鶴原定吉(読み)つるはら・さだきち

朝日日本歴史人物事典 「鶴原定吉」の解説

鶴原定吉

没年:大正3.12.2(1914)
生年:安政3.12.15(1857.1.10)
明治期の政治家・実業家。黒田藩(福岡県)藩士の子。明治16(1883)年東大文学部政治理財科を卒業後外務省に入省。ロンドン,天津,上海各領事館に在勤後辞職日本銀行に入った。大阪支店長を経て本店営業局長兼株式局長から理事となる。総裁と衝突して辞職し33年立憲政友会創立委員となる。翌年大阪市長に就く。38年韓国総監府総務長官となり40年の日韓協約締結に尽力。41年に辞職。この間,関西鉄道会社社長。こののちは大日本人造肥料会社,蓬莱生命保険会社,中央新聞社(政友会機関紙)各社長を歴任。人の扱いにたけていたといわれる。45年衆院議員に当選。政友会相談役になるが病没

(斎藤聖二)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鶴原定吉」の解説

鶴原定吉 つるはら-さだきち

1857*-1914 明治-大正時代官僚,経営者。
安政3年12月15日生まれ。外務省につとめたのち,日銀理事をへて関西鉄道社長。明治33年政友会創立に参加,翌年大阪市長。38年伊藤博文の推薦韓国統監府の総務長官となり,40年第3次日韓協約締結を推進した。45年衆議院議員。大正3年12月2日死去。59歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。東京大学卒。

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