立を宣言した(エジプト革命)。これによってオスマン帝国以来の異民族支配を断ち切り,アラービー運動の掲げた〈エジプト人のエジプト〉というスローガンがようやく達成されることになった。
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基本情報
正式名称=エジプト・アラブ共和国Jumhūrīya Misr al-`Arabīya/Arab Republic of Egypt 
面積=100万2000km2 
人口(2010)=7873万人 
首都=カイロCairo(日本との時差=-7時間) 
主要言語=アラビア語 
通貨=エジプト・ポンドEgyptian Pound

アフリカ大陸の北東端を占める共和国。北は地中海,西はリビア,南はスーダン,東は紅海に面し,1982年には,イスラエルとの平和条約に基づき1967年の第3次中東戦争以来占領されていたシナイ半島が返還された。

 国土は,ナイル河谷とナイル・デルタ,ガルビーヤGharbīya砂漠(総面積の67%),シャルキーヤSharqīya砂漠(同21%),シナイ半島(同6%)の四つに区分される。総面積は日本の2.7倍であるが,その97%は砂漠で占められる。居住面積は,全土の5.5%(約5万5000km2)にすぎず,それも,地中海沿岸,ナイル・デルタとナイル河谷に集中し,居住面積当りの人口密度は760人/km2(1980)を超える。とくに首都カイロには,680万人(1992)と全人口の10%以上が集まる。

 気候は,地中海性気候の北部沿岸部を除き,大部分は砂漠気候に属する。雨は冬季に,ナイル・デルタ,中エジプト,シナイ半島や紅海沿岸の高地に少量降るが,ナイル川に沿って内陸に向かうほど,平均雨量は減少する。気温は,夏は内陸に向かうほど高く,ナイル川上流の上エジプトでは40℃を超すこともある。冬は逆に海岸部の方が内陸部より温暖である。

 住民の大多数は,アラブ系エジプト人で,ハム語系の民族であった古代エジプト人と,アラブをはじめスーダン,ヌビアなどとの混血によって歴史的に形成された。アラビア語を公用語とするが,日常会話では,標準語のj音をg音で発音するなど,標準アラビア語とはかなり異なる発音がみられるエジプト方言が広く用いられる。住民の約90%はスンナ派イスラム教徒で,このほかコプト教徒が1割程度を占めるといわれる。

 エジプトの風土は,先に述べた自然条件に大きくかかわり,何千年にも及ぶ自然と人間の歴史を反映している。エジプトとは,ひとことでいえばビクトリア湖とエチオピア高原の降雨を二大水源とする,白・青両ナイルの合流が砂漠のただ中に流れ込み,生命を与えられている国である。ゆえにエジプトは常にナイル河谷に目を注ぎ,そのグリーン・ゾーンは地中海を天にして屹立する〈一本(ひともと)の草木だ〉とか〈ナツメヤシの樹〉にたとえられる一方,砂漠は不毛の地として視野からはずされた。エジプトは〈広さ〉ではなく〈長さ〉だといわれるが,この言葉もまたこの国の本質をつかんでいる。ナイル川は国土を南北に貫き,道路も鉄道も幹線はナイル川に沿って走り,物資も労働人口としての人間も南北に移動し,東西の動きは微々たるものである。ナイル川が地中海を目指して北に流れるのに対し,ほとんど年間を通じて北から南へ吹きこむ風があり,この北風が,古来特に動力機のない時代に,ナイル川による南北の往復を可能にし,文明を担う影の力ともなってきた点は見のがせない。

 ナイル川は砂漠に囲まれた国土に農耕を可能にしたが,それはいっさいを天水によらず年1回全エジプトを蘇生させる氾濫という自然のドラマに依拠するものであった。往時ナイル川は氾濫時に奔馬のごとくエジプトを縦に駈け抜け,その後に来る渇水時には,人びとはナイル川の水の一滴ずつを赤児をあやすようにいつくしんだという。ここでエジプトの灌漑農業に注目してみる。太古においてエジプトは病原菌の蔓延する手のつけられない大湿原だったが,ナイル河谷の住人は,果敢に働きかけ豊饒の地とした。まさに〈ナイルにその本来の役割を果たさせたのは,ほかならぬナイル河谷の住人だった〉(現代エジプトの地理学者ガマール・ヒムダーンの言葉)。だが1条の水脈に一国の生命が全的にゆだねられているという事実は,さまざまな事態を潜在させていた。まず,上(かみ)と下(しも)の農耕民同士の間で,特に渇水期に水争いが生じ,血が流されるため裁定者の存在が不可欠であった。また自然の猛威をほしいままにするナイル川を御して生産に結びつけるためには,治水という一大事業が必要であった。堤の築造,用水堀の開削,貯水工事から成る治水事業には大規模な労働人口を動員しうる権力者を不可欠とした。つまりエジプトの生態系は,ナイル川,農民,支配者(裁定者)の3者によって構成されるべき必然性をもっていたといえる。

 そこでナイル川と農民との関係をまず見ると,そこには文字通り生命の存続を約束してくれる水と肥沃な沖積土(タミー)とをもたらしてくれる風土への限りない謝恩の念が培われていた。

 〈エジプト人は砂漠の中にあって,常に反砂漠的であった〉(ガマール・ヒムダーン)と言われるように,彼らは砂漠には背を向けたが,背で感得している砂漠の不毛に対する意識は,ナイル川の恩寵への謝恩の念を日々鮮烈にしたであろう。この抑え難いまでの謝恩の念は,毎年訪れる洪水という自然のドラマを目撃することによって,人間の力を超えたものの存在へと,いよいよ強く結びついていった。このようにして汎宗教的な精神風土が生まれ,キリスト教やイスラムのように後に外から来た宗教を受け入れる地盤が用意されるにいたった。この汎宗教的な精神風土の存在は,エジプト人の精神傾向の一つと目される,不可視なものへの信仰ghaybūbīyaとか宿命論的傾向,さらには,不可視なものを見る力を付与されている聖者への崇拝に基づく土着宗教への志向を考えるうえで見落とすことができない。

 他方農民と支配者との関係はどうであったか。風土が求めた公正な水の配分と治水とをつかさどる者は,現実には歴史が証言するように,抑圧者となって出現し,農民を収奪してやまなかった。エジプトの地勢も支配者が抑圧を強化させるのを助けた。まず周囲が砂漠であり,農民は死と同義の砂漠に逃れるよりは,生の可能性の残されたナイル川の岸辺にしがみついたため,抑圧者の射程内に置かれた。また国土が平たんであることも支配を徹底させるに好都合であった。また一国の生命線が1条の河筋によっているため,水脈を握ることによって支配を徹底しえた。〈おれ(支配者)に土地と労役をよこせ。おれは水をやるから〉ということわざはこのことを表現している。

 農民にとって支配者は忌まわしい必要悪でしかなかった。かくしてナイル河谷につなぎとめられ,そこにとどまるほかに道のない農民は,支配者に対し,〈どうにか耐えられる範囲での休戦〉という処世訓により,事を構えずひたすら耐えたが,それは〈屈従による延命〉といわれるものでもあった。屈辱に甘んじ,卑屈になり,今日が昨日と同じであればそれでよしとする生き方は,無気力な保守性を培っていった。このような身の処し方は,長い間に病んだ精神傾向を育て,ついにはエジプト社会をもむしばむものとなり,不幸にもエジプト民衆相互の関係を損なうまでになった。このようにして生まれた性向は,エジプト人自らがエジプト的性格として,論議や著作の対象として取り上げるものとなっており,古くは,15世紀の歴史家マクリージーが,小心,臆病,讒言癖,権力への走狗などとその性向を指摘している。これらの病んだ性向は,エジプト社会に深く巣くっており,さまざまな社会現象の影にひそむものとなっているのである。
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1952年の共和政革命(エジプト革命)によって,エジプトは植民地を脱し,独立を達成することができた反面,エジプト国民はその後長期にわたって,軍部主導的な体制を押し付けられることになった。エジプト社会には人口の50~60%を占める下層大衆と,中産階級以上の人びととの間に容易に越えがたい厚い壁があり,社会の〈底辺〉からの経済的近代化と政治参加の実現を阻んでいる。革命政権もまたその厚い壁を突き破ることはできず,〈中産階級革命〉の域内にとどまっている。このような意味で,エジプト政治の展開過程は発展途上国の典型的事例を成している。

 ナーセル時代(1954-70),サーダート時代(1970-81)を通して革命政権が採り続けた国内政治の体制は,〈単一政党制〉である。自由将校団のメンバーを中核とし,少数の影響力のある軍将校とテクノクラートがそれに加わって指導部が形成され,ここに排他的に政策決定権が集中する。1962-64年のアラブ社会主義連合(ASU)最高執行委員会の構成は,委員18名中自由将校団出身9名,その他の軍将校出身3名,民間人6名(うち博士号所有者5名)であった。そしてASUの下部組織は,指導部の決定を中央から地方大衆レベルにまで浸透させる役割を担った。ただしその動員力は当時のソ連,中国のような社会主義国と比べれば,はるかに及ばなかった。

 このような動員体制下では当然大統領の権限は強大なものとなり,複数政党間の選挙を介した政権獲得競争は認められない。国民議会はASUの党員だけで構成され,ムスリム同胞団などのイスラム主義的運動,旧ワフド党,共産党などの政治参加は阻まれた。さらに警察を使った恐怖政治によって,反政府勢力は地下活動を余儀なくされたのである。こうした閉塞状況に対する旧政体分子,労働者,学生らの不満は,67年の第3次中東戦争大敗北の後,民主化要求として一挙に噴き出し,これに対しナーセルは68年,〈3月30日宣言〉によって一部自由化の方針を打ち出した。にもかかわらず政策決定が密室的に,指導部内の利害関係,権力闘争によってなされる過程に変りはなく,このことは73年戦争前後からサーダート政権が推し進めた政治・経済両面の〈自由化〉政策についても当てはまることである。

