正式名称 エジプト・アラブ共和国 Jumhūriyyat Miṣr al-`Arabiyyah。
面積 99万6603km2。
人口 8501万7000(2013推計)。
首都 カイロ。
アフリカ大陸の北東隅に位置する国。旧名アラブ連合共和国。1971年,現国名となった。東はイスラエルと紅海,西はリビア,南はスーダン,北は地中海に接している。国土はガルビーヤ砂漠地帯(国土の 68%),シャルキーヤ砂漠と紅海沿岸丘陵地帯,ナイル川渓谷とデルタ地帯,そしてシナイ半島の 4地域に分けられる。乾燥した亜熱帯気候であるが,上エジプトでは熱帯気候のところもある。北部沿岸は冬季に降雨があり,地中海性気候(→温帯冬雨気候)である。住民の大部分は古くからの先住民や,イスラム教の侵入後相次いだアラブ人の移住者の混合からなる。公用語は方言化したアラビア語。住民の約 80%はスンニー派のイスラム教徒で,ほかはキリスト教徒とユダヤ教徒である。キリスト教徒のほとんどはコプト派(→コプト教会)である。国土の約 96%は砂漠に覆われていて,住民のほとんどはナイル川渓谷,デルタ地帯に住んでいる。ナイル川流域はナイルの豊富な流水量のおかげで肥沃で,就業人口の約 25%は農業に従事している。綿花が輸出額の多くを占め,ほかにコムギ,米,果実,野菜,豆などの農作物がある。工業は紡織,食品,鉄鋼,肥料,製糖などが行なわれ,アフリカでは有数の工業水準にある。1952年のエジプト革命以後,農地改革,アスワン・ハイダムの建設,協同組合の組織化,義務教育の普及,工業化の推進,重要企業の国有化が実施された。しかし人口増加率が大きく,一人あたりの国民所得は伸び悩んでいる。アラブ諸国のなかでは有力な指導国の一つ。(→エジプト史)
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◎正式名称−エジプト・アラブ共和国Jumhuriya Misr al-Arabiya/Arab Republic of Egypt。◎面積−100万9450km2。◎人口−8367万人(2013)。◎首都−カイロCairo(793万人,2007)。◎住民−アラブ系エジプト人がほとんど。◎宗教−イスラム(スンナ派,国教)90%,コプト教10%。◎言語−アラビア語(公用語)。◎通貨−エジプト・ポンドEgyptian Pound。◎元首−大統領,アブドゥルファッターハ・エルシーシAbdel Fattah EL-SISI(2014年6月就任)。◎首相−シェリーフ・イスマイールSherif ISMAIL(2015年9月就任)。◎憲法−1971年9月制定。◎国会−一院制(人民議会,定員498,うち10は大統領が任命,任期5年)。2005年11,12月選挙結果,国民民主党311,新ワヒド党6,国民進歩統一党2,無所属112(ムスリム同胞団系88)。◎GDP−1281億ドル(2007)。◎1人当りGDP−1350ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−31.5%(2003)。◎平均寿命−男68.8歳,女73.6歳(2013)。◎乳児死亡率−19‰(2010)。◎識字率−71.4%(2005)。 * *正称はエジプト・アラブ共和国。1958年―1971年までアラブ連合共和国と称した。アフリカ北東隅に位置し,東は紅海に面して,北東部でイスラエルと国境を接する。ナイル川が南北に貫流,河口で広大なデルタを形成して地中海に注ぐ。乾燥気候で住民はナイル河谷およびデルタ地帯,スエズ運河に沿う地帯に集中し,国土の大半はサハラ砂漠。夏の気温は40℃をこえ,降雨はわずかに地中海岸にある。農業は綿花が主産物で重要輸出品。トウモロコシ,小麦,野菜などもあるが,灌漑(かんがい)地域の拡張が重要問題である。土地改革,民間企業の国有化などによって社会主義化が進められ,鉄鋼,石油,電力など工業も発達している。〔歴史〕 16世紀前半オスマン帝国の支配下に入った。19世紀前半から英国などの列強が勢力を伸張し,1882年英国の軍事支配下に置かれた。第1次大戦を契機に保護国となり,1922年フアード1世を国王に独立が認められた。1952年ナギーブ,ナーセルらがクーデタ(エジプト革命)を起こし,1953年共和国を宣言した。