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西アジア史 にしあじあし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

西アジア史
にしあじあし

ここでは、7世紀にイスラムが興ってから以後の歴史について取り扱う。それ以前の西アジアの歴史については、「古代オリエント文明」「ペルシア帝国」「エジプト史」「ヘレニズム」などの項目を参照されたい。
 メッカにおける預言者ムハンマド(マホメット)のイスラムの創唱と、それに続くイスラム教徒アラブの大規模な征服によって、西アジア史に新しい時代が開かれた。イスラムは唯一神アッラーへの絶対的服従を説く厳格な一神教で、ムハンマドはメッカの伝統的な多神教と偶像崇拝とを鋭く非難したために迫害を受け、622年、弟子たちを連れてメディナに移住(ヒジュラ)した。これがイスラム暦ヒジュラ紀元の始まりであるが、この移住により、ムハンマドを宗教、政治両面の指導者とするイスラム教徒の共同体が成立し、630年のメッカ征服から632年のムハンマドの没年までの間に、このメディナの共同体の支配に従う緩やかな政治的統合体が、ほぼアラビア半島の全域にわたって成立した。[嶋田襄平]

イスラム帝国の展開

ムハンマドの死の翌日、メディナのイスラム教徒は、信者のうちの一番の長老アブー・バクルを新しい指導者カリフに選び定め、1258年のアッバース朝の滅亡まで続くカリフ制度が成立した。アラブはカリフの指導のもとに大規模な征服を開始し、650年までに東は現在のイランの大部分、西はシルテ湾東岸に至る北アフリカ、北はカフカス、トロス両山脈に及ぶ広大な地域がカリフ政権の支配に帰し、多数のアラブが征服地に移住した。しかし、このような生活環境の急激な変化によって、イスラム教徒間に意見と利害の対立が生じ、第4代カリフのアリーが暗殺されると、彼に敵対していたムアーウィヤがダマスカスに拠(よ)ってウマイヤ朝(661~750)を開き、イスラムに王朝的支配が始まった。アブー・バクルからアリーに至る4代のカリフを正統カリフという。
 ウマイヤ朝は8世紀の初めにイベリア半島、中央アジア、アフガニスタン、インダス川下流域を征服した。インダス川下流域はまもなく放棄されたが、イベリア半島からはしばしばフランク王国領に進出した。しかしトゥール・ポアチエの戦い(732)に敗れたあとはピレネー山脈の南に退き、これによってイスラム帝国の基本的領域がほぼ定まった。この帝国はアラブの征服によって成立したため、アラブは征服者集団として、事実上の免税その他の特権をほしいままにし、カリフはアラブの代表者にすぎず、その政治の原則はアラブの異民族支配に立脚していた。国家財政の基礎である地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の原住民だけに課せられ、たとえ彼らがイスラムに改宗しても免除されることはなかった。しかし政府とアラブ部族民との対立、南アラブと北アラブとの抗争、シーア派、ハワーリジュ派の反体制運動、イスラムに改宗した原住民のアラブとの平等を求める運動が続き、ウマイヤ朝の政情は安定しなかった。
 ウマイヤ朝の政治に不満を抱く人々は、預言者ムハンマドの叔父の子孫アッバース家の革命運動に協力し、これが成功してアッバース朝(750~1258)が開かれ、南イラクの平原の中心に新首都バグダードが建設された。イラン人を主とする新改宗者が多く官僚の職につき、宰相の統率のもとに行政の中央集権化が進んだ。アラブの特権は徐々に廃止され、イスラム教徒であれば、アラブであろうと原住民であろうと人頭税は課せられず、土地を所有する場合に地租だけを支払う原則が確立した。「神の前での信者の平等」というイスラムの理想が現実政治にも反映されるようになり、アラブの征服によって成立した帝国は、いまイスラム法の原則にのっとって統治されるイスラム帝国へと、その性格を変えていった。[嶋田襄平]