 76年以降ASUの役割は大幅に縮小され,代わって限定的〈複数政党制〉が制度化された。これは民主化のレベル・アップにより民衆の経済的不満を牽制し,反政府勢力を体制内に取り込もうとする措置である。78年には国民議会で圧倒的多数を占める国民民主党(NDP)を成立させて,ASUに代わるサーダート政権の支持母体を築いた。ただしサーダート時代に入り恐怖政治的要素が少なくなった点には注目すべきである。

 このように政治体制に連続性が見られる一方,焦眉の急である経済発展のモデルは,ナーセル期のソ連型社会主義からサーダート期の欧米型自由主義の方向へと大きく転換した。

 次に対外関係の構造についてみると,革命前の長い異民族による支配の経験は,エジプト人に〈大国依存〉の行動様式を植え付けたといえよう。1954年イギリス軍撤退協定が成立すると,この特性は55年以降,軍事経済援助を介した東側陣営,特にソ連への接近となって表れた。54-69年に東側諸国が約束した長期経済援助総額は17億3400万米ドル相当に上り,そのうち40%がアスワン・ハイ・ダム建設などの開発プロジェクトに関して履行された。ソ連の軍事援助は経済援助を5倍も上回る規模で行われ,特に1967年戦争敗北以降の軍再建に向けられた。

 他方1955年バンドン会議出席後,ナーセルは,非同盟・積極的中立を唱えて新興独立諸国をリードし,また56年スエズ運河国有化,スエズ戦争(第2次中東戦争)を経て,58年シリアとの国家統合を行って〈アラブ連合共和国〉を樹立し,パン・アラブ主義外交を積極的に展開した(アラブ民族主義)。さらに61年シリアとの合邦が崩壊すると,イエメン内戦に軍事介入した。アラブ諸国間の政策調整は,64年第1回アラブ首脳会議開催以後,ナーセルの指導下で試行錯誤が続けられた。しかしこうした第三世界,アラブ地域レベルでの主導権追求は反欧米的立場に立つという点で,ソ連の中東戦略の許容範囲にあったと考えられる。

 70年代に入ると,サーダート政権の下で従来の対ソ依存からアメリカを中心とする西側陣営へ乗り換える対外政策の大きな転換が起こった。これは指導部内におけるアリー・サブリーら親ソ派の失脚とサイイド・マレイら親米派の台頭によってもたらされたものである。その兆しは72年ソ連軍事顧問団追放に表れ,73年第4次中東戦争後の対米国交回復,アメリカ主導型シナイ撤兵交渉参加によって定着した。それと並行して第三世界,アラブ地域レベルへの関与はしだいに弱まってゆき,75年第2次シナイ撤兵協定成立に対するシリア,ヨルダン,イラク,PLOの反対に,早くもアラブ諸国間の亀裂が見え始めた。77年サーダートのイスラエル訪問,78年キャンプ・デービッド合意成立,79年二国間平和条約成立と進んだ対イスラエル単独和平の実現は,西側諸国にとって,アラブの大国が中東の安定勢力になることを意味した。しかしアラブ陣営は一斉に国交断絶の挙に出て,エジプトを孤立化させた。

 サーダートは,81年10月にイスラム過激派に暗殺されるが,同政権末期の国内反政府運動の高まりは,下層中産階級を中心とする経済的不満と指導部の腐敗に対する怒りが,恐怖政治緩和によって増幅された結果もたらされたものである。ムバーラクMubārak政権は1982年4月シナイ完全返還後,イスラエルとの和平を維持しつつサーダート外交の修正を進めた。アラブ・レベルでは中東和平やイラン・イラク戦争調停を通してリビア,シリアを除くアラブ穏健派連合を念頭に置いた外交イニシアチブを発揮し,89年5月カサブランカでのアラブ首脳会議でアラブ連盟への正式復帰を果たした。

 域外大国との関係を見ると,1981年サーダートはソ連大使を国外追放したが,84年にムバーラク政権は対ソ外交関係を正常化した。アメリカとの同盟関係は引き続き緊密に維持され,米主導の中東和平の仲介などを行ってアメリカの中東政策遂行に助力した。その見返りとしてエジプト政府は軍事援助に加え,米政府開発援助(1987-90年)において最多のイスラエル(12.3%)に次ぐ援助(10.1%)を受け取った。これはエジプトが同時期受け取ったODAの68%にのぼった。

 内政においてムバーラク政権は1984年と87年の国民議会選挙を比較的自由に実施した結果,ムスリム同胞団,新ワフド党などの野党勢力の伸長が見られた(1987年総選挙では458全議席中95議席)。しかし1989年の諮問議会,翌90年の国民議会の両選挙では主要野党が選挙の実施方法をめぐり政府と対立,選挙をボイコットする事態に発展し,選挙結果は1984年以前のNDP独占へ逆戻りした。
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1952年革命以降のエジプト経済は政策基調からみて三つの期間に分けてとらえることができる。第1期は1952-60年にかけての〈経済のエジプト化〉が推進された期間である。その前半は主として経済の外国支配および外国資本からの離脱をめざし,後半はナーセル政権下で56年のスエズ運河国有化,57年の英仏系の銀行・企業約50社の国有化などのエジプト化が行われた。第2期は1961-70年の〈経済の社会主義化〉の時期で,特に前半ですべての銀行・保険会社の国有化,主要企業(資本金1万エジプト・ポンド以上)の国有化と労働者の経営参加,企業利潤の25%労働者還元,個人所得制限(5000エジプト・ポンド以下に)など厳しい社会主義化政策が実施された。しかし後半は67年の第3次中東戦争の敗北を主要因とする経済危機を招き,厳しい縮小均衡政策が採られた。そして第3期は1970-81年にかけてナーセルからサーダートへの政権引継ぎを契機に展開された〈経済の自由化〉の時期であり,前半では,親ソ政策から親米路線への劇的な政策転換が行われ,74年以降,為替および貿易の自由化,積極的な外資導入政策を含む一連の門戸開放政策(インフィターフ)が実施され,かつての厳しい統制経済を大幅に緩和した。

 こうしたドラスティックな政策転換は,たび重なる戦争で疲弊した経済を,西側先進国の技術と資本,アラブ資本とエジプトの労働力を結合させ,有機的で効率の高い経済活動を促進させることを目的としたものであった。

 ナーセル政権下でのエジプト経済は,1955-60年のGDP(国内総生産)成長率が5.3%で,61-65年に6.1%と高率を示すが,第3次中東戦争を含む65-70年にかけては2.9%と著しく低迷した。しかし,サーダート政権下の10年間(1971-80)をみると,前半の5ヵ年間が5.5%と低いものの,後半は約8.5%と高度成長を示している。

 この高度成長を支えたのは,(1)石油輸出収入,(2)海外労働者送金,(3)長期海外資本流入,(4)スエズ運河収入などの外貨収入であり,ナーセル時代における外貨獲得源(綿花収入,観光収入,運河収入)と比べて,量的・質的な変化をみせている。だが,石油収入および労働者送金はいずれも石油高価格政策の下で生じた外部経済(外成的要因)の影響をうけたものであり,エジプトが将来も持続的経済成長を図るには,工業および農業の国内生産の拡大に依存する経済への転換が必要であることを示している。

 エジプトの農業部門は,全世帯数の約50%,労働人口の約40%を占め,経済活動の中心をなしている。だがGDPに占める同部門の成長率とシェアは停滞しており,1955-65年で年率3.5%,66-78年が約2%前後と成長率は低く,シェアも1955/56年の34%から78年には25%と低下している。こうした農業不振の要因としては,第1に人口増加と生活水準向上に追いつかない生産の停滞,農業自給率の低下,輸出農作物の減少などがあげられる。第2には政府の農産物の低価格買入政策と農業部門の過少投資,農地の減少などが指摘されている。かつてエジプトは綿花モノカルチャー経済であり,農産物の輸出国であったが,1974年以降食糧の純輸入国となっており,また食糧輸入の増大と生活必需7品目(小麦,砂糖など)への補助金増加が赤字財政の主因となっている。

 一方エジプトの工業部門は,1930年代より綿工業を中心に発展をみせていたが,ナーセル政権下で伝統的な繊維・食品加工などの軽工業が軽視され,57年以降,化学・電機・金属などの重工業分野に投資が集中した。しかし,イスラエルとの戦時体制が続き,外貨不足による原料の入手,部品・設備の更新が容易でなく,しかも,60年以後社会主義化の導入に伴う国営企業部門の過剰雇用と中央集権的非効率経営に災いされて,十分な発展を遂げていない。70年以降工業部門の多様化と民間部門の活性化が図られ,化学肥料・機械製品・金属工業の分野でかなりの伸びを示し,GDPに占める工業部門のシェアも1956年の18%に比べ78年には24%へと拡大し,民間部門の寄与率も1970年の25%から80年には31%へと若干増加をみせた。

 ムバーラク政権は基本的には前政権の開放経済政策を引き継ぎ,前政権下で顕在化した経済構造の歪みの是正を目指した。特に国内経済の不均衡と国際収支の慢性的赤字の改善を当面の重要課題としたが,85年以降の石油不況による原油価格の下落によって,経済改革の推進は大きな困難に直面している。さらに,石油収入,出稼労働者送金,スエズ運河収入,観光収入の四大外貨収入は1983/84年度の78億ドルから1986/87年度には48億ドルへと急減し,この外貨収入の減少は経常赤字を拡大させ,対外債務(1986年6月末の対外債務残高338億ドルと推定)の著しい累積となった。こうした状況下で政府は87年5月IMFから3億3000万ドルのスタンドバイ・クレジットの合意を取り付け,複数為替レートの統一,補助金制度の廃止,財政赤字の縮小等の経済改革プログラムを実施する予定であったが,結局そのコンディショナリティを十分達成することができず,1億6000万ドル分が未実行となった。1987年以降補助金の削減,為替切下げ,さらに政府投資が抑制されたが,その結果経済成長を鈍化(1981-91年で年平均2.8%)させ,物価の上昇をもたらした。