1956年,スエズ運河国有化宣言をきっかけに,スエズ動乱(第2次中東戦争)が勃発した。ナーセル政権下ではアラブ民族主義が推進され,1958年シリアと連合してアラブ連合共和国が成立,1961年シリアは分離した。1971年より現国名。1970年ナーセル急死の後を継いだサーダート大統領は,対外的には対イスラエル停戦,対米関係修復,キャンプ・デービッド合意を経たエジプト・イスラエル和平条約調印(1979年)といった一連の外交基調からエジプトを米国の軍事的・経済的傘下に置き,〈アラブの大義〉であるパレスティナ解放から決別した。国内的には,エジプト革命に逆行する政府没収財産の返還,旧地主への土地返却など社会主義化政策に歯止めをかけ,左派勢力の一掃に乗り出した。独裁強化と財政赤字およびインフレの進行がサーダート政権の未来を暗示したかにみえ,1981年カイロ郊外でサーダートはイスラム過激派の凶弾に倒れた。副大統領から大統領に昇格したムバーラクが,サーダート路線継承を表明しつつも,対イスラエル和平で断絶されたアラブ陣営への復帰に努めた。1989年アラブ連盟への再加盟を認められ,アラブの盟主として中東和平などで仲介役を果たしてきた。2000年の選挙では,与党・国民民主党(NDP)が大勝。〔アラブの春と2011年革命〕 2005年初の複数候補による大統領選でムバーラクが5選を果たし,独裁体制が続いていたが,2010年12月,チュニジアで起こった反政府デモで同国の長期政権ベンアリ政権が崩壊(ジャスミン革命),その影響を受けたといわれる,ムバーラク退陣要求の反政府デモがエジプト全土に拡大した。2月,ムバーラクは大統領辞任を発表,全権をエジプト最高軍事評議会に委譲,30年に及ぶ長期の独裁的政権が崩壊した。軍事評議会は憲法を停止し,半年以内に憲法改正,大統領選,議会選挙を実行するとし,国防大臣で最高軍事評議会議長のタンタウィが大統領代行に就任。ムスリム同胞団による自由公正党,その元メンバーによるワサト党などが結成され選挙に備える動きが活発化した。しかし,旧ムバーラク政権から要職にとどまっているシャラフ暫定内閣への反発と,軍事評議会の暫定統治が長引くことに不満を持つ改革派は,民政移管をかかげて再び大規模なデモに訴え,11月治安部隊と衝突,多数の死傷者が出る事態となり,シャラフ暫定内閣は辞職,カマル・カンズリーを暫定首相とする政権が発足し,軍事・司法を除く大統領権限が軍から委譲された。2012年1月に行われた議会選挙でイスラム系諸政党が躍進。穏健派の自由公正党が第1党の座を確保。厳格なイスラム法の適用を求める〈光の党〉が第2党,3位は世俗政党のワフド党で,残りは世俗・左派政党などで分け合った。ムバーラク政権で弾圧されてきたイスラム勢力が政界の主導権を握ることになった。3月,議会は新憲法起草委員会を発足させたが,自由公正党らイスラム主義勢力が議会で多数派を占めたことを受けて,イスラム主義者主導のメンバーが選ばれた。これに対し,新憲法でイスラム色が強まることに対する懸念から,革命を主導した青年グループらリベラル勢力や少数派コプト教徒らが反発,民間人委員の辞退が相次ぎ,評議会が委員会の停止を命じるなど混乱が続いた。5月に行われた大統領選では穏健派ムスリム同胞団のムハンマド・モルシ(ムルシとも表記)が1位,ムバーラク政権で最後の首相を務めた元空軍司令官アフマド・シャフィークが2位となったがともに有効投票の過半数を得られず,6月の決選投票によってモルシが新大統領に選出された。モルシはこの当選によってムスリム同胞団および自由公正党から脱退,6月30日最高憲法裁判所で宣誓して大統領に就任した(第5代)。モルシ大統領は,ムバーラク退陣以降の国内混乱を収拾し軍最高評議会からの民政移管と,イスラム勢力と世俗勢力のバランスを必須とするエジプトの民主化を前進させる改革に着手,軍が制定した暫定憲法を破棄し軍幹部を解任,大統領権限を強化した新たな暫定憲法を制定した。11月にはさらなる権限強化となる新条項を発表,これに対して反大統領派が各地で抗議活動を展開,これは撤回を余儀なくされたが,2013年3月,大統領任期の制限や立候補資格の拡大などを盛り込んだ憲法改正案の国民投票で賛成77%(投票率41%)を獲得。