イスラム帝国の崩壊

アッバース朝は革命によって成立したので、ウマイヤ朝の領域をそのまま継承したが、早くも756年には、イベリア半島に後(こう)ウマイヤ朝(756~1031)が成立した。後ウマイヤ朝は政治的にはアッバース朝と対立していたが、文化や経済の交流は絶えることがなかった。やがて西方の北アフリカと東方のホラサーンで事実上の独立王朝が興り、エジプト、シリアにも及んだが、それらはアッバース朝カリフの権威そのものを否認するものではなかった。しかし、10世紀の初めチュニジアに建国され、同世紀なかばにエジプト、シリアを征服して新首都カイロを建設したファーティマ朝は、過激なシーア派の一派イスマーイール派に属し、建国のときからカリフという称号を用い、アッバース朝カリフの権威に正面から挑戦した。それとの対抗上、後ウマイヤ朝の君主もカリフと称するようになり(929)、3人のカリフが並び立ってイスラム世界は完全に分裂した。そのうえダイラム人の軍事政権ブワイフ朝は、946年バグダードに入城すると、カリフ制度そのものは存続させたが、軍事、行政、財政に関するカリフの全権限を行使して武家政治を行った。[嶋田襄平]

中央アジアとイベリア

中央アジアの草原に興ったトルコ人のセルジューク朝は、1055年にブワイフ朝を倒してバグダードに入城し、カリフからスルタンという称号を授けられたが、そのまま武家政治を続けた。セルジューク朝は小アジアを征服したが、同じトルコ人のカラ・ハン朝は東・西トルキスタンをあわせ、またアフガニスタンのガズナ朝は西北インドを領土に加えた。一方、北アフリカでも先住民ベルベル人の改宗が進み、彼らはモロッコを中心に相次いでムラービト朝とムワッヒド朝とを建設した。両王朝とも、キリスト教徒の国土回復戦争(レコンキスタ)に対抗するためイベリア半島に進出したが、結局敗退した。しかしムラービト朝は、西スーダンの黒人王国ガーナを滅ぼし、この地方のイスラム化の端緒を開いた。このように、イスラム帝国の分裂にもかかわらず、トルコ人とベルベル人の活躍により、11、12世紀にイスラム世界は拡大した。
 トルコ人はスンニー派イスラム教徒であり、エジプト、シリアでも、アイユーブ朝を開いたサラディンがファーティマ朝カリフを廃し、12世紀のイスラム世界はスンニー派復興の世紀でもあった。アッバース朝カリフのナーシルはこの機に乗じ、東方のホラズム・シャー朝と結んでイラクのセルジューク朝政権を倒し、一時カリフ政治を復活させた。しかし時すでに遅く、フラグの率いるモンゴル軍は1258年にバグダードを陥落させ、アッバース朝を滅ぼした。[嶋田襄平]

イル・ハン国、アイユーブ朝、マムルーク朝

アッバース朝を滅ぼしたフラグは、そのままイラン、イラクを領有してイル・ハン国(1258~1353)を開いた。同国は最初マムルーク朝に敵対していたが、第7代の君主ガザン・ハンはイスラムを同国の国教と定め、自らもイスラムに改宗して、イスラム文化の保護、育成に努めた。その後の代々の君主もガザン・ハンの政策を継承し、異民族モンゴル人の支配下でイラン・イスラム文明の成熟をみた。
 アイユーブ朝は短命に終わり、その奴隷軍人が政権を奪ったマムルーク朝が、長くエジプトとシリアを支配した。マムルーク朝は、外に対しては十字軍とイル・ハン国を撃退してイスラム世界を防衛し、内にあってはエジプト、シリアの文化と経済の繁栄を維持した。現在カイロでみられる代表的な建造物の多くはマムルーク朝時代のものであり、14世紀以降、カイロはイスラム世界の文化と経済の中心地となった。[嶋田襄平]

ティームールの登場

14世紀の後半、中央アジアのチャガタイ・ハン国は分裂状態にあり、各地に土豪が割拠していた。その一人ティームールは、サマルカンドに自立してティームール朝を開き、東・西トルキスタンを統一したのち、モンゴル人君主の血統が絶えたあと分裂していたイル・ハン国の旧領土を統一した。彼はその間、南ロシア、北インド、シリア、小アジアに遠征し、とくにアンカラの戦い(1402)ではオスマン朝に壊滅的な打撃を与えた。ティームールがトルコ人の世界とイラン人の世界とを統一したことにより、イル・ハン国で成熟を遂げたイラン・イスラム文明が中央アジアに伝えられ、トルコ・イスラム文明はいっそう洗練されたものとなった。ティームールと彼の子孫の宮廷においては、ペルシア文学や細密画(ミニアチュール)の傑作が多くつくられたほか、トルコ語の文学作品も著され、天文学や暦法も発達した。[嶋田襄平]