 エジプトが経済改革に挫折しかかったとき,湾岸戦争が勃発した。この戦争において西側陣営への協調姿勢を示したエジプトは戦争への貢献の報酬として先進国や湾岸産油国から多額の贈与および債務削減が認められた。91年5月にはIMFがスタンドバイ・クレジット(37億ドル)を承認,パリ・クラブ(ヨーロッパ債権諸国会議)との間で公的債務の50%削減が合意された(元本60億ドルと延滞金25億ドル)。さらに93年9月にIMFとのEFF(拡大信用供与措置=4億SDR)が締結され,第2次債務削減が実施された。

 このようにエジプト経済は当面の外貨制約から解放されたものの,これとして対外的要因に振りまわされたもので,いつ抜本的な経済改革に取り組むことができるのか注目されている。
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社会

エジプトの歴史は抑圧と搾取の歴史であったといっても過言でない。近代を迎えるや西欧列強に蚕食され,大英帝国はエジプトを〈綿の田荘〉とした。国内にあっては不在地主が横行し,飽食した都市と貧血症にあえぐ農村とに二分された。灌漑による農業は支配者の周囲に膨大な官僚機構を生み出し,農民の負担はいっそう過酷なものとなった。その結果,当然ながらエジプト社会にはお上(かみ)(政府)への不信と怨念が潜伏し,人々の間には身内同士で互助しあおうという社会的傾向ができ上がってしまっている。民衆の〈お上嫌い〉は公共物を見ると破損せずにはおかぬような敵愾心などの形をさえとる。政府への不信感は代々民衆の血の中に受け継がれ,徴税と徴兵は常に強い反発と擾乱を呼び起こした。なかでも徴兵は血税の謂(いい)であり,農民各自の最後の堡塁である家を盛り立てるという悲願を挫折させるものであったから,徴兵逃れに誰もが腐心し,コネ,賄賂などの社会の病理があまねく露呈し,結局弱者が最後に〈つけ〉を払わされた。

 社会が病んでいる場合,必死に保身をはかろうとする民衆の行為も不健康なものとなることを免れない。例えばエジプトにはファフラーウィヤという言葉があるが,これは状況を擬態によってやり過ごす,場当り的対処の仕方で,ちょうどカメレオンが保護色によって身を守るのと同じやり方である。〈世の中がいい加減なのだから,その場をなんとかごまかせればよい〉というわけである。

 民衆は各自の家の中では厳しい倫理観を貫こうとするが,対社会的にはまるで人格などもたぬ者のように振る舞うことが多々ある。またエジプト社会では言葉が浮薄きわまりないものとなる傾向がみられる。例えば会議が終わると同時にそこで討議されたことのすべてが雲散霧消するというぐあいである。

 エジプトの社会現象としてよくヌクタnuktaが挙げられる。これは社会正義が保証されておらず,抑圧が過酷をきわめる社会において,民衆がうっぷんのはけ口として,特に政治権力を風刺する地口のごときものであるが,ヌクタが作者不明であって,決して自らの身を危険にさらさない巧妙さはきわめてエジプト的であるといえよう。

 エジプト人の行動パターンには特異なものが少なくないが,風土と関連があると思われる一例を挙げてみる。それは〈待つ〉という基本的姿勢である。エジプトは地理的には北にヨーロッパ,南にアフリカ,東にアジアを配し,自らは中央に置かれ常に往還に位置したため,いやおうなく仲介者の役を果たしつつ生き延びなければならなかった。そのため自らは待機し,他者の動向を見守り,なんらかの自分に有利な兆しを見てはじめて介入するという姿勢を地理的に学んだという指摘がある。またナイル川の洪水の訪れ方,すなわち〈遅れるかもしれぬが,履行されぬということはない〉ということから,確信をもって事態の好転を待つことをエジプト人は体得しており,そこには時間を確定することはさして重要でなく,要は事が成就することだという考え方が特徴的に見られる。これは蓋然性に対する弾力のある対応にも通じ,彼らはことを事前にきっちりと練り上げてしまうことを好まず,〈見てみよう〉とか〈状況にあわせて〉とよく言い,柔軟な対応の妙を見せるのである。

 現在エジプトは農村社会においてさえ大きな変貌を遂げつつあるが,その一端を文盲撲滅運動が担っている。ナーセル革命による教育の機会均等はようやくその実をあげ始め,外界の価値観が閉鎖された社会に持ち込まれ,農村は教育の普及をてことして着実に変わりつつある。この場合にも,農民は抽象的観念では動かないが,教育を受けることが給料生活者への道を開き,よって相続において土地を細分しないですむという農民の論理によって浸透していく。外界からの情報は大きな影響力をもってきている。しかし農民は新聞を役人のイメージと結びつけて嫌い,読めるようになろうと努力しないが,ラジオは農作業をしながら喜々として耳を傾け,この二つのメディアの間には我々に想像できないような差異があるという。農村の変革には農民の感性と彼らの論理による納得のしかたで,さらにそれに応じた時間の絶対量が必要とされるだろうが,それらの農民の対応のしかたも,風土にその遠因をもつものが少なくないのである。

 エジプトの文化については,この項の〈歴史〉でも言及したが,そのほか,〈エジプト美術〉〈エジプト音楽〉〈アラブ文学〉などの項目も参照されたい。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エジプト」の意味・わかりやすい解説

エジプト
えじぷと
Arab Republic of Egypt 英語
Jumhūrīa Misr al Arabīa アラビア語

アフリカ大陸北東端にある国。正称はエジプト・アラブ共和国Jumhūrīa Misr al Arabīa、旧称アラブ連合共和国。国土の一部シナイ半島はアジア大陸に属して、アジアとアフリカ、紅海と地中海とを結ぶ重要な地理的位置にある。このため古くから多くの民族がここを通過し、その時代の大国の支配を受けてきた。面積100万2000平方キロメートル、人口7200万9000(2006推計)、8299万9000(2009推計)。人口密度は1平方キロメートル当り72人であるが、全土の95%が砂漠であり、住民の99%は、国土の2.8%のナイル河谷とナイル・デルタ地域に居住しており、そこでの人口密度は1平方キロメートル当り2900人以上ときわめて高い。ヘロドトスの「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」ということばは現在も生きている。国土は北緯22度(台湾南端と同緯度)から32度(九州南端)の間にあり、西はリビア、南はスーダン、東のシナイ半島ではイスラエルと国境を接している。首都はカイロ(人口813万。2008推計)。砂漠の中を緑の帯となって流れるナイル川は、肥えた土を運び、古くから農耕文明を花開かせ、エジプトを支えてきた。19世紀以後は用水路やダムの構築により、綿花モノカルチュア(単一作物生産)の国となったが、1970年代後半からは石油・天然ガスの輸出額が増加し工業化も進んでいる。2008年時点での主要財政収入は、石油輸出、スエズ運河通航料収入、観光収入、海外労働移民者の送金などで、1人当り国民総所得(GNI)は1800ドルである。

 1952年7月、自由将校団によるエジプト革命を成功させた大統領ナセルは、スエズ運河の国有化、土地改革、アスワン・ハイ・ダムの建設などを行い、社会主義化路線、親ソ政策をとって第三世界の有力な指導者となった。第一次から第四次にわたる中東戦争では、エジプトはアラブ側の先頭にたって戦ったが、莫大(ばくだい)な戦費、シナイ半島の喪失、スエズ運河の閉鎖などにより国家財政は破産に瀕(ひん)した。このため1970年のナセル病死後、後を継いだ大統領サダトは、第四次中東戦争で勝利したのち、イスラエルとの和平交渉を進め、親米路線をとり、経済の自由化を促進したが、アラブ諸国の批判を受け、国内の貧富の格差も拡大した。1981年10月6日大統領サダトがイスラム(イスラーム)主義運動勢力により暗殺され、副大統領ムバラクが後継者となり、アラブ関係、対ソ関係を修復し、バランスのとれた発展によって、ふたたびアラブ諸国の中核への復帰を進めてきた。

[藤井宏志]

自然

地形

地形は、大部分を占める標高数百メートルの台地と、溝状のナイル河谷および河口の巨大なデルタ、シナイ半島南部や紅海沿いの山地、南西部のカビール山地の1000メートルを超す山地からなっている。ナイル・デルタを除けば海岸の平野はごく狭い。地形の特徴から次の4地域に分けられる。

(1)ナイル河谷とデルタ 世界最長の河川であるナイル川は、長さ6690キロメートルのうち1350キロメートルがエジプト国内にある。スーダン国境から第一急流(カタラクト)までは幅5キロメートル内外の狭い谷が続き、現在はそこにアスワン・ハイ・ダムによってできたナセル湖が水をたたえている。12キロメートルに及ぶ第一急流を過ぎ、キーナの大曲流から下流は谷の幅が広くなり、15~17キロメートルで25キロメートルに達する所もある。河谷の両側の台地との段丘崖(がい)は、上流では300メートルで、下流に行くほど低くなり、150メートル程度になる。キーナの大曲流から下流の広い河谷では、河流は谷の東方に偏り、西側には豊かな谷底平野が広がっている。かつては夏季の氾濫(はんらん)を利用した農耕が行われていたが、現在は大部分がナイル川の堰(せき)やダムなどにより取水した水路網によって灌漑(かんがい)されている。厚い沖積土は、主としてアトバラ川や青ナイル川によりエチオピア高原から運ばれ堆積(たいせき)した玄武岩質のもので黒色である。アスワンでの河床の標高は83メートル、約900キロメートル下流のカイロで12メートルと、きわめて緩やかな河川勾配(こうばい)である。