これによって2013年8月までに大統領選と議会選が実現されることになり,完全な民政移管のレールが敷かれたかのように見えた。〔2013年国軍クーデタ以後〕 2013年6月のモルシ大統領就任1周年を機に,全国各地で大規模な反ムスリム同胞団の民衆デモが発生したのに応じ,国軍が介入して事態は急転。軍は7月3日クーデタでモルシ大統領を解任,7月9日ハーゼム・エル=ベブラウィを暫定首相に指名し,7月16日暫定政府が成立した。〈アラブの春〉に始まるエジプトの民主革命は,選挙によって選出された大統領が軍のクーデタによって解任される,というあっけない幕切れとなり,軍主導の暫定政府が設定したロードマップに基づくリセットという新たな段階に入ることとなった。軍事政権は2013年12月ムスリム同胞団をテロ組織に指定,正式に非合法化した。これに対して,ムスリム同胞団を中心とするイスラム主義勢力は〈モルシ大統領の復権〉を主張,デモ・座り込みを通じ強く反発しており,対立の政治的解決の見通しはまったく立っていない。暫定軍事政府は,軍によるクーデタの立役者で国防相兼副首相のエルシーシ軍司令官の主導のもと,2014年1月,民間人を軍事法廷で裁く規定など軍の権限を明示した条項やメディアの報道規制や表現の自由を規制する条項を盛り込んだ。憲法改正案を国民投票に付し,投票率39%賛成95%という結果で政権の正統性が裏付けられたとしている。これを受けて,エジプト最高選挙委員会は議会選に先立って大統領選を行うとし,大統領選にはエルシーシ前国防相が立候補を表明した。軍事政府によるムスリム同胞団に対する弾圧と押さえ込みは全国で続いており,クーデタによる政権奪取のみならず人道・人権問題といった観点から,国際社会がどう対応するかが注目されたが,欧米は民主化よりも中東の大国であるエジプトの政情安定化を優先させており,不介入の姿勢をとった。2014年5月に実施された大統領選挙の結果,エルシーシ前国防相が当選し(投票率約47%,得票数約97%),6月8日に就任した。2015年10月から12月に議会選挙が実地され,議会が設立しロードマップが完了した。
→関連項目ウサマ・ビン・ラディン
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アフリカ大陸の北東隅,ナイル川第1急湍(たん)以北の約1200kmにわたる細長い流域地帯が本来のエジプトで,地形上幅8~25kmの河谷地帯(上エジプト)と河口のデルタ地帯(下エジプト)とからなる。古くよりガルビーヤ砂漠中のオアシス(シワSiwa,バフリーヤal‐Baḥrīya,ファラーフィラal‐Farāfira,ダーヒラal‐Dākhila,ハーリジャ(カルガ)al‐Khārija,Khargaの各オアシス),第1・第2急湍間の下ヌビア,紅海沿岸,シナイ半島を勢力圏とし,この地域は現在のエジプト・アラブ共和国にほぼ対応する。
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アスワン以北のナイル川一帯の地名。現在のエジプト−アラブ共和国にあたり,世界最古の文明の発祥地の1つ
【古代】先史時代,上エジプト(ナイル川の谷)と下エジプト(デルタ地帯)の2つの国が存在していたといわれるが,前3000年ころメネスがそれを統一して王となり(第1王朝),メンフィスに都したという。第3王朝から第6王朝までの古王国時代(前2686 (ごろ) 〜前2181 (ごろ) )は第1期の黄金時代で,諸王は多くのピラミッドを築いた。また,第5王朝時代には太陽神ラーの崇拝がさかんとなり,その神殿が造られた。末期には異民族の侵入や地方豪族の台頭で中央集権制は崩れたが,第11王朝・第12王朝の中王国時代(前2050 (ごろ) 〜前1786 (ごろ) )は,都がテーベに移り,第2の黄金時代であった。しかし第14王朝以後,再び中央集権制は崩れ,前1674年ころからおよそ1世紀のあいだ,西アジアから侵入したヒクソスに占領され,中王国は滅亡した。第18王朝から第20王朝までの新王国時代(前1567 (ごろ) 〜前1085 (ごろ) )は第3期黄金時代で,トトメス3世・アメンホテプ3世のヌビア・アジア遠征などにより版図が拡大し,当時世界最強の帝国となった。首都テーベは栄え,アモンを主神とするカルナック神殿などが造営された。その後,第27王朝のときアケメネス朝のカンビュセス2世に征服され,さらに前331年にはアレクサンドロス大王に征服された。前304年プトレマイオス朝が成立し,ヘレニズム国家の中心となったが,クレオパトラ女王を最後に断絶して,前30年ローマ皇帝直属の属州(プロヴィンキア)となり,ビザンツ帝国に引きつがれた。