オスマン朝の発展

小アジアはセルジューク朝によって征服されたあと、その分家の一つルーム・セルジューク朝の支配下にあった。同朝はイル・ハン国によって滅ぼされたが、イル・ハン国の小アジア支配は名目的にすぎず、大小のトルコ人君侯国が分立していた。のちに大帝国となったオスマン朝(1299~1922)は、小アジア西部にあったこのような君侯国の一つで、最初小アジアのビザンティン領を奪いながら西方へ領土を広げ、北西部の要衝ブルサを首都とした。1354年にはバルカン半島に進出し、アドリアノープル(現エディルネ)を首都としてバルカンを征服し、やがて一転して小アジア中・東部のトルコ人君侯国を征服した。そのため君侯はティームールに介入を要請し、両軍は1402年アンカラで戦ったが、オスマン軍はスルタン自身も捕らえられるという大敗を喫した。しかしティームールがただちに東方に帰ったので、オスマン朝はよみがえり、小アジア、バルカンの領土を回復し、メフメト2世は1453年にコンスタンティノープルを陥れてビザンティン帝国を滅ぼし、この地に都を移してその名をイスタンブールと改めた。その後彼は小アジア、バルカンの征服を継続するとともに、黒海からジェノバ勢力を駆逐し、クリム・ハン国を服属させた。ビザンティン帝国を滅ぼし、チンギス・ハンの後裔(こうえい)を服属させたことにより、オスマン朝は文字どおりオスマン帝国になったといってよい。メフメト2世の孫セリム1世の時代には、北イラク、シリア、エジプトがオスマン帝国の支配に帰した。このことにより、オスマン帝国は多数のイスラム教徒アラブの臣従を受けただけでなく、それまでマムルーク朝のものであった二聖都メッカ、メディナを含むヒジャーズ地方の宗主権をも収めることになった。以後オスマン帝国はイスラム帝国継承国家としての性格を強くし、そのスルタンはカリフ政治の継承者たることを心がけるようになった。
 オスマン帝国が最盛期を迎えたのは、セリム1世を継いだスレイマン1世の時代においてであった。彼は東方では南イラク、イエメンを征服し、西方ではハンガリー、北アフリカを服属させたばかりでなく、1529年にはウィーンを包囲、38年にはプレベザの海戦でスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合艦隊を破り、43年にはフランス王を支援してニースを占領するなど、ヨーロッパ人の心胆を寒からしめた。帝国の諸制度が整えられたのも彼の時代においてであり、イスラム法の施行とスンニー派信仰の擁護がスルタンのもっとも重要な職責とされた。[嶋田襄平]

イランのサファビー朝

イランでは、アルダビールの神秘主義教団の長が、武装したトルクメン人信徒を率い、タブリーズに即位してサファビー朝(1501~1732)を開いた。同朝はスンニー派のトルコ人、とくにオスマン帝国への対抗上、十二イマーム派のシーア派を国教とし、イランの伝統的な帝号シャーを用い、イラン人の民族意識の高揚に努めた。サファビー朝はアッバース1世のとき最盛期を迎えた。彼はオスマン帝国からアゼルバイジャンと北イラクを奪還し、オランダ、フランス、イギリスなどとの貿易を奨励して経済的発展を図り、新首都イスファハーンを営んで、美しいモスク、学院、庭園でこれを飾った。アッバース1世のあと、サファビー朝の政治はしだいに混乱して崩壊に向かったが、同朝のもとで建築、美術、工芸に代表されるイランの芸術は最高度の発達を示し、文学は振るわなかったが神学、哲学の研究が盛んで、イラン独特のシーア派神学が完成した。[嶋田襄平]