 ナイル・デルタは典型的な扇状の三角州で、南北170キロメートル、東西幅200キロメートル、面積2万2000平方キロメートルで、日本の四国以上の広さをもつ。ナイル川はカイロの北で、東のダミエッタ支流と西のラシード(ロゼッタ)支流とに分岐している。19世紀以後の水路網、排水路網の建設により大農耕地となった。デルタの縁辺部すなわち地中海沿岸には、海側を砂州で囲まれたマンザラ湖、ブルルス湖、エドコ湖、マルユート湖などの潟湖(せきこ)があり、湿地もみられる。またデルタ北部沿岸には海岸砂丘がある。

(2)西(カルビーヤ)砂漠地域 ナイル河谷西縁より西側の地域で、北を地中海、西をリビア国境、南をスーダン国境に囲まれており、国土面積の3分の2を占める。広義のサハラ砂漠の一部で、平均標高500メートルの台地からなり、北部は緩やかな傾斜で地中海へ達する。例外は、標高1000メートル以上もある南西部の火山性のカビール山地と、陥没により海面下133メートルの低所もある北部のカッターラ低地などの窪地(くぼち)群である。窪地では、低緯度降雨地域からの地下水脈により水が得られ、オアシスが成立している。中央部には砂の海とよばれる砂丘が広範囲に広がっている。

(3)東(シャルキーヤ)砂漠地域 ナイル河谷東縁から紅海沿岸までの南北に細長い地域で、紅海に沿って標高1500メートル以上の険しい山脈が走っている。山陵の傾斜は紅海側が急、西側が緩やかで、ワジ(涸(か)れ川)が発達している。

(4)シナイ半島地域 地中海沿岸を底辺とし、南の紅海へ頂点が突出した逆三角形の地域である。南部は東砂漠地域の連続で険しい山地となっており、エジプト最高峰のカテリーナ山(2637メートル)がある。中部から北部にかけては、ナイル川西方の台地の連続で標高平均800メートルの台地になっており、地中海沿岸へと緩やかに低くなっている。

 地中海沿岸の海岸砂丘は滞水層を有し、この水を利用した農耕が行われている。地中海沿岸の低地は古来多くの民族が往来した通路で、中東戦争の際の激戦地ともなった。

[藤井宏志]

気候

北アフリカ、サハラ砂漠から西アジアへと続く大乾燥地帯の中にあり、冬季に150~200ミリメートルの降雨があるのは地中海沿岸の一部のみで、国土の大部分は年降水量150ミリメートル以下の砂漠気候である。このため、ナイル川、オアシスの湧泉(ゆうせん)といった外来の水源が重要な意味をもつ。気温のうえでは温帯から亜熱帯に属し、冬季1月の平均気温はカイロで14℃、アスワンで15.8℃と涼しいが、夏季は暑さが厳しく、8月の平均気温はカイロで27.9℃、南部のアスワンでは33.4℃にもなる。しかし地中海沿岸のアレクサンドリアは26.8℃としのぎやすく、避暑地になっている。全般的に、地中海沿岸から南部へ行くにしたがい気温は高くなり、雨量は少なくなる。1年の季節は、11月から翌年3月の涼しく降雨のある冬季と、5~9月の暑く乾燥した夏季との二季からなっている。地中海を低気圧が東進すると、内陸部から砂混じりの乾いた熱風が吹く。3月から7月にかけて吹くことが多く、この季節風をハムシン(カムシン)Khamsinとよぶ。ハムシンとは正則アラビア語で「50日風」の意で、吹き出すと毎週繰り返し7週にわたって吹くことに由来している。

[藤井宏志]

地誌

ナイル河谷地域、ナイル・デルタ地域、西砂漠地域、東砂漠地域、シナイ半島地域の5地域に区分される。

(1)ナイル河谷地域は、それ自体砂漠の中の細長いオアシスであり、古くからの農業地帯である。綿作の導入により通年灌漑(かんがい)の必要が生じ、アスワン・ダム、アシュート堰(せき)など多くのダムや水路、排水路がつくられ、一大灌漑体系が完成された。小麦、豆類、綿花のほか、スーダンに近い上エジプトではサトウキビが栽培される。集落は少し高い盛り土の上にあることが多く、石造りや日干しれんが造りの家が密集し、周辺にはナツメヤシ、イチジク、ユーカリなどが植えられている。農地改革は施行されたものの、フェラーferrahとよばれる農民は貧しく、都市や外国への労働移住(出稼ぎ)者が多い。河谷の都市には製糖、製粉、紡績などの工場が建設され、水力発電により、アシュートやアスワンは工業都市となっている。ナセル湖の完成で観光客は増加した。

(2)ナイル・デルタ地域は、カイロ以北のナイル・デルタとその東側、スエズ運河までの地域である。首都、国際港湾都市、重工業都市があり、この国の政治、経済の中心地域である。整然とした用水路が走り、集落が並び、区画された耕地が広がり、綿作、米作が行われている。

(3)西砂漠地域は、台地状の砂漠で、その中の窪地(くぼち)群に湧泉(ゆうせん)があり、人間が居住する。シワ・オアシス、カッターラ・オアシスなどがその例である。ハールガ、ダハラ、バハラなどのオアシスでは、地下水源再開発による農地拡大を目ざすニュー・バレー計画が進められており、ナツメヤシ、トマト、ソラマメ、小麦を栽培する。北部では石油、天然ガスの開発が進んでいる。

(4)東砂漠地域は、紅海山脈などの山岳砂漠が連なり、これを刻むワジにオアシス農業や、ヒツジ、ヤギを飼う半遊牧の牧畜が行われている。スエズ湾沿岸では石油や天然ガスの開発が進んでいる。

(5)シナイ半島地域も大部分が砂漠で、冬季に降雨のある地中海沿岸で農業が行われ、南部でアラブ系遊牧民族ベドウィンによる遊牧も営まれている。スエズ湾沿岸はこの国第一の油田地帯となっており、海底油田の開発も進んでいる。突端(とったん)のシャルム・エル・シェイクは国際的な海岸リゾート地となり、国際会議の場ともなる。

[藤井宏志]

政治

政治制度

議会制立憲共和国である。1971年9月の国民投票により承認された新憲法には、国家の性格を、労働者の同盟を基礎にした、民主主義、社会主義のアラブ共和国と定義しており、主権は人民にある。国家元首は大統領で、国民議会が推薦した候補を国民投票で決定する。任期は6年で再選に制限はない。大統領は閣僚を任命し行政権を行使する。エジプト革命以後、ナセル、サダト、ムバラクと軍人出身の大統領が続いている。国会は国民議会のみの一院制で、議員は、大統領指名のコプト教徒議員10名のほかは一般投票で選出される。政党は、ナセル政権時代は一党制であったが、サダト政権の1976年複数政党制となった。与党の国民民主党のほか新ワフド党、国民進歩統一党などがあり、女性議員もいる。2007年イスラム主義政党を阻止するため、宗教政党の禁止、反テロ法を国民投票で定めた。軍人、財閥の勢力が強い。地方行政区分はカイロ県、アレクサンドリア県など29県があり、その下に郡、村がある。それぞれ任命制の県知事、郡長、村長が置かれている。県、郡、村にはそれぞれ議会があり、議員は一部の指名議員のほかは一般投票で選出される。いずれにせよ中央政府の統制が強い。

 近代的な司法制度が施行されたのは、イギリスによる実質的なエジプト支配が始まった1883年である。3種の下級裁判所と最高裁判所で構成される。第一審は各県にある地方裁判所、第二審は19の中央裁判所、第三審は六大都市にある高等裁判所が担当する。各裁判所とも刑事と民事の法廷がある。最終審はカイロにある最高裁判所が行う。このほか最高憲法裁判所、国家治安裁判所がある。最高裁判所は長官、副長官および36名の判事からなる。死刑制度がある。

[藤井宏志]

外交

エジプトは地理的にアラブ諸国の中心にあり、アジア、アフリカが接する位置にあるので、アラブ諸国や第三世界諸国の交流の場となり、政権担当者はアラブや第三世界の代表としての外交を展開したいという意志をもち、ナセル外交はその典型であった。パン・アラブを指向してシリアとの合邦を試み、イスラエルとの中東戦争ではアラブの盟主として戦った。非同盟諸国の代表としても活躍したが、アスワン・ハイ・ダム建設、軍事援助などで実質的にソ連に依存した。サダト政権の初期はナセル外交を踏襲したが、1972年7月ソ連軍事顧問団を追放し、アラブ穏健派の後援のもとに第四次中東戦争を戦い、イスラエル不敗の神話を打ち破った。そのあと米国務長官キッシンジャーの仲介によってイスラエルとの和平交渉に乗り出した。1976年にはソ連との友好条約を破棄、西欧諸国に武器供給を要請した。サダトは単身エルサレムを訪問してアメリカ政府仲介のもとにイスラエルとの和平交渉を成立させ、1979年3月両国は平和条約に調印した。こうしたエジプト単独の和平は、アラブ諸国とくに強硬派の批判を受け、外交的に孤立した。スーダンとの合邦を糸口にアラブ諸国との関係修復を図ろうとしたサダトは、1981年10月暗殺された。後任の大統領ムバラクは、アメリカとの友好関係を維持するとともに、アラブ諸国やソ連との関係改善を図り、1984年ソ連との大使の交換が実現した。イスラエルに対しては1982年駐イスラエル大使を召還するなど、関係は冷却化したが、一方で同年イスラエルからエジプトへのシナイ半島の全面返還を実現させた。中東和平交渉では、アメリカが主導しつつも、アラブとイスラエルの間に立って交渉の進展に寄与しているが、イスラエルのネタニヤフ新政権登場後の1996年にワシントンで行われた首脳会議では、新政権の強硬路線に反発して欠席した。1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍主体の多国籍軍に加わった。2001年のアメリカ同時多発テロを発端とするイラク侵攻には加わらず、2008年にはアメリカ軍などのイラクからの早期撤退を希望した。

