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クウェート Kuwait

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大辞林 第三版の解説

クウェート【Kuwait】

アラビア半島北部、ペルシャ湾に臨む首長国。立憲君主制。一九世紀末からイギリスの保護国であったが、1961年に独立。全土が砂漠で、世界有数の石油産出国。住民はアラブ人で、イスラム教を奉じる。首都クウェート。面積1万8千平方キロメートル。人口270万( 2005)。正称、クウェート国。
の首都。ペルシャ湾奥の港湾都市。石油の輸出と中継貿易が盛ん。 〔「科威都」とも当てた〕

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

クウェート

アラビア半島の「付け根」に位置し、北西のイラク、南のサウジアラビアと国境を接する。ペルシャ湾の対岸にはイランがある。国土は四国とほぼ同じ約1万8千平方キロ、人口274万人。サバハ首長家が18世紀から統治する一方、国会や内閣もあり、女性議員もいる。英石油メジャーBPによると、2010年の原油生産量は日量251万バレルで、埋蔵量は世界第5位。国際通貨基金(IMF)によると、11年の国民1人あたり国内総生産(GDP)は4万6千ドル。産業は石油関連に集中し、国民の94%が国家公務員または国営企業に勤めている。日本にとってクウェートは第5位の石油輸入先。

(2012-03-20 朝日新聞 朝刊 オピニオン1)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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デジタル大辞泉の解説

クウェート(Kuwait)

アラビア半島北部、ペルシア湾に面する立憲君主国。首都クウェート。世界屈指の石油産出国。英国保護領から1961年独立。1990年イラクの侵攻を受けるが、翌年、多国籍軍の援助で独立を回復した。人口279万(2010)。
クウェート国の首都。ペルシア湾奥のクウェート湾南岸にある港湾都市

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世界大百科事典 第2版の解説

クウェート【Kuwait】

正式名称=クウェート国Dawla al‐Kuwayt∥ State of Kuwait面積=1万7818km2人口(1996)=207万人首都=クウェートKuwait(日本との時差=-6時間)主要言語=アラビア語通貨=クウェート・ディナールKuwait Dinarペルシア湾の北西岸に位置する国。アラビア語で正しくはクワイトal‐Kuwayt。と呼ぶ。クウェイトとも表記する。語源はアラビア語で砦を意味するクートKūtの縮小形といわれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

クウェート
クウェート
Kuwait

正式名称 クウェート国 Dawlat al-Kuwayt。面積 1万7818km2。人口 365万(2011推計)。首都 クウェート。ペルシア湾北西に位置する首長国。北と西はイラク,東はペルシア湾,南はサウジアラビアに接する。

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クウェート
クウェート
Al-Kuwayt

クウェートの首都。クウェート県の県都でもある。ペルシア湾の支湾クウェート湾の南岸に位置する。 18世紀に建設された。当時は 13km2ほどの泥壁に囲まれた町で,ペルシア湾沿岸貿易の中継地,漁業と真珠採取の基地であった。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

クウェート
くうぇーと
State of Kuwait英語
Daulapul Kwuitアラビア語

西アジア、ペルシア湾(アラビア湾)最奥部の北西岸に位置する立憲君主国。正式名称はクウェート国Daulapul Kwuit。北と西はイラク、南はサウジアラビアと国境を接し、東はペルシア湾に臨む。総面積1万7818平方キロメートル、人口245万7000(2005推計)。首都はクウェート市。かつては砂漠の中の小国にすぎなかったが、莫大(ばくだい)な石油収入を背景に、第二次世界大戦後、急速に近代化が進み、2007年の1人当りの国内総生産(GDP)は3万8925ドルで世界の上位にある。[原 隆一・吉田雄介]

自然

アル・ジャフラの小オアシス、南東および海岸部のわずかな肥沃(ひよく)地を除くと、国土の大部分は平坦(へいたん)で荒涼とした砂漠である。沿岸には暗礁と浅瀬が多く、沖合いにはブービアン、ファイラカなどクウェート領有の九つの島が点在する。国土中央部には西方に向かってクウェート湾が開け、その南には天然の良港クウェート港がある。気候は亜熱帯性であるが、沿岸部は暖流の影響で内陸部より過ごしやすい。夏期(4~10月)は酷暑で乾燥し、40℃以上に達することがある。冬期(11~3月)にはタウズとよばれる激しい砂嵐(あらし)がときおり襲来するが、そのときを除けば涼しく快適である。雨は冬に集中し、年間降水量は30~200ミリメートルと少ないが、しばしば集中豪雨がある。河川はなく飲料水は不足し、大部分を海水からの蒸留水と、イラクのシャッタル・アラブ川からの引き水に依存する。[原 隆一・吉田雄介]