オスマン帝国からの独立と西欧の植民地化

オスマン帝国は17世紀の末から次々にバルカンの領土を失っていくが、やがてアジア、アフリカ領でも自立の動きが始まった。アラビア半島では、18世紀の中ごろワッハーブ派の教えを奉じるワッハーブ(サウード)王国が建設された。同派は神秘主義、とくにその聖者崇拝を後世のイラン人、トルコ人による歪曲(わいきょく)として、原始イスラムへの復帰によるイスラムの改革を唱え、のちトルコ人支配に反抗するアラブ民衆に広まり、アラブの民族的自覚の先駆となった。エジプトでは、フランス占領軍敗退後の混乱に乗じ、オスマン帝国の傭兵(ようへい)隊長ムハンマド・アリーが、実力によってエジプトの支配者となった。彼はフランスの援助のもとにエジプトの近代化政策を推進し、ワッハーブ王国への干渉、東スーダンの征服、シリアの領有を求めての二度の出兵など領土拡張政策をとった。そのためイギリスが介入し、1840年のロンドン会議によって、ムハンマド・アリーはオスマン帝国の宗主権のもとでエジプトの支配者の地位の世襲(ムハンマド・アリー朝)を認められたが、領土はエジプトとスーダンに限定され、また国内市場の開放を余儀なくされた。その後エジプトは経済的にイギリス、フランスに完全に隷属し、やがて両国は財務管理を行って内政をも支配した。このような外国支配に反抗してアラービー・パシャが反乱を起こすと、イギリスは1882年にエジプトを軍事占領して事実上の保護国とした。トルコでも、タンズィマートとよばれる一連の近代化政策がとられたが、結局ヨーロッパ資本への隷属を強める結果に終わり、そのうえロシア・トルコ戦争の敗北により、オスマン帝国はヨーロッパの領土の大部分を失った。イランでは18世紀の末にカージャール朝が興ったが、アフガン戦争によってアフガニスタンを保護国としたイギリスは、1907年にイギリス・ロシア協商を結び、イラン北部をロシア、南部とアフガニスタンをイギリスの勢力範囲と定めた。[嶋田襄平]

植民地支配からの独立

第一次世界大戦に敗れたトルコでは、1922年、ケマル・アタチュルクの率いる人民党がオスマン帝国を倒し、翌年トルコ共和国が樹立され、政教分離政策が進められた。しかしトルコ共和国の領土は小アジアとヨーロッパ南東端のごく一部に限定され、シリア、イラクはイギリス・フランスの委任統治下に置かれた。エジプトでは、ワフド党の指導のもとに民族主義運動が発展し、イギリスは22年に保護権を廃止したが、エジプト人の反抗はやまず、ようやく36年、スエズ運河地帯へのイギリス軍駐留の条件付きで独立を認めた。アラビア半島では、ワッハーブ王国の再興を目ざすイブン・サウドが半島の大部分を統一し、1927年、イギリスとの間にジッダ条約を結んで国際的に独立国として承認され、32年に国名をサウジアラビア王国と定めた。アフガニスタンは1919年、イギリス勢力を排除して早く独立を達成し、イランでは25年にレザー・シャーがクーデターによってカージャール朝を廃してパフラビー朝を開き、近代化政策を進めたが、石油利権はイギリスに握られた。委任統治領では、32年にイラク、44年にレバノン、46年にヨルダン、シリアの独立が認められた。[嶋田襄平]

国際石油資本による石油開発と資源ナショナリズム

ロシア領バクーでは19世紀末にはすでに大規模な油田開発が進んでいたが、ペルシア湾岸地域で商業的な石油開発が始まるのは20世紀に入ってからである。まず、1901年にイギリス人ウィリアム・ダーシーがイランで石油利権を獲得し、1908年にイラン南西部のフーゼスターン州で石油を掘り当てた。翌年には、アングロ・ペルシア(のちにアングロ・イラニアンと改称)石油会社が設立され、14年にはイギリス政府が同社の株式の50%を取得し、イギリスがイランの石油開発を独占することになった。さらに、23年にはイラクで油田が発見された。西アジアの石油埋蔵量が膨大であることが認識されると、欧米の国際石油資本(メジャー)がこぞってこの地の石油利権獲得に参加するようになった。
 アラビア半島での石油開発は主として、カリフォルニア・スタンダード石油(後のシェブロン)とイラク石油会社によって行われた。その後、テキサコ、エクソン、モービルもこれに加わった。バーレーン1930年、サウジアラビア33年、クウェート34年、カタール35年、オマーン37年など次々にメジャーが石油利権を獲得していった。バーレーンではいち早く1931年に石油が発見され、34年には最初の輸出が開始された。現在世界最大の石油輸出国であるサウジアラビアの石油生産は、39年にダハラーンで石油生産が開始されたことにさかのぼる。現在では、イスラエルやレバノンなどの少数の諸国を除いて、西アジアのほとんどの国で石油採掘が行われている。
 石油輸出が本格化するのは第二次世界大戦後になってからである。しかし、メジャーが石油開発・精製・販売を独占していたために、石油輸出から得られる利益は政府にはほとんど入らなかった。1951年にはイランで民族主義者モサデクによる石油産業国有化運動が起こったが、アメリカの介入により失敗する。この失敗を教訓として産油諸国は共同でメジャーに対抗することになった。石油価格はメジャーによって決定されていたために、それを阻止すべく60年にイラン、イラク、サウジアラビア、アルジェリア、ベネズエラの5か国でOPEC(オペック)(石油輸出国機構)が設立された。アラブ産油国によるOAPEC(オアペック)(アラブ石油輸出国機構)も68年に設立された。
 1973年に第四次中東戦争が勃発(ぼっぱつ)するとOAPECはイスラエル支持国に石油輸出禁止措置を発動した。続いて、OPECは石油価格の大幅引き上げを総会で決定した。これによって第一次石油危機(オイル・ショック)が発生した。79年にイランで革命が起こると、第二次石油危機が発生した。70年代にOPEC加盟国は石油国有化を達成した。しかしながら、その後先進国の側では石油消費の停滞と代替エネルギーの利用が進んだ。さらに、北海油田などOPEC加盟国以外の石油生産も拡大した。一方、加盟国の側でも、国内事情の違いなどの理由から、原油生産割当量が厳守されなかった。そのため、80年代に入るとOPECの原油価格決定能力は低下することになる。[吉田雄介]