[藤井宏志]

軍事

陸海空の三軍があり、総現役兵力46万8500人、最高司令官は大統領である。陸軍は誘導兵器ももち中東地域最強を誇っている。ナセル政権時代はソ連の軍事顧問団が駐在し、武器供給を受けたが、サダト政権の1972年ソ連軍事顧問団を追放した。武器供給国もアメリカ、フランス、中国などと多角化し、アメリカと協力して国産化計画を進め、アメリカ陸空軍と合同演習も行った。イスラエルとの和平成立後、戦争省を国防省と改称して、戦時態勢から自国の防衛やスーダンなど同盟国の防衛態勢へと移行した。国防支出は31億ドル(2007年度。国家予算の11.6%)、選抜徴兵制で満18歳以後1~3年の兵役義務がある。陸軍兵力34万人、予備役30万人で、地対地ミサイルをもつ。海軍兵力1万8500人、予備役1万5000人で、艦船56隻をもち、アレクサンドリア、ポート・サイド、スエズなどに軍港がある。空軍兵力3万人、予備役2万人で、作戦機458機、F16、ミグ、ミラージュ機や地対空・空対空ミサイルも保有する。このほか準軍隊として中央治安警察軍32万5000人、国境警備隊2万人、郷土防衛隊6万人、沿岸警備隊2000人を有する。

[藤井宏志]

経済・産業

エジプトは古くから、ナイル川流域に展開する農業と、砂漠のオアシスの恵み、それに地中海沿岸とアジア、アフリカを結ぶ商業とに国民の経済が依存してきた。依存の仕方はそれぞれの社会の条件によって異なる。

 ナイル川流域の農業は、19世紀前半ムハンマド・アリーによる綿花の導入により、小麦、豆類の一毛作から二、三毛作へと変化した。殖産興業によるエジプト近代化のため、官営工場やインフラストラクチャー(道路、上下水道、鉄道など都市の基幹施設)の建設が進められた。日本の明治維新に先だつこと半世紀の壮大な構想であった。しかし19世紀後半、軍事支出とポート・サイド―カイロ―スエズを結ぶ鉄道建設およびスエズ運河の建設という大工事を進めたため巨額の対外債務を負い、フランス、イギリスの支配を受けることとなった。官営工場も経営不振で、近代化は挫折(ざせつ)し、スエズ運河も外国に管理され、以後、綿花モノカルチュア(単一作物生産)経済の道を歩むこととなった。1922年独立し、民族資本の芽生えがあったものの、大きな変化は1952年のエジプト革命を待たなければならなかった。革命後ナセルは反封建・民族主義の立場から、農地改革、スエズ運河の国有化、外国系金融機関の国有化を行い、1957年以後は社会主義的政策に移行し、重工業、金融、貿易、インフラストラクチャー(都市基盤整備)などを国有化して公共部門を強化した。しかし1967年の第三次中東戦争以後は、外貨収入の減少と巨額の軍事支出により、国家財政は逼迫(ひっぱく)した。1973年の第四次中東戦争後、破綻(はたん)に瀕(ひん)した経済を復興するため、ナセルの後継者サダトは対イスラエル和平交渉を進める一方、経済自由化政策をとり、市場経済への移行、外国資本の導入、民間部門の活性化による工業化を進めた。しかしそのため特定階層だけが恵まれ、インフレは高進して貧富の格差は拡大した。

 2008年時点で、エジプトの国家経済を支えているのは、スエズ運河通航料収入、海外労働移民者の送金、観光収入、石油輸出代金の四つであり、これに先進国の経済援助が加わる。2008年度の国民総生産(GNP)1628億2000万ドル、1人当り国民総所得(GNI)1800ドル、国民所得の部門別割合は農業10%、工業32%、サービス52%などである。

[藤井宏志]

資源

輸出額の48.5%を占め外貨収入に大きく寄与している石油・天然ガスは、スエズ湾東岸のシナイ半島油田およびスエズ湾海底油田が主産地であり、このほかシャルキーヤ砂漠油田、ガルビーヤ砂漠油田がある。スエズからアレクサンドリアへはパイプラインが通じている。石油産業は国有化されており、石油公団(EGPC)が石油精製と流通を握っている。探鉱、採掘は外国企業との合弁会社が行っている。年産3697万キロリットル(2007)で、ここ数年増加の一途をたどっている。埋蔵量は5億8800万キロリットル(2007)であり、新油田の開発が進められている。天然ガスも年産2兆1700億立方メートル(2008)で、ナイル・デルタのアブーマディやアラメイン南方のアブガラーディグなどにガス田があり、アブガラーディグからギゼーまでガスパイプラインが通じている。

 その他の鉱産物として、アスワン付近の鉄鉱石が年産120万トン(2006)、エシバイーヤなどの燐(りん)鉱石が年産65万トン(2006)、シナイ半島のマンガン鉱、アレクサンドリアなどの塩がある。

 エジプトの発電は従来、石炭や石油による火力発電が主であり、アスワン・ダムなど3か所で小規模な水力発電を行っているのみであったが、アスワン・ハイ・ダムに210万キロワットの能力をもつ水力発電所がつくられて、一気に水力の利用が進んだ。このほか、海面下134メートルのカッターラ低地に地中海の水を運河で引き発電する計画がある。原子力発電所建設の計画も進められている。年間総発電量は1154億キロワット時(2006)である。

[藤井宏志]

農・水産業

農業生産の国民所得に占める割合は10%(2006)、農業に従事している人口は全体の31.2%(2006)で、年ごとにその割合を減じているとはいえ、農業は依然として国民経済の重要な部分を占めている。

 エジプトの農業はこの150年間で大きく変化した。19世紀前半の綿花栽培導入以前、大部分の耕地は、8~10月のナイル川の洪水期に農地の周囲に築いた囲み堤によって、水を十分浸み込ませ、肥沃(ひよく)な泥土を沈殿させるというベイスン(囲み堤)灌漑(かんがい)方式によっていた。農耕は洪水期のあと冬作の小麦、クローバー、ソラマメ、タマネギなどを栽培する一毛作であった。初夏から秋にかけて栽培する綿花の導入には通年灌漑が必要不可欠であり、このためダムや水路の構築が行われた。綿花を中心とした2年あるいは3年の輪作体系がつくられ、従来の冬作に加えて、夏秋作の綿花、トウモロコシ、米、サトウキビ、ゴマ、さらにナイル川洪水期のアワ、トウモロコシというように、二毛作、三毛作が行われるようになった。灌漑、排水路の整備によって、ナイル・デルタにも耕地が広がった。全耕地面積は353万ヘクタール(2006)である。

 綿花は長く柔軟な高品質繊維のエジプト綿として知られ、1940年代には輸出の85%を占め、綿花モノカルチュア(単一作物生産)と称された。作付面積は減少の傾向にあり、国内消費も増え、輸出の1.8%(2006)にすぎないが、11万トン(2007)を産する。主産地はナイル川下流およびナイル・デルタである。米(年産688万トン。2007)、トマト(年産755万トン。2007)も重要な輸出作物である。米は1ヘクタール当り5トン以上と高い収量をあげている。サトウキビ(年産1620万トン。2007)は年間を通じて高温の上エジプトで多く栽培され、国内消費に向けられており、栽培面積は増加の傾向にある。小麦は豆類、トウモロコシ、アワ、米などとともに主食作物であり、栽培面積59万ヘクタール、年産738万トン(2007)であるが、自給率は42%で輸入に多くを依存している。ヘクタール当り収量も低く、貯蔵ロスも10%ある。ナイル・デルタで60%が栽培されている。トウモロコシは栽培面積80万ヘクタールともっとも広く、年産624万トンであり、主として上エジプトで栽培されている。このほかジャガイモ、オレンジ、ブドウが栽培され、オアシスではナツメヤシが収穫される。

 畜産としてウシが455万頭(2007。以下同じ)、農耕や運搬用のスイギュウが398万頭、ロバは167万頭、ヒツジ553万頭、ヤギ398万頭が飼育されている。近年、企業的大規模養鶏が盛んになってきた。

 1952年の革命以後3回の農地改革が行われ、封建的な大地主はいちおう消滅した。すなわち、所有上限を1952年84ヘクタール、1961年42ヘクタール、1969年21ヘクタールと定め、これを超える農地を買い上げ、貧農に配分し、配分を受けた者を協同組合に組織化した。しかし21ヘクタールまでの中小地主の支配は依然として残存する。農業就業人口1人当り耕地は0.4ヘクタールと狭く、農耕技術も低い。食糧増産のための灌漑面積の拡大が行われているが、乾燥地の灌漑により、地下水位の上昇による加湿被害や塩害(土中に含まれる塩分が表土まで上昇)などの問題を生じている。

 水産業は、紅海や地中海沿岸での漁業と、ナイル川やダムや水路での淡水漁業とが行われている。沿岸漁業では12万トン(2006)、淡水漁業では25.6万トンの漁獲がある。

[藤井宏志]

