翻訳|Kuwait
基本情報
正式名称=クウェート国Dawla al-Kuwayt/State of Kuwait
面積=1万7818km2
人口(2010)=274万人
首都=クウェートKuwait(日本との時差=-6時間)
主要言語=アラビア語
通貨=クウェート・ディナールKuwait Dinar
ペルシア湾の北西岸に位置する国。アラビア語で正しくはクワイトal-Kuwayt。1968年の協定によって,南のサウジアラビアとの中立地帯は南北に分割されてそれぞれが両国の領土として取り扱われることになったが,陸上の石油資源だけはこの中立地帯のどこで発見されても両国に帰属し,その生産物は折半されることになっている。国土面積はこの中立地帯の分を含めると約1万8000km2である。
国土の大半は砂漠であり,気候は,夏は40℃をこすのが普通で相当に暑いが,冬は快適である。沿岸は一般に浅瀬であるが,クウェート湾が形成されているところに良港があるのが特徴である。海岸にはブービヤーン,ワルバ,ファイラカなどいくつかの島がある。人口は第2次大戦後急激に増加し,1950年に約15万であったのが,1996年には約207万と推定されている。しかしクウェート人はその約40%で,他はパレスティナ人など他国のアラブのほか,パキスタン人やインド人などが占める。全人口のうちイスラム教徒が85%を占めるが,クウェート人だけを見れば,イスラム教徒が100%近くになる。クウェート人ムスリムではスンナ派がやや多く,シーア派は30~40%を占めるといわれている。
海上数kmの地点にあるファイラカFaylaka島で,紀元前2000年ごろのディルムン文化の遺跡が発見されており,そのころからセレウコス朝時代まで,同島を中心に文化が栄え商業活動が行われていたことが知られている。またクウェート湾北側のカージマは632年ムスリム軍とペルシア軍が戦った古戦場跡とされている。しかしそれ以後18世紀まではこの地域の歴史はつまびらかではない。クウェートの現在の支配氏族スバーフal-Ṣabāḥ家(サバーハ家)は,アネイザ部族連合のウトゥブ族に属し,18世紀の初頭に同じ部族に属する他の数家族とともにこの地へ移住してきたといわれている。
当初クウェートはジャラーヒマ家が海運を,ハリーファ家が貿易を,スバーフ家が外交を担当する分割統治の形態をとっていたが,前2者がクウェートを離れたことにより,スバーフ家がクウェートの統治者となった(1756年)。スバーフ家を中心とするクウェートの歴史はつねに周辺の大国や強大な部族の抗争と無関係ではいられなかった。為政者はオスマン朝やイギリスなど域内最強の勢力と結ぶことにより,クウェートの存続をはかってきた。クウェートは公式には第1次世界大戦までオスマン朝の宗主権を認めていたが,実質的には独立国家であった。1896年大首長ムバーラクが宮廷クーデタで即位してからはイギリスへの傾斜を強め,1899年イギリスの保護国となる条約を結んだ。
1950年に〈近代化の父〉といわれるアブドゥッラー首長が即位し,61年にイギリスとの保護関係を解消してクウェートは独立した。独立と同時にオスマン朝の後継者をもって任ずるイラクがクウェートの領有を主張して国境に軍を進める事件があったが,アラブ連盟軍の出兵などによって暫定的な解決をみて,国連にも加盟した。クウェートでは1930年代から立憲民主運動が見られたが,それが具体的に結実するには独立を待たねばならなかった。61年に制憲議会を召集,翌年憲法が制定された。憲法では第7代ムバーラク首長の子孫が首長(アミール)を継承するものとし,首長の任命による内閣,普通選挙による一院制議会(定員50名,任期4年)の設置が定められている。選挙権はクウェート人男子の識字者の一部に限定され,政党も禁止されてはいたが,議会制度はクウェート社会に急速に浸透し,議会は政府批判勢力としての色彩を強めていった。しかしパレスティナ問題,レバノン情勢,イランにおけるイスラム革命,イラン・イラク戦争などにより国内が混乱するのを恐れた首長は,76年,86年と議会を解散し,言論を統制するという非常措置をとった。81年には,イラン革命によるシーア派勢力の拡大をふせぐため,選挙制度の大幅な手直しが行われた。1989年から東欧における民主化運動の高まりを受け,クウェートでも議会再開運動が発生したが,政府は立法権のない国民評議会を設置した。議会の本格的な再開は湾岸戦争後の1992年で,反政府勢力が過半数を占めた。クウェートでは政党の結成は禁止されているが,イスラム系のイスラム立憲運動(ムスリム同胞団),国民イスラム連合(サラフィー系),国民イスラム同盟(シーア派),およびリベラルのクウェート民主フォーラムが実質的な政党として機能している。