アラブ民族主義と国民国家

第二次世界大戦後、英仏の影響力が低下するなかで、1960年代までに西アジアのほとんどの諸国が独立を果たした。しかしながら、その石油資源と地政学的位置から米ソの東西冷戦構造に深く組み込まれることになる。その一方で、アラブという共通のアイデンティティのうえにアラブ統一を目ざす運動(アラブ民族主義)も各地で高まった。
 1952年にエジプトでナセルら青年将校の率いる王政打破のクーデターが成功し、56年にはナセルが大統領に就任した(エジプト革命)。これ以降、クーデターにより、イラク(58年)、イエメン(62年)、リビア(69年)と多くの王政が倒れることになった。1956年にナセルのスエズ運河国有化が成功すると、ナセルを指導者にアラブ世界を統一しようとする機運が高まった。これがナセリズムである。しかし、アラブ民衆の広範な支持を獲得したナセリズムも第三次中東戦争でのエジプト軍の大敗により影響力を失った。
 急進的な汎(はん)アラブ主義を標榜(ひょうぼう)するバース主義は、ミッシェル・アフラクとサラーフ・ビタールによって1930年代なかばにシリアで創出された政治思想であり、この思想に基づいて結党されたのがバース党である。アラブ統一というバース党の思想は、シリア国外にも広がり、イラクやヨルダンなどで支持を拡大した。シリアでは63年に、イラクでは68年にバース党がそれぞれ政権を獲得している。シリア・バース党は、アラブ統一の第一歩としてナセルのエジプトとの間に1958年アラブ連合を成立させたが、方針の違いから61年には連合を解消した。イラクの大統領フセインとシリアの大統領ハフェズ・アサドはバース党の一党独裁支配の下に政権基盤を築いており、実質的アラブ統一という大義は失われた。
 こうしてナセリズムとバース主義を代表とするアラブ民族主義はアラブの統一という目標を実質的に放棄した。一方、国民国家という枠組みでのアラブ諸国の関係は維持されている。アラブ連盟は、1945年にエジプト、イラク、レバノン、サウジアラビア、シリア、ヨルダン、北イエメン(南北イエメンは1990年統一)の7か国で結成された。加盟諸国の独立と内政不干渉を尊重し、アラブ諸国の相互の政治、経済、社会その他の諸関係を強化することを目的とする地域協力機構である。現在では加盟国数はパレスチナ解放機構(PLO)を含み21か国に増加しているが、湾岸戦争の際には加盟国間でイラクに対する対応の不一致が露呈した。湾岸協力会議(GCC)は、1981年に、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦(UAE)、カタール、バーレーン、オマーンの6か国で結成されたが、これは直接にはイラン革命の脅威に対抗することが目的であった。
 一方、非アラブの西アジアの国々でも地域協力機構は創設された。アメリカの反共政策の一環としてアメリカの主導の下にトルコ、イラク、イギリス、イラン、パキスタンでMETO(メトー)(バグダード条約機構)が結成された。1959年にイラクが脱退するとCENTO(セントー)(中央条約機構)と改称した。非アラブのイランは、79年の革命以前には、アメリカとの関係が深く、石油収入を背景に欧米型の近代化を追求した。同じくトルコは、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に加盟(1952年)したり、87年にEC(ヨーロッパ共同体)に正式加盟を申請するなどヨーロッパとの関係強化に努めた。ソ連の崩壊後は、イラン・トルコ両国ともカフカスや中央アジアのイスラム系諸国との関係を強めようとしている。85年にトルコ、イラン、パキスタンによって設立された経済協力機構(ECO)には、92年に、ソ連から独立したイスラム系共和国(アゼルバイジャン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)とアフガニスタンが新たに加盟した。[吉田雄介]