工業

工業への就業人口の割合は20.8%(2007)、工業生産の国民総生産に占める割合は32%(2007)で、アラブ諸国第一の工業国である。1952年の革命までは繊維、食品、皮革などの軽工業が主であったが、革命後、社会主義政策のもとで、第一次五か年計画により公共部門中心の重化学工業化(製鉄、化学、電気)が進展した。しかしその後の工業化計画は中東戦争のため中断した。1973年、戦時経済体制を脱却し、疲弊した経済を立て直すため門戸開放政策をとり、外資導入による復興を図った。ポート・サイド、スエズなどに免税地域を設け、5~15年の免税期間を置くなど外資による工業化を進める一方、1994年以降は国営企業の民営化を図っている。

 主要工業は食品(製粉、製糖、ビール、搾油)、繊維、製鉄、アルミ、機械(自動車、原動機、農機具、自転車、兵器)、電気、肥料、セメント、皮革、石油精製などで、食品と繊維の生産額(石油を除く)が多い。自由経済政策以後、民間部門が伸びつつあるが、まだ公共部門の生産額が多くを占めている。公共部門は官僚化、非能率の欠点があり、民間部門は大手と中小の格差が大きい。主要工業地帯はカイロ、ギゼー、ヘルワン、ポート・サイド、スエズ、アミーリア、アレクサンドリアなどである。製糖、紡績、搾油は原料立地の工業で各地に工場が分布している。

[藤井宏志]

貿易

綿花モノカルチュア(単一作物生産)には変化がみられるが、輸入超過は続いている。総輸出額162億ドル(2007。以下同じ)に対し、総輸入額271億ドルと、109億ドルの輸入超過である。これは、綿花の輸出が振るわず、一方、工業原料、工業製品、食糧の輸入が増加しているからである。主要輸出品目は、石油製品(24.5%)、液化天然ガス(16.6%)、原油(6.6%)のほか鉄鋼、野菜、果物、米など。主要輸入品目は、機械類(14.7%)、小麦(5.8%)、石油製品(5.0%)のほか液化石油ガス、原油、自動車、プラスチックなどである(2007)。主要輸出先は、インド(11.3%)、イタリア(9.8%)、アメリカ(5.8%)、スペイン(6.4%)、フランス(3.1%)のほかオランダ、イスラエル、サウジアラビアなど。主要輸入先は、アメリカ(9.5%)、サウジアラビア(8.3%)、ドイツ(6.6%)、中国(6.0%)、ロシア(4.6%)のほかイタリア、フランス、オーストラリアなどであり、貿易相手国は欧米諸国の比率が高い。

[藤井宏志]

金融・財政

1961年に銀行の統合と国有化が行われ、中央銀行のほか商業銀行はエジプト国営銀行、ミスル銀行、アレクサンドリア銀行、カイロ銀行の4行となった。1974年の自由化措置により、外国銀行の合弁会社あるいは支店は、外国為替(かわせ)業務に限り営業できることになった。国家財政を支える4本の柱の石油・液化天然ガス輸出、海外労働移民者の送金、観光収入、運河通航料のうち、1970年代後半は石油輸出と通航料収入の増加で国際収支は黒字を示したが、その後の不況と逆オイル・ショックにより収入は伸びなかった。1980年代以降も燃料、農産物への補助金と食糧輸入により支出は増大し、市場経済化など経済改革への努力の一方で湾岸戦争により経済は悪化した。しかし1990年以降の石油価格高騰により、2007年の対外債務は299億ドルに減少した。

[藤井宏志]

交通

ナイル川や水路網を利用した水上交通は盛んである。静かに川面をすべるフルーカ(帆船)の姿はナイル川の風物詩である。スエズ運河は第三次中東戦争による8年間の閉鎖後、1975年再開された。船舶の大型化に伴って拡張工事を行い、17万トン級の船の航行と、1日通過量は60隻以上が可能になった。鉄道は、世界的にも早い時期に敷設されたカイロ―アレクサンドリア間(1856)をはじめ、カイロを中心に路線があり、総延長8600キロメートル(1990)、南はアスワン、西はカルアンまで延びている。自動車交通の発達につれて道路は整備されつつある。幹線道路の総延長は3万キロメートルを超え、乗用車264万台、トラック、バス61万台を保有する(2007)。航空路では11の空港があり、カイロ、アレクサンドリアには国際空港がある。国内では観光のためカイロ―ルクソール線がドル箱路線となっている。

 1981~1985年の経済開発五か年計画は、鉱工業・運輸通信部門への投資計画とともに、農地開発と食糧増産、住宅と都市建設に力点を置いて進められた。

[藤井宏志]

社会

住民は大部分が地中海人種のエジプト人で、地理的位置からほかの地中海人種、アジア人、アフリカ系とも混血してきた。ナイル川をさかのぼるにつれ黒い肌の人が多くなる。7世紀以後のアラブ人の支配で、イスラム(イスラーム)化、アラビア語化した。少数民族として、スーダン国境近くのヌビア人、マンザラ湖畔のバスムリト、リビア国境付近のベドウィンなどがいる。このほかギリシア人、イタリア人、アルメニア人などの外国系住民もいる。

 言語は正則アラビア語が公用語であるが、生活にはアラビア語エジプト方言(アーンミーヤ)を使う。上流階層では英語、フランス語も使う。観光施設では英語が通用する。

 宗教は、エジプト革命後イスラム教(イスラーム)が国教となっている。他教徒もいるこの国で国教を定めたのは歴史上最初のことである。スンニー派のイスラム教徒が90%を占め、ムスリム同胞団、イスラム団、ジハードなどの過激派もいる。古くから農民に信じられたキリスト教で、上エジプトとカイロに信者の多いコプト教徒は約10%と推定される。このほか各派キリスト教徒、ユダヤ教徒が約30万人いる。イスラム教の慣習に従い木曜日の仕事は午前中だけ、金曜日が休日である。

 1937年に1881万人であった人口は、第二次世界大戦後急速に増加し、1960年2577万人、1995年には5923万人となった。その後の年平均増加率は2.2%と高く、2006年には7200万9000人に、2009年には8299万9000人達した。平均寿命は男68.2歳、女71.7歳(2006)である。また農村から都市への人口の流入が続き、都市人口は43%に達している。とくにカイロへは全人口の8分の1が集中し、住宅難が問題となっている。1人当り国民総所得(GNI)は1800ドル(2008)であるが、階層間の所得格差は大きい。失業者が多く、外国への労働移民者は150万人に達している。鉱工業平均年間賃金は低く、クウェート、サウジアラビア、リビアなどへ働きに行く技術労働者が多い。

 革命後、6歳~14歳の義務教育化、無償化が行われた。技術教育には力を入れている。小学校は6歳から6年間の年限で、卒業試験合格者は中学校(3年)、実業学校へ進む。その後、高校(3年)を経て、大学(4年)、高等専門学校(4年)、高等技術訓練所(2年)へ進む。大学は国立大学が7校あり、イスラム系のアズハル大学、カイロ・アメリカン大学が知られている。義務教育就学率は30%(1990)、識字率72.0%(2007)である。

 病院1ベッド当り人口は455人、医者1人当り人口は417人(いずれも2000~2007)で、途上国では高いほうであるが、都市と地方の格差が大きい。1964年に健康保険法が成立し、病院は公共化されている。

[藤井宏志]

文化

ピラミッドや神殿に代表される何千年もの文化のうえに、その後の地中海の諸文化、イスラム文化、西ヨーロッパ文化が重なっているが、これらの影響を受けつつ、やはり基盤には悠久のナイル川のほとりに生まれた土着のエジプト人文化がある。国民性は、人なつっこく人情味が深く、温和で融通性に富むが、反面、誇り高く利己的で、自己主張が強い面をもつ。家庭では男性の家長が絶対的権限をもち、子女の結婚に際しても相手と婚資の交渉を行い、女性の地位は低いとされているが、これはたてまえで、実際に交渉を行う実質的権限をもつのは妻であることが多い。結婚式や葬式は古くからのエジプトの風習に従って行われ、イスラム色はない。コプト教徒の結婚式はコプト教の方式に従っている。イスラム教の戒律の遵守は他の国ほど厳しくない。

 文化施設はカイロ、アレクサンドリアの二大都市によく整っている。カイロには国立図書館、エジプト博物館、コプト美術館、イスラム美術館があり、杮落(こけらおと)しにベルディの『アイーダ』が初演されたカイロ・オペラ劇場もある。アレクサンドリアにはグレコ・ローマン博物館などがある。

 文学、美術の面でも創造的、現代的な作品が生まれつつある。とくに映画製作活動が目覚ましく、一時世界第3位の製作本数を示したこともある。映画は時代劇、音楽劇のほか、農民や労働者を描いた社会派映画がある。

 主要新聞・雑誌はアラビア語で発行される。『アル・アクバル』(70万部)、『アル・アハラム』(40万部)、『アル・グムフーリア』(40万部)が三大紙である。ラジオ、テレビは国営である。メインが2チャンネル、地方チャンネルが七つある。テレビは24時間放映され、受像機は1382万台である(2006)。民間企業のCMが入る。言論界が政府批判を行うと取締りを受けることがある。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に、文化遺産として「メンフィスとその墓地遺跡:ギゼーからダハシュールまでのピラミッド地帯」「古代都市テーベとその墓地遺跡」「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」「カイロ歴史地区」「アブ・メナ」「聖カトリーナ修道院地域」、自然遺産として「ワディ・エル・ヒータン(クジラの谷)」が登録されている(「アブ・メナ」は遺跡崩落のおそれがあるとして、2001年に危機遺産リスト入りした)。

[藤井宏志]

日本との関係

1957年(昭和32)に文化協定を結び、文化交流にも力を入れ始めた。カイロ大学には日本語学科が設けられ、国際協力機構(JICA)による日本語講座もある。また日本の考古学者が常駐し、遺跡の発掘を行っている。技術協力では、砂漠の灌漑(かんがい)計画やスエズ運河拡張工事や運河架橋(二つの橋)工事を行ってきた。貿易ではエジプトから日本への輸出983億円、日本からの輸入1514億円(2007)となっている。日本への輸出品目は液化天然ガス(89%)、ガソリン、農産物、織物、日本からの輸入品目は自動車、機械類、電機製品などで、日本の輸出超過となっている。このほか借款による援助プロジェクトがあり、9社が企業進出している。