歴史

クウェートはメソポタミア平原の外辺に位置しているが、歴史的にはティグリス、ユーフラテス川流域の定住民よりアラブ系遊牧民との関係のほうが深かった。このためバグダードのアッバース朝(750~1258)、モンゴル(1258~1546)、オスマン帝国(1546~1918)のいずれも、この地域に直接影響を及ぼすことができなかった。16~18世紀にかけて、ポルトガル、オランダ、イギリスなどヨーロッパ列強がインド貿易の独占権をねらい次々にこの地に進出してきた。クウェートの呼称は、16世紀ポルトガル人の築いた要塞(ようさい)「小さな砦(とりで)」ktに由来する。現在のクウェート市は18世紀初頭にアラビア半島内部からアナイザ人の数氏族が移住したことから始まる。サバーハ家、ハリファ家、ザイド家、ジャラヒマ家など有力氏族の末裔(まつえい)が現在のクウェート人である。このうち最強のサバーハ家の首長が1756年クウェートの首長となりサバーハ王朝を創立した。クウェートの町には当時約1万人の居住者がおり、800艘(そう)の船を所有し、貿易、漁業、真珠採集業などで繁栄していた。しかし陸地では狂信的なワッハーブ派教徒の攻撃、海では海賊の出現が後を絶たなかったという。後継者のムバーラク首長のときにはオスマン帝国の支配拡大を恐れ、1899年イギリスと保護条約を結び、その傘の下に入った。以後クウェートはイラクのバスラにかわる中継(なかつぎ)貿易拠点として栄えた。第二次世界大戦後ブルガン大油田の開発をはじめ石油産業は飛躍的に伸びた。とくに1950年に即位した「クウェート近代化の父」とよばれるアブドッラーの時代には、石油収入をてこにして経済・社会発展が目覚ましかった。一方、反植民地主義、民族主義の動きも台頭し、イギリスは1961年に以前の保護条約を廃棄し、外交権を含む独立主権をクウェートに与えた。翌年の1962年には憲法が発布され主権国家となった。[原 隆一・吉田雄介]

政治

政体は立憲君主制(首長国)で、主権在民の三権分立をうたっているが、現実の政治は、首長家を頂点とする伝統的支配が続いている。首長は建国以来サバーハ家の世襲で、ジャービル系とサーレム系に平等の権利がある。現首長はサバーハ・アル・アハマド・アル・ジャービル・アル・サバーハである。憲法に基づき一院制の国民議会が設けられている。議員の定数は50で任期は4年である。国会議員の大部分は首長一族か部族長で保守的傾向が強かったが、1971年、1975年の総選挙では進歩的な野党アラブ民主主義党(ANM)や高等教育を受けた若手議員なども進出した。1976年のレバノン内戦をめぐって国論が分裂し、首長は国会を解散してしまった。1977年には前首長サバーハが死去し、皇太子ジャービルが新首長に即位した。1981年になってようやく国会選挙が実施されたものの、1986年には議会が解散させられた。1990年8月2日隣国イラク軍が国境を越えてクウェート市を侵攻、イラクへの併合を宣言し、いわゆる湾岸危機が発生した。1991年1月アメリカ主体の多国籍軍の出動で湾岸戦争に突入、クウェート市は2月に解放された。湾岸戦争後、1992年10月に7年半ぶりに国会選挙が実施され、野党勢力が躍進した。1996年10月の国会選挙では保守派が巻き返したが、1999年7月の国会選挙ではふたたび野党が議席数を伸ばした。2005年5月には女性に参政権が認められ、同年6月クウェート初の女性閣僚が誕生している。2006年1月に首長ジャービルが死去、皇太子サードが後を継いだが健康上の問題で10日で退位、ジャービルのもとで首相を務めたサバーハが新首長となった。国内外での重要課題の第一は、湾岸戦争後の戦後処理や、2004年に国交を復活させたイラクとの関係改善である。第二は隣国イランのイスラム革命の影響である。人口の3分の1がシーア派イスラム教徒であるため、政府はイランからの革命の輸出を警戒している。第三は、本来のクウェート人(一級市民)の人口比が約32%にすぎないということである。外国人労働者はクウェート人との生活水準や法的地位の格差の是正を要求しているが、人種や宗教も絡み、問題を複雑にしている。[原 隆一・吉田雄介]