一方,議会制度の採用などによって内政面で湾岸諸国の先鞭をつけたクウェートは,国際政治でも新局面をひらいた。67年の六月戦争(第3次中東戦争)では直ちにイスラエルに宣戦し,アメリカとイギリスへの石油を禁輸してのちのOPEC(オペック)戦略の先鞭をつけたのみならず,戦争当事国への資金援助を開始した。
1980年からのイラン・イラク戦争ではイラク支持を明確にしたが,90年8月,侵攻してきたイラク軍に占領された(湾岸危機)。翌91年,米軍を中心とする多国籍軍によって解放され(湾岸戦争),長年の懸案だったイラクとの国境が画定した。
石油以前のクウェートは漁業,真珠採取,中継貿易を経済の柱としていたが,20世紀に入って日本の養殖真珠が進出するようになりこの真珠経済は壊滅的打撃を受けた。また石油の発見によってクウェートの社会・経済システムは根本的に変容してしまった。石油については,早くも1911年に,石油利権交渉がイギリス系のアングロ・ペルシアン石油会社(現,ブリティッシュ・ペトロリアム社)によって当時の首長との間で始められている。交渉は曲折をへて,最終的には34年,イギリス系とアメリカ系が合弁で設立したクウェート石油会社にクウェートの陸上部全域に対する利権が与えられたが,このように長引いたのは,ひとつには,クウェートの造船業者が労働力の逼迫を恐れて利権設定に反対したからでもあった。38年にブルガン油田が発見され,第2次大戦時の中断をへて,戦後46年の初輸出以後は続々とほかにも油田が発見されている。また中立地帯についてはアミノイル・ゲッティ社,沖合については日本のアラビア石油に,戦後,利権が与えられた。75年,政府はアラブ産油国で初めてクウェート石油会社を,77年にはアミノイルも100%接収した。莫大な石油収入によってクウェートは1人当りのGNPで世界最高水準に達したが,一般の産油国のように直ちに工業化を志向することをせず,自国の条件から割り出して,社会開発と金融立国という独自の政策をいち早く選んだ。低所得層向けの大量の住宅投資,教育の無料化,医療施設の完備,最低賃金,労働者保護,生活救済などのこれまでの施策によって,今日しばしば第一級の福祉国家といわれている。道路,電気,水道,通信などの施設も充実し,これが結果的には金融立国政策にもよい影響を与えている。しかし,第1次,第2次石油危機を経て,石油価格が低落すると,肥大化する政府部門に圧迫されて財政は赤字に転落した。しばらくは豊富な在外資産や投資運用によって赤字の影響を最小限に抑えることができたが,湾岸戦争による戦費負担などで一気に余裕がなくなり,経済システムの抜本的な改革を迫られている。政府は公共サービスの値上げ,有料化,所得税の導入,民営化など〈ふつうの国〉への転換をはかろうとしているが,議会の強い抵抗にあっている。
またクウェート社会のかかえる大きな問題として外国人労働力への依存があげられる。政府はクウェート人化政策をかかげ,徐々に政府職員を外国人からクウェート人に入れ換えているが,効率を追求する民間企業ではかならずしもこの政策はうまくいっていない。
執筆者:冨岡 倍雄
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ペルシア湾北西の国。18世紀にアラビア半島中央から移住したスバーフ家などウトゥーブ族の支配が確立。オスマン帝国の宗主権を認めながらも実質的には独立国として振舞った。19世紀末にイギリスの保護下に入り,1961年独立して憲法,議会を整備した。首都はクウェート市。90年イラクに占領されたが,翌年多国籍軍により解放される(湾岸戦争)。天然真珠の採取を経済の柱としていたが,第二次世界大戦後は世界有数の産油国となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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