国際紛争

先にも述べたように、第二次世界大戦後、西アジアでは多くの国々が独立を達成した。と同時に国家間で大規模な国際紛争(中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争)が何度も繰り返された。こうした国際紛争は直接の戦争当事国のみならず西アジアの多くの諸国に政治・経済的なさまざまな影響を及ぼしてきた。また、西アジア地域には多数の宗教や宗派が存在するのみならず、民族構成も複雑であり、内戦やクーデターも頻発している。
 パレスチナ問題は、19世紀末よりヨーロッパからパレスチナへのユダヤ人移民が開始されたことに始まる。ユダヤ人の増加と所有地の拡大につれて、パレスチナ・アラブ人との衝突を招くようになった。1947年には国連総会でパレスチナをアラブ人とユダヤ人の二つの国に分割するというパレスチナ分割決議が採択された。
 1948年にイスラエルが国家独立を宣言すると、イスラエル建国に反対する周辺アラブ諸国は攻撃を開始した。これが第一次中東戦争である。56年の第二次中東戦争は、エジプトのスエズ運河会社国有化宣言に端を発した。67年の第三次中東戦争は、六日戦争ともよばれるが、イスラエルはこの戦争によりシナイ半島、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原を占領した。73年には第四次中東戦争が起こり、第一次石油危機の原因となった。四度の戦争のいずれもイスラエル側の勝利に終わり、多くのパレスチナ人が難民となった。また82年には、イスラエルはレバノン領内から越境して攻撃を仕掛けてくるパレスチナ・ゲリラを排除するためにレバノンに侵攻した。
 革命以前には親イスラエルであったイランも、革命後はヒズボッラー(ヒズボラ)支援を行うなど反イスラエル政策をとるようになった。これにより、パレスチナ問題はアラブの問題からより広範なイスラムの問題に拡大した。現在もアラブ諸国の多くがイスラエルに敵対しているが、エジプトが1979年にイスラエルとの間に平和条約を締結したように、アラブ側の姿勢は一枚岩ではない。またパレスチナ人離散の結果、ヨルダンや湾岸諸国には多くのパレスチナ人が居住しており、同じアラブ人でありながら差別待遇を受けるなど複雑な問題を引き起こしている。
 イラン・イラク戦争は、革命で国内が混乱状態にあった1980年にイランへのイラクの越境によって始まった。戦争初期はイラク軍が優勢であったが、戦線が膠着(こうちゃく)状態に陥ると都市部や油田へのミサイル攻撃やタンカー攻撃が繰り返された。イラン革命の周辺諸国への拡散を恐れた湾岸諸国や欧米諸国はイラクを支援したが、イラン・イラク両国は88年に国連安保理決議を受諾し、戦争は終結した。
 両国は8年間に及ぶ戦争で大きく疲弊したが、戦後イラクには巨大な軍事力が残された。これは1990年8月のイラクによるクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争の遠因となった。また湾岸戦争の際に、イエメンがイラク支持に回ったため、サウジアラビアなどの湾岸諸国からイエメン人出稼ぎ労働者が締め出された。同じく湾岸戦争後、クウェートでもパレスチナ人を中心とする外国人労働者の再入国が制限された。
 2003年3月、イラク戦争が勃発(ぼっぱつ)。アメリカ、イギリス両国がイラクの武装解除とサダム・フセイン政権打倒を目的としてイラクに武力行使したもので、米英両軍は4月にはイラクの首都バグダードを制圧、フセイン体制は崩壊した。同年12月にはフセインがアメリカ軍に拘束され、2006年12月に死刑が確定、同月、刑が執行された。しかし、戦争直後からイラクの治安は悪化し、各地で散発的な戦闘やテロ行為が続発、フセインの死後も状況に変化はみられない。[吉田雄介]
『前嶋信次編『世界各国史11 西アジア』(1972・山川出版社) ▽『岩波講座 世界歴史8 西アジア世界』(1969・岩波書店) ▽『岩波講座 世界歴史21 近代世界の展開』(1971・岩波書店) ▽嶋田襄平著『イスラムの国家と社会』(1977・岩波書店) ▽屋形禎亮・佐藤次高著『地域からの世界史7 西アジア(上)』(1993・朝日新聞社) ▽永田雄三・加藤博著『地域からの世界史8 西アジア(下)』(1993・朝日新聞社) ▽永井道雄監修『新・中東ハンドブック』(1992・講談社)』

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