経済・産業

典型的な石油依存モノカルチュア(単一生産)経済である。1950年からの石油産業の急激な発展は、たった30年ほどの間に伝統社会を一変させてしまった。原油の確認埋蔵量は1040億バレル(2009)。石油生産量は1979年には日産237万バレルであったが、石油温存政策や国際的原油過剰傾向に対応し、1981年4月以降日産120万バレルに減産した。その後湾岸戦争時に多くの石油施設が破壊されたこともあり日産50万バレル(1991)にまで落ち込んだが、戦後復興が飛躍的に進み、2008年は日産約270万バレルを生産している。石油採掘は1938年にクウェート南部のブルガン大油田がKOC(クウェート石油会社。ブリティッシュ・ペトロリアムとガルフ・オイル社の折半共有)によって発見されたことに始まる。第二次世界大戦後、生産は徐々に増加し、1951年イラン石油国有化事件の影響で需要が急増し、1956年には中東最大の産油国となった。1953年に中立地帯でアメリカ系アミノイル社が商業ベースにのるワフラ油田、1956年にKOCがクウェート北方のラウドハタイン油田、また1960年には日本のアラビア石油が海上のカフジ油田の発掘にそれぞれ成功している。KOCは1975年、アミノイル社は1977年に国有化された。内陸油田はいずれもパイプラインで結ばれ、ブルガン油田に近いミナ・アル・アハマディの巨大なタンカー港に集められる。
 経済構造も圧倒的に石油に依存している。ただし、1981年に国内総生産(GDP)の70%を石油部門が占めていたのに対して、以後しだいに減少し、1986年には30%台にまで落ち込んだ。しかし依然として、2002~2003年度歳入は原油収入が80%を占めている。一方、雇用人口からみると、石油関連産業労働者の総人口に占める比率は、1980年センサス(人口調査)時でわずか1.3%にすぎなかった。大部分の労働者は政府官庁や公共部門に吸収されており、国民の94%が国家公務員または国営企業に勤めている(2009)。2007年の国内総生産(GDP)は約1113億ドルで、実質経済成長率は8.0%(2007)、失業率は4.0%(2006)である。
 政府は石油依存型経済からの脱皮を目ざし、石油以外の諸産業にも力を入れている。クウェート市南方50キロメートルのシュアイバはペルシア湾最大の工業地帯で、化学肥料、海水淡水化プラント、石油精製、石油化学、液化石油ガスなどの大工場が集中する。このうち工業生産の4分の3を占める石油精製業は重要で、シュアイバ、ミナ・アブドッラー、アハマディの三大精油所がある。このほかに食品、清涼飲料水、製粉、建設などの工場もあるが、国内市場が狭く、水、土地、原材料や熟練労働力が不足し、飛躍的発展は望めそうにない。また農業に適する土地と水がきわめて少なく、農産物でみるべきものはない。わずかに近郊野菜、メロン、ナツメヤシなどの果実、伝統的な遊牧民のヒツジ、ヤギなどを主とする牧畜などである。これに対し漁業は、ペルシア湾近海は輸出用の中小エビ類をはじめ魚類が豊富で、もっとも将来性のある産業となっている。
 貿易は、輸出総額の約90%が原油や石油製品によって占められている。また伝統的に中継貿易が盛んで、石油以外では再輸出が目だつ。輸入は近年、機械、自動車、電気製品、プラント類、工業原材料、食料品などが急増している。2008年の輸出額は870億ドル、輸入額は249億ドル。おもな輸出相手国・地域は日本、韓国、台湾、シンガポール、アメリカなど、おもな輸入相手国はアメリカ、日本、ドイツ、サウジアラビア、中国などとなっている(2006)。日本との貿易では、輸出額151億9700万ドル、輸入額20億8600万ドルと、大幅な日本の輸入超過となっている。対日輸出品目のほとんどが原油および石油製品で、2008年の日本への原油輸出量は日量32.3万バレル。日本からのおもな輸入品目は自動車、機械、電気機器などである。国際収支は、湾岸戦争後の数年を除けば、石油収入と海外投資収益が大きいため大幅な黒字である。あり余る財源を自国の経済・社会開発、産業の多角化に投資するほか、1976年にはRFFG(未来の世代のための準備基金)を設立し、将来の石油枯渇時にも備えている。一方、先進資本主義国への対外投資や、アラブ圏やそのほかの開発途上国にアラブ開発クウェート資金(KFAED)を通じて対外援助、融資を活発に展開している。[原 隆一・吉田雄介]

社会

住民の大部分はアラブ人イスラム教徒(85%。2007)であり、そのうちスンニー派が70%、シーア派が30%である。近年人口増加が著しく、1950年の推定人口約15万人から、1980年のセンサス(人口調査)時には約135万人と、30年で9倍に増加し、1995年のセンサスでは約158万人、2005年には245万7000人(推計値)となった。人口急増の主因は、高い自然増とともに、オイル・ブームによって流入した近隣アラブ諸国やイラン、インドからの外国人移住労働者の社会増による。1980年にはすでに非クウェート人が全人口の6割近くを占め、クウェート人を上回った。2008年には非クウェート人が約68%に達している。クウェートは石油収入のおかげで「豊かな国家」を築き、社会福祉が行き届いている。低所得者向けの快適な住宅、外国人を含め無料の医療費、幼稚園から大学まで完全無料の教育などを実現している。ただ、クウェート人と非クウェート人両者の生活水準や法的地位の格差は社会不安の材料となっていることも事実である。教育制度は小学校4年、中学校4年、高等学校4年の4・4・4制で、小学校と中学校の8年間(6~14歳)が義務教育となっており、幼稚園から大学まで公立学校の教育費は無料である。大学には国立のクウェート大学のほかにクウェート・アメリカン大学などの私立大学がある。[原 隆一・吉田雄介]
『『世界各国便覧叢書7 シリア・アラブ共和国 クウェイト国』(1971・日本国際問題研究所) ▽前川雅子著『アラブの人びと クウェートに住んだ体験から』(1991・サイマル出版会) ▽総合研究開発機構編・刊『イラク・クウェート紛争と今後の展望』(1992) ▽脇祐三著『中東激変』(2008・日本経済新聞出版社) ▽牟田口義郎著『石油に浮ぶ国――クウェートの歴史と現実』(中公新書)』

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