島木赤彦(しまきあかひこ)(読み)しまきあかひこ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

島木赤彦(しまきあかひこ)
しまきあかひこ
(1876―1926)

歌人。明治9年12月17日、長野県諏訪(すわ)郡上諏訪町に生まれる。塚原浅茅(あさじ)の四男。1897年(明治30)4月下諏訪町高木の久保田政信の養嗣子(ようしし)となる。本名俊彦。別名柿(かき)の村人。長野師範卒業後、小学校教員となり、校長を歴任した。師範学校時代から短歌、新体詩を『文庫』その他に投稿し、1903年(明治36)1月『比牟呂(ひむろ)』を創刊、のち『アララギ』と合併した。1913年(大正2)中村憲吉との合著第一歌集馬鈴薯の花』出版、翌1914年4月上京して『アララギ』の編集に専心した。1914年10月八丈島に渡り、そのときの作品を柱に第二歌集『切火(きりび)』(1915)を出版。激しく動こうとした時期の歌集である。1915年2月号より『アララギ』の編集発行人となり、同誌の中心的指導者としてその発展に尽くすとともに、第三歌集『氷魚(ひお)』(1920)において写生に立脚する赤彦調を確立し、次の『太虗集(たいきょしゅう)』(1924)に至って、その寂寥(せきりょう)森厳の歌風を大成した。作歌は「鍛練道」であり、短歌の究極は「寂寥所に澄み入る」ところにあるとした。1926年(大正15)1月胃癌(いがん)を病み、同年3月27日下諏訪町高木の自宅において死去した。死後、同年7月第5歌集『柹蔭集(しいんしゅう)』が出版され、その病床詠は「或(あ)る日わが庭のくるみに囀(さへず)りし小雀(こがら)来らず冴(さ)え返りつつ」「信濃路(しなのじ)はいつ春にならむ夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ」など柔軟の趣(おもむき)を加えている。

上田三四二

『『赤彦全集』再刊・9巻・別巻1(1969~70・岩波書店)』『斎藤茂吉著『島木赤彦』(1949・角川書店)』『久保田健次著『柿陰山房――島木赤彦の家とその周辺』(1964・甲陽書房)』

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