[藤井宏志]

『石田進著『エジプトの経済』(1978・中東経済研究所)』『アブデル・ラフマーン・シャルカーウィー著、奴田原睦明訳『エジプトの農村社会』全3巻(1977・アジア経済研究所)』『ムハンマド・マフムード・アルサッヤード他著、奴田原睦明訳『世界の地理教科書シリーズ15 エジプト――その国土と人々』(1979・帝国書院)』『吉村作治著『エジプト史を掘る』(1992・小学館)』『伊能武次著『エジプトの現代政治』(1993・朔北社)』『鈴木八司監修『エジプト』(1996・新潮社)』『山田俊一編『エジプトの開発戦略とFTA政策』(2005・アジア経済研究所)』『山田俊一編『エジプトの政治経済改革』(2008・アジア経済研究所)』


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百科事典マイペディア 「エジプト」の意味・わかりやすい解説

エジプト

◎正式名称−エジプト・アラブ共和国Jumhuriya Misr al-Arabiya/Arab Republic of Egypt。◎面積−100万9450km2。◎人口−8367万人(2013)。◎首都−カイロCairo(793万人,2007)。◎住民−アラブ系エジプト人がほとんど。◎宗教−イスラム(スンナ派,国教)90%,コプト教10%。◎言語−アラビア語(公用語)。◎通貨−エジプト・ポンドEgyptian Pound。◎元首−大統領,アブドゥルファッターハ・エルシーシAbdel Fattah EL-SISI(2014年6月就任)。◎首相−シェリーフ・イスマイールSherif ISMAIL(2015年9月就任)。◎憲法−1971年9月制定。◎国会−一院制(人民議会,定員498,うち10は大統領が任命,任期5年)。2005年11,12月選挙結果,国民民主党311,新ワヒド党6,国民進歩統一党2,無所属112(ムスリム同胞団系88)。◎GDP−1281億ドル(2007)。◎1人当りGDP−1350ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−31.5%(2003)。◎平均寿命−男68.8歳,女73.6歳(2013)。◎乳児死亡率−19‰(2010)。◎識字率−71.4%(2005)。    *    *正称はエジプト・アラブ共和国。1958年―1971年までアラブ連合共和国と称した。アフリカ北東隅に位置し,東は紅海に面して,北東部でイスラエルと国境を接する。ナイル川が南北に貫流,河口で広大なデルタを形成して地中海に注ぐ。乾燥気候で住民はナイル河谷およびデルタ地帯,スエズ運河に沿う地帯に集中し,国土の大半はサハラ砂漠。夏の気温は40℃をこえ,降雨はわずかに地中海岸にある。農業は綿花が主産物で重要輸出品。トウモロコシ,小麦,野菜などもあるが,灌漑(かんがい)地域の拡張が重要問題である。土地改革,民間企業の国有化などによって社会主義化が進められ,鉄鋼,石油,電力など工業も発達している。〔歴史〕 16世紀前半オスマン帝国の支配下に入った。19世紀前半から英国などの列強が勢力を伸張し,1882年英国の軍事支配下に置かれた。第1次大戦を契機に保護国となり,1922年フアード1世を国王に独立が認められた。1952年ナギーブ,ナーセルらがクーデタ(エジプト革命)を起こし,1953年共和国を宣言した。1956年,スエズ運河国有化宣言をきっかけに,スエズ動乱(第2次中東戦争)が勃発した。ナーセル政権下ではアラブ民族主義が推進され,1958年シリアと連合してアラブ連合共和国が成立,1961年シリアは分離した。1971年より現国名。1970年ナーセル急死の後を継いだサーダート大統領は,対外的には対イスラエル停戦,対米関係修復,キャンプ・デービッド合意を経たエジプト・イスラエル和平条約調印(1979年)といった一連の外交基調からエジプトを米国の軍事的・経済的傘下に置き,〈アラブの大義〉であるパレスティナ解放から決別した。国内的には,エジプト革命に逆行する政府没収財産の返還,旧地主への土地返却など社会主義化政策に歯止めをかけ,左派勢力の一掃に乗り出した。独裁強化と財政赤字およびインフレの進行がサーダート政権の未来を暗示したかにみえ,1981年カイロ郊外でサーダートはイスラム過激派の凶弾に倒れた。副大統領から大統領に昇格したムバーラクが,サーダート路線継承を表明しつつも,対イスラエル和平で断絶されたアラブ陣営への復帰に努めた。1989年アラブ連盟への再加盟を認められ,アラブの盟主として中東和平などで仲介役を果たしてきた。2000年の選挙では,与党・国民民主党(NDP)が大勝。〔アラブの春と2011年革命〕 2005年初の複数候補による大統領選でムバーラクが5選を果たし,独裁体制が続いていたが,2010年12月,チュニジアで起こった反政府デモで同国の長期政権ベンアリ政権が崩壊(ジャスミン革命),その影響を受けたといわれる,ムバーラク退陣要求の反政府デモがエジプト全土に拡大した。2月,ムバーラクは大統領辞任を発表,全権をエジプト最高軍事評議会に委譲,30年に及ぶ長期の独裁的政権が崩壊した。軍事評議会は憲法を停止し,半年以内に憲法改正,大統領選,議会選挙を実行するとし,国防大臣で最高軍事評議会議長のタンタウィが大統領代行に就任。ムスリム同胞団による自由公正党,その元メンバーによるワサト党などが結成され選挙に備える動きが活発化した。しかし,旧ムバーラク政権から要職にとどまっているシャラフ暫定内閣への反発と,軍事評議会の暫定統治が長引くことに不満を持つ改革派は,民政移管をかかげて再び大規模なデモに訴え,11月治安部隊と衝突,多数の死傷者が出る事態となり,シャラフ暫定内閣は辞職,カマル・カンズリーを暫定首相とする政権が発足し,軍事・司法を除く大統領権限が軍から委譲された。2012年1月に行われた議会選挙でイスラム系諸政党が躍進。穏健派の自由公正党が第1党の座を確保。厳格なイスラム法の適用を求める〈光の党〉が第2党,3位は世俗政党のワフド党で,残りは世俗・左派政党などで分け合った。ムバーラク政権で弾圧されてきたイスラム勢力が政界の主導権を握ることになった。3月,議会は新憲法起草委員会を発足させたが,自由公正党らイスラム主義勢力が議会で多数派を占めたことを受けて,イスラム主義者主導のメンバーが選ばれた。これに対し,新憲法でイスラム色が強まることに対する懸念から,革命を主導した青年グループらリベラル勢力や少数派コプト教徒らが反発,民間人委員の辞退が相次ぎ,評議会が委員会の停止を命じるなど混乱が続いた。5月に行われた大統領選では穏健派ムスリム同胞団のムハンマド・モルシ(ムルシとも表記)が1位,ムバーラク政権で最後の首相を務めた元空軍司令官アフマド・シャフィークが2位となったがともに有効投票の過半数を得られず,6月の決選投票によってモルシが新大統領に選出された。モルシはこの当選によってムスリム同胞団および自由公正党から脱退,6月30日最高憲法裁判所で宣誓して大統領に就任した(第5代)。モルシ大統領は,ムバーラク退陣以降の国内混乱を収拾し軍最高評議会からの民政移管と,イスラム勢力と世俗勢力のバランスを必須とするエジプトの民主化を前進させる改革に着手,軍が制定した暫定憲法を破棄し軍幹部を解任,大統領権限を強化した新たな暫定憲法を制定した。11月にはさらなる権限強化となる新条項を発表,これに対して反大統領派が各地で抗議活動を展開,これは撤回を余儀なくされたが,2013年3月,大統領任期の制限や立候補資格の拡大などを盛り込んだ憲法改正案の国民投票で賛成77%(投票率41%)を獲得。これによって2013年8月までに大統領選と議会選が実現されることになり,完全な民政移管のレールが敷かれたかのように見えた。〔2013年国軍クーデタ以後〕 2013年6月のモルシ大統領就任1周年を機に,全国各地で大規模な反ムスリム同胞団の民衆デモが発生したのに応じ,国軍が介入して事態は急転。軍は7月3日クーデタでモルシ大統領を解任,7月9日ハーゼム・エル=ベブラウィを暫定首相に指名し,7月16日暫定政府が成立した。〈アラブの春〉に始まるエジプトの民主革命は,選挙によって選出された大統領が軍のクーデタによって解任される,というあっけない幕切れとなり,軍主導の暫定政府が設定したロードマップに基づくリセットという新たな段階に入ることとなった。軍事政権は2013年12月ムスリム同胞団をテロ組織に指定,正式に非合法化した。これに対して,ムスリム同胞団を中心とするイスラム主義勢力は〈モルシ大統領の復権〉を主張,デモ・座り込みを通じ強く反発しており,対立の政治的解決の見通しはまったく立っていない。暫定軍事政府は,軍によるクーデタの立役者で国防相兼副首相のエルシーシ軍司令官の主導のもと,2014年1月,民間人を軍事法廷で裁く規定など軍の権限を明示した条項やメディアの報道規制や表現の自由を規制する条項を盛り込んだ。憲法改正案を国民投票に付し,投票率39%賛成95%という結果で政権の正統性が裏付けられたとしている。これを受けて,エジプト最高選挙委員会は議会選に先立って大統領選を行うとし,大統領選にはエルシーシ前国防相が立候補を表明した。軍事政府によるムスリム同胞団に対する弾圧と押さえ込みは全国で続いており,クーデタによる政権奪取のみならず人道・人権問題といった観点から,国際社会がどう対応するかが注目されたが,欧米は民主化よりも中東の大国であるエジプトの政情安定化を優先させており,不介入の姿勢をとった。2014年5月に実施された大統領選挙の結果,エルシーシ前国防相が当選し(投票率約47%,得票数約97%),6月8日に就任した。2015年10月から12月に議会選挙が実地され,議会が設立しロードマップが完了した。
→関連項目ウサマ・ビン・ラディン

