藤原知家(読み)ふじわらのともいえ

朝日日本歴史人物事典 「藤原知家」の解説

藤原知家

没年正嘉2.11(1258)
生年:寿永1(1182)
鎌倉時代歌人。藤原顕家と源師兼の娘の子。法名蓮性。建保3(1215)年の『内裏名所百首』など,建保年間ごろから公的な和歌活動を開始した。六条家の出身ながら御子左家の藤原定家の指導を受け,歌界に地歩を占めた。しかし定家の息子為家に対してはしだいに不満を抱くようになり,判者をも務めた『春日若宮社歌合』(1246)では,真観らと共に反御子左派の立場を明らかにした。『百三十番歌合』では,為家の判を不服として『蓮性陳状』(1248)を著した。家集および「明玉集」と呼ばれる私選集があったらしいが,伝存はしない。<参考文献>井上宗雄「六条藤家の盛衰」(『国文学研究』1957年3月号)

(渡部泰明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原知家」の解説

藤原知家 ふじわらの-ともいえ

1182-1258 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
寿永元年生まれ。藤原顕家(あきいえ)の子。正三位,中宮亮(すけ)となる。六条家の歌人で,号は九条,大宮。藤原定家に師事したが,のち反御子左(みこひだり)派の立場にたち,藤原為家の判詞に反論して「蓮性(れんしょう)陳状」をあらわした。勅撰集には120首がはいる。正嘉(しょうか)2年11月死去。77歳。法名は蓮性。

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