ロシアの文学者。ロシア東部ウファー県の古い貴族出身。カザン大学を卒業しないままペテルブルグに出て立法委員会の翻訳官となる。やがてモスクワに移って1827年からモスクワ検閲委員会の検閲官となるが、1832年にキレーエフスキーの論文『19世紀』がニコライ1世の怒りに触れ、掲載誌『ヨーロッパ人』が発禁処分になった際、担当検閲官であったアクサーコフも厳重注意の処罰を受けた。翌1833年にはコンスタンチノフスク測量学校に奉職、のちには校長となるが、1843年以後は官職を退いてモスクワ郊外アブラムツェボの領地に住む。モスクワ時代には演劇評論を行い自然で写実的な演劇を求めて論陣を張ったが、作家としての活動が始まったのはアブラムツェボ時代で、おもな作品はこの地で生まれている。『釣りの記録』(1847)をはじめとする釣りや狩りの話、代表作といわれる『家族の歴史』(1856)、『孫バグローフの幼年時代』(1858)、『回想記』(1858)などには、故郷の自然や人々の生活がいっさいの感傷を排した散文で描き出されており、「視覚的な写実主義者」とよばれた。なお2人の息子コンスタンチンとイワンは、スラブ主義者として有名。
[藤家壯一]
『黒田辰男訳『家族の歴史』(岩波文庫)』
ロシアの評論家、歴史家、スラブ主義者。文学者セルゲイ・アクサーコフの子、イワン・アクサーコフの兄。モスクワ大学卒業後、思想家スタンケービチのサークルに加わり、ヘーゲル哲学を学んだ。1840~1850年代には、スラブ主義の論客として活躍、ロシアの農村共同体を美化するとともに、ピョートル1世(大帝)の改革を、古来からの民衆と政府との調和ある関係を破壊したものとして非難した。
[外川継男]
ロシアの作家。古い地主貴族出身。1808年カザン大学中退後,ペテルブルグやモスクワで,翻訳官,検閲官(1827-32)などを務めた。30-40年代には,彼の自由闊達な人柄にひかれ,ゴーゴリ,ポゴージン,ホミャコーフ,ベリンスキーら,スラブ派や西欧派の文学者がともに,その〈土曜会〉に集まった。中でも,ゴーゴリとの深交は有名で,《わがゴーゴリとの交遊録》(1890)にくわしい。ゴーゴリの勧めで,彼自身も《魚釣りの記》(1847),《オレンブルグ県の狩猟家の手記》(1852)などを綴った。代表作は,《家族の記録》(1856)およびその続編《バグロフ家の孫の少年時代》(1858)。18世紀末の地主3代の生活を描いた自伝的作品だが,彼の共感は明らかに家父長制の側にある。簡潔で民衆のことばに近い彼の文章は,今もなお写生文の模範で,プリーシビンなど後世に深い影響を与えた。
執筆者:安井 亮平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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