栗橋宿(読み)くりはししゆく

日本歴史地名大系 「栗橋宿」の解説

栗橋宿
くりはししゆく

[現在地名]栗橋町栗橋・きた一―二丁目

日光道中七番目の宿場で、同八番目の中田なかだ宿(現茨城県古河市)とは合宿。また幸手さつて宿で日光道中と分岐した迂回路日光御廻おまわり道が当宿で再び日光道中に合する。江戸から一四里一五町、幸手宿から二里三町、古河宿へは一里二〇町。中田宿と交替半月ずつ勤務し、月前半が賃人馬継立、後半が公用無賃人馬継立を行った(宿村大概帳)。当宿には房川ぼうせん渡と栗橋関所があり、渡船場・関所を備えた宿場として発展した。これらの景観は分間延絵図などに描かれるが、宿村大概帳によると、宿往還の長さ一五町一三間余、宿内町並南北一〇町三〇間。天保一四年(一八四三)の人数一千七四一、宿の家数四〇四のうち本陣(建坪一六七坪、門構・玄関付き)脇本陣(建坪四九坪余、玄関付き)が各一軒あり、いずれも宿内かみ町に置かれていた。文政一〇年(一八二七)の「諸国道中商人鑑」には虎屋・蝶屋の二軒の脇本陣がみえる。天保期の宿役人問屋・年寄・帳付・馬指各三人で、問屋場には常時各一人が詰めることになっていたが、大通行の際などには宿役人一同が詰めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の栗橋宿の言及

【栗橋[町]】より

…栗橋駅前に静御前の墓がある。【千葉 立也】
[栗橋宿]
 日光道中第7次の宿駅。江戸より14里半。…

※「栗橋宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」