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旺文社世界史事典 三訂版 「エジプト」の解説

エジプト
Egypt

アスワン以北のナイル川一帯の地名。現在のエジプト−アラブ共和国にあたり,世界最古の文明の発祥地の1つ
【古代】先史時代,上エジプト(ナイル川の谷)と下エジプト(デルタ地帯)の2つの国が存在していたといわれるが,前3000年ころメネスがそれを統一して王となり(第1王朝),メンフィスに都したという。第3王朝から第6王朝までの古王国時代(前2686 (ごろ) 〜前2181 (ごろ) )は第1期の黄金時代で,諸王は多くのピラミッドを築いた。また,第5王朝時代には太陽神ラーの崇拝がさかんとなり,その神殿が造られた。末期には異民族の侵入や地方豪族の台頭で中央集権制は崩れたが,第11王朝・第12王朝の中王国時代(前2050 (ごろ) 〜前1786 (ごろ) )は,都がテーベに移り,第2の黄金時代であった。しかし第14王朝以後,再び中央集権制は崩れ,前1674年ころからおよそ1世紀のあいだ,西アジアから侵入したヒクソスに占領され,中王国は滅亡した。第18王朝から第20王朝までの新王国時代(前1567 (ごろ) 〜前1085 (ごろ) )は第3期黄金時代で,トトメス3世・アメンホテプ3世のヌビア・アジア遠征などにより版図が拡大し,当時世界最強の帝国となった。首都テーベは栄え,アモンを主神とするカルナック神殿などが造営された。その後,第27王朝のときアケメネス朝のカンビュセス2世に征服され,さらに前331年にはアレクサンドロス大王に征服された。前304年プトレマイオス朝が成立し,ヘレニズム国家の中心となったが,クレオパトラ女王を最後に断絶して,前30年ローマ皇帝直属の属州(プロヴィンキア)となり,ビザンツ帝国に引きつがれた。
【イスラーム時代】640年,アラビア人の侵入以後イスラーム化が始まり,ウマイヤ朝(661〜750)・アッバース朝(750〜1258)の支配下に置かれたが,9世紀後半からトルコ系のトゥールーン朝が自立化したのち,909年にチュニスで建国したシーア派のファーティマ朝がエジプトを征服し,カイロを建設して都とした。以後カイロを都にアイユーブ朝(1169〜1250),マムルーク朝(1250〜1517)と続いた。特にマムルーク朝は,アッバース朝が滅びた13世紀後半からイスラーム世界の中心となり,十字軍を撃退,東西貿易を掌握して栄えた。1517年オスマン帝国(トルコ)に征服されたのちは沈滞したが,1798年ナポレオン1世の侵入以後,ムハンマド=アリーの指導下に近代化が始まった。オスマン帝国との対決はヨーロッパ諸国の介入を招いて東方問題をひき起こし,1869年のスエズ運河開通後はさらに戦略的地位が高まったことにより,82年,イギリスはアラービー=パシャの反乱(オラービー革命)に軍事干渉してエジプトを占領した。これ以後,イギリスからの独立をめざす民族運動が高揚し,第一次世界大戦後の1922年,エジプト王国として名目上の独立を達成した。第二次世界大戦後の1952年,ナセル・ナギブらの自由将校団によるエジプト革命が成功(翌年エジプト共和国となる)し,さらに56年イギリス軍の撤退とスエズ運河の国有化が行われ,イギリス支配からの真の解放が実現した。1958年シリアと合邦してアラブ連合共和国を樹立したが,61年シリアが分離。1971年9月,エジプト−アラブ共和国と改称した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エジプト」の意味・わかりやすい解説

エジプト
Egypt

正式名称 エジプト・アラブ共和国 Jumhūriyyat Miṣr al-`Arabiyyah。
面積 99万6603km2
人口 1億199万3000(2021推計)。
首都 カイロ

アフリカ大陸の北東隅に位置する国。旧名アラブ連合共和国。1971年,現国名となった。東はイスラエル紅海,西はリビア,南はスーダン,北は地中海に接している。国土はガルビーヤ砂漠地帯(国土の 68%),シャルキーヤ砂漠と紅海沿岸丘陵地帯,ナイル川渓谷とデルタ地帯,そしてシナイ半島の 4地域に分けられる。乾燥した亜熱帯気候であるが,上エジプトでは熱帯気候のところもある。北部沿岸は冬季に降雨があり,地中海性気候(→温帯冬雨気候)である。住民の大部分は古くからの先住民や,イスラム教の侵入後相次いだアラブ人の移住者の混合からなる。公用語は方言化したアラビア語。住民の約 80%はスンニー派のイスラム教徒で,ほかはキリスト教徒とユダヤ教徒である。キリスト教徒のほとんどはコプト派(→コプト教会)である。国土の約 96%は砂漠に覆われていて,住民のほとんどはナイル川渓谷,デルタ地帯に住んでいる。ナイル川流域はナイルの豊富な流水量のおかげで肥沃で,就業人口の約 25%は農業に従事している。綿花が輸出額の多くを占め,ほかにコムギ,米,果実,野菜,豆などの農作物がある。工業は紡織,食品,鉄鋼,肥料,製糖などが行なわれ,アフリカでは有数の工業水準にある。1952年のエジプト革命以後,農地改革,アスワン・ハイダムの建設,協同組合の組織化,義務教育の普及,工業化の推進,重要企業の国有化が実施された。しかし人口増加率が大きく,一人あたりの国民所得は伸び悩んでいる。アラブ諸国のなかでは有力な指導国の一つ。(→エジプト史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エジプト」の解説

エジプト
Miṣr[アラビア],Egypt[英]

ナイル川下流域,世界最古の文明の発祥地の一つ。ナイルの定期的洪水による灌漑で豊かな農耕文化が栄えた。前3000年頃から前332年までに計31の王朝が興廃した。初期王朝期(第1~2王朝)に統一王国が形成され,第3~6王朝の古王国期には絶対君主制的中央集権のもと,巨大なピラミッド,神殿が造営された。王権の弱まった第1中間期(第7~10王朝)をへて中王国期(第11~12王朝)に再び統一を回復したが,第2中間期(第13~17王朝)にはヒクソスの侵入を受けた。外敵を駆逐した第18王朝に始まる新王国期(~第20王朝)には対外出兵を繰り返し世界帝国となったが,末期王朝期(第21~31王朝)以降王権は衰退。異民族の支配を受け続け,ローマ帝国期には住民もキリスト教化した。639年アラブが侵入しイスラーム化が進展。9世紀後半にはトゥールーン朝のもとで自立し,十字軍とも戦った。1798年にはナポレオンエジプト遠征を受けたが,1805年以降総督ムハンマド・アリーのもとで富国強兵政策を推進。69年にはスエズ運河も開通したが,財政が破綻し,76年以降英仏による二重管理を受けるなかで,初の民族運動アラービーの反乱が高揚した。以後はこれを鎮圧したイギリスが支配者となったが,民族運動に圧倒され,1922年エジプト王国を名目的に独立させる。52年ナセルによるエジプト革命が勃発。帝国主義支配の支柱であった王制を倒し,53年共和国となった。その後はスエズ運河の国有化も勝ち取って名実ともに独立し,58年にはシリアと合邦。アラブ連合を発足させたものの,61年シリアが離脱し,67年の第3次中東戦争にも惨敗した。70年代以降親米路線に転じ,79年にはイスラエルと平和条約を結んでいる。

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世界大百科事典(旧版)内のエジプトの言及

【地主】より

…第2次世界大戦後,土地改革の試みもなされたが,それらはいずれも微温的なもので,それまでの地主・小作人関係を根本的に変革するようなものではなかった。
[ムハンマド・アリー朝下のエジプト]
 これに対し,早くからオスマン帝国からの実質的独立をなし遂げていたエジプトは,まったく独自の土地制度史を歩んだ。19世紀前半,時の権力者ムハンマド・アリー(エジプト総督,在位1805‐48)は,徴税請負制のもとでエジプト農村社会を支配していた徴税請負人階層を一掃し,新たに土地国有制とも呼ばれるべき土地制度をしいた。…

【中東戦争】より

…1948年5月14日夜イスラエル国の独立が宣言されると,アラブ諸国軍は一斉にパレスティナに進撃した。アラブ側によってパレスティナ戦争と呼ばれ,イスラエルはイスラエル独立戦争(解放戦争)と呼んだこの戦争は,最初数の上でイスラエルを圧倒するアラブ側に有利であったが,アラブ側は内部に,パレスティナに領土的野心を抱くトランス・ヨルダンと,エジプト,サウジアラビアとの相互不信をはじめ多くの対立を抱えていた。戦争は停戦と戦闘再開を繰り返し,11月にいたりイスラエル優勢のうちに安全保障理事会の休戦決議が発効し,イスラエルは49年2月エジプトとロードス島で休戦協定に調印したのを皮切りに,3月レバノン,4月トランス・ヨルダン,7月シリアと休戦協定を締結した。…

【メンフィス】より

…エジプト北部,カイロの南約25km,現在のミート・ラヒーナ村にある古代エジプト初期王朝時代および古王国時代の王都。上・下エジプトの境界に近く,第1王朝の始祖メネスが新都として建設した〈白い壁〉にさかのぼるとされ,ピラミッド時代の首都として繁栄した。…

※「エジプト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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