【イスラーム時代】640年,アラビア人の侵入以後イスラーム化が始まり,ウマイヤ朝(661〜750)・アッバース朝(750〜1258)の支配下に置かれたが,9世紀後半からトルコ系のトゥールーン朝が自立化したのち,909年にチュニスで建国したシーア派のファーティマ朝がエジプトを征服し,カイロを建設して都とした。以後カイロを都にアイユーブ朝(1169〜1250),マムルーク朝(1250〜1517)と続いた。特にマムルーク朝は,アッバース朝が滅びた13世紀後半からイスラーム世界の中心となり,十字軍を撃退,東西貿易を掌握して栄えた。1517年オスマン帝国(トルコ)に征服されたのちは沈滞したが,1798年ナポレオン1世の侵入以後,ムハンマド=アリーの指導下に近代化が始まった。オスマン帝国との対決はヨーロッパ諸国の介入を招いて東方問題をひき起こし,1869年のスエズ運河開通後はさらに戦略的地位が高まったことにより,82年,イギリスはアラービー=パシャの反乱(オラービー革命)に軍事干渉してエジプトを占領した。これ以後,イギリスからの独立をめざす民族運動が高揚し,第一次世界大戦後の1922年,エジプト王国として名目上の独立を達成した。第二次世界大戦後の1952年,ナセル・ナギブらの自由将校団によるエジプト革命が成功(翌年エジプト共和国となる)し,さらに56年イギリス軍の撤退とスエズ運河の国有化が行われ,イギリス支配からの真の解放が実現した。1958年シリアと合邦してアラブ連合共和国を樹立したが,61年シリアが分離。1971年9月,エジプト−アラブ共和国と改称した。
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世界大百科事典内のエジプトの言及
【地主】より
…第2次世界大戦後,土地改革の試みもなされたが,それらはいずれも微温的なもので,それまでの地主・小作人関係を根本的に変革するようなものではなかった。
[ムハンマド・アリー朝下のエジプト]
これに対し,早くからオスマン帝国からの実質的独立をなし遂げていたエジプトは,まったく独自の土地制度史を歩んだ。19世紀前半,時の権力者ムハンマド・アリー(エジプト総督,在位1805‐48)は,徴税請負制のもとでエジプト農村社会を支配していた徴税請負人階層を一掃し,新たに土地国有制とも呼ばれるべき土地制度をしいた。…
【中東戦争】より
…1948年5月14日夜イスラエル国の独立が宣言されると,アラブ諸国軍は一斉にパレスティナに進撃した。アラブ側によってパレスティナ戦争と呼ばれ,イスラエルはイスラエル独立戦争(解放戦争)と呼んだこの戦争は,最初数の上でイスラエルを圧倒するアラブ側に有利であったが,アラブ側は内部に,パレスティナに領土的野心を抱くトランス・ヨルダンと,エジプト,サウジアラビアとの相互不信をはじめ多くの対立を抱えていた。戦争は停戦と戦闘再開を繰り返し,11月にいたりイスラエル優勢のうちに安全保障理事会の休戦決議が発効し,イスラエルは49年2月エジプトとロードス島で休戦協定に調印したのを皮切りに,3月レバノン,4月トランス・ヨルダン,7月シリアと休戦協定を締結した。…
【メンフィス】より
…エジプト北部,カイロの南約25km,現在のミート・ラヒーナ村にある古代エジプト初期王朝時代および古王国時代の王都。上・下エジプトの境界に近く,第1王朝の始祖メネスが新都として建設した〈白い壁〉にさかのぼるとされ,ピラミッド時代の首都として繁栄した。…
※「エジプト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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