日本大百科全書(ニッポニカ) 「農奴制」の意味・わかりやすい解説
農奴制
のうどせい
荘園(しょうえん)領主・大名など地域的権力者が、経済外的強制すなわち軍事力や政治権力によって、住民(とくに農民)の自由を奪い、高率の地代を課する体制。
[橡川一朗]
西洋
西ヨーロッパで10世紀前後の古典荘園に所属し、荘園領主から農地を借りて保有(永代小作)した農民は、コロヌス(半自由人)、奴隷など隷属的な身分称呼を付された者が多く、毎週3日の賦役を課された者も少なくない。そのため古典荘園農民を「農奴」とし、この時代に農奴制が確立したとする見解が、通説となっている。またほぼ13世紀以後の地代荘園についても、生産物、貨幣の地代負担が過重だったという理由から、各国に広く農奴制が存続した、といわれる。しかし史料からは、この通説はかならずしも支持できない。
(1)古典荘園の標準的農民は、フランス、ドイツとも1フーフェ(10~15ヘクタール)または半フーフェの麦畑を保有する階層であった。しかし彼らフーフェ保有農は、ウォルムス司教領荘民団規則(グリムJ. Grimm編『村法類』Weisthümer第1巻)によれば、明らかに奴隷を所有する富農で、領主と同じ支配階級に属した。したがって1フーフェ当り毎週3日の賦役も、一見過重のようで、実はそれほどではなく、多くの場合、富農は自家の奴隷労働力の10分の1程度を提供したにすぎなかった。
(2)フランスでは11世紀ごろから地代荘園が成立したが、その最大の特色は、小農民階層の広範な形成である。すなわち標準的な荘園農民は旧フーフェの4分の1(約3ヘクタール)を保有したにすぎず、これを小家族の家族労働のみによって耕作した。他方、領主は、12世紀ごろまでは従来どおり多数の奴隷を所有し、かつその一部に武装させて、これを軍事力の基盤とした。そのため領主は、無力な小農民を抑圧し、過酷な「恣意(しい)タイユ」(恣意地代)をはじめ、人頭税、十分の一税などの地代を課し、地代の合計は全生産物の3分の1以上に達した。領主はさらに農民に対する裁判権を強化し、農民の自由を奪って、地代の増徴を図った。かくて荘園農民は、法律上、多くは荘民(ビランvilain)という自由人身分を認められたにもかかわらず、事実上、不自由な永代小作人とされ、一般には農奴(セルフserf)とよばれるに至った。
(3)ドイツでは、13世紀以降の、いわゆる地代荘園においても、依然としてフーフェ保有農が中核をなした。グリム編およびオーストリア共和国学士院編の『村法類』によれば、彼ら富農は、大家族の家長として傍系血族を支配するとともに、自家の下人(げにん)に懲罰権を振るってこれを酷使し、まさしく家父長的奴隷所有者であった。富農はまた領主の裁判権に制約を加え、殺人犯には仇討(あだうち)を原則として、しばしば被害者、犯人双方の親族団が交戦した。さらに富農は、自家への侵入者をその場で殺す権利をもち、あるいは逆に自家に避難してきたものを保護するアジールAsyl権を有した。それゆえ中世および近世のドイツ荘園農民を農奴とみるのは、とうてい無理である。
東北ドイツでは16世紀以後、古典荘園に似たグーツヘルシャフトが成立して農奴制が広まったといわれる。しかしそこにも富農が存在し、とくに東プロイセンにはクルムKulm法によって下人懲罰権などの特権を認められたドイツ系の富農が多かった。他方スラブ系の貧農も多く、彼らは領主から過重な賦役を課せられ、フランスの農奴よりさらに惨めな地位にあった。西南ドイツはやや例外で、12世紀から17世紀までの間に、家父長的な富農が姿を消し、しだいに農奴制が成立した。
(4)イギリスでは1086年の全国的土地調査の結果作成された『ドゥームズデー・ブック』(Domesday Book最後の審判日の書の意味)によれば、各荘園には自由人、奴隷などさまざまな身分の農民がいたが、その後しだいにビレインvillain(荘民の意味)という身分に統一された。地代は、南東部では賦役が、中部・北西部では貨幣地代が、それぞれ優勢で、いずれも13世紀ごろまでに増額された。こうしてビレイン身分農民に代表される農奴階級が形成され、農奴制が成立した、といわれる。ただし13世紀のビレインのなかには、なお一バーゲートvirgate(10ヘクタール前後)という広い麦畑を保有し大家族の家長である富農も、各地に残存した。したがってビレインを一様に農奴とみるのは問題で、農奴制の確立期を14世紀とする見解も成り立つ。
(5)ロシアでは、16世紀までに、農民は各所属荘園からの移動を禁ぜられて不自由身分となり、その結果全国的に農奴制が成立した、といわれる。しかし農民のなかには、トルストイの小説『戦争と平和』の主要人物ピエールのいうような大家族制を背景として、その家長たる富農も、中世以来広く存在した。それゆえ、レーニンがその著『ロシアにおける資本主義の発達』で、19世紀の富農を一様に新興の農業資本家とみたのは誤りであり、またそれ以前のロシア農民をすべて農奴とする通説も、再検討の必要がある。
[橡川一朗]
農奴解放
農奴の解放には、下からの解放(フランス・イギリス型)と上からの解放(東北ドイツ・ロシア型)との二類型がある。
フランスでは13世紀ごろ、「恣意タイユ」の定額化、人頭税の有償廃棄が実現した。とくに後者は農奴解放とよばれることもあるが、実態は農奴制の部分的緩和にすぎず、百年戦争の開始とともに地代はふたたび増大した。これに対して1358年大農民反乱「ジャクリーの乱」が起こり、領主階級は、反乱を鎮圧したが、その後は地代の増徴を手控えた。さらにペストの流行による農村人口の激減に対応して地代軽減策がとられたので、16世紀以後、事実上の自由農民ラブルールlaboureurが数を増し、そのなかから農業資本家さえ現れた。こうして農奴の反抗と社会経済上の変化とによって、18世紀中ごろまでに「下からの解放」が進み、それはフランス革命によってほぼ完成された。
イギリスでも1381年ワット・タイラーWat Tylerの率いる大農民反乱が起こった。反乱鎮圧後やはり農民の地位はしだいに改善され、とくに賦役の定額銀納化、ついで新大陸からの銀の流入による銀貨価値の低下、したがって地代の実質的軽減のため、16世紀には事実上の自由農民ヨーマンyeomanが多数出現した。さらにそのなかから牧羊業や毛織物マニュファクチュアを経営する産業資本家が生まれ、農村に広く資本主義がおこった。こうして17世紀前半までに農奴解放が進み、ピューリタン革命の素地をつくった。
東北ドイツのプロイセン王国では、19世紀前半、政府が農業改革を行い、農民の保有地を所有地に変え、賦役を廃止して、「上からの農奴解放」を試みた。しかし、いわゆる農奴のうち、富農は、改革の前後を通じて家父長的な性格を変えず、貧農は逆に、賦役廃止の代償として、自己の所有地の一部を旧領主に奪われた。そのため貧農は、旧領主ユンカーJunkerの旧直営地ユンカー農場で、低賃銀労働を強制され、依然として奴隷に近い地位に置かれた。
ロシアでも1861年皇帝アレクサンドル2世が農奴解放令を発布し、農民に移動の自由を与え、農地の所有権を認めた。しかし旧領主は、解放の代償として、農民の所有地取得を制限し、自己の所有地を拡大した。そのため貧農の生活は改善されず、彼らはその後ロシア革命に参加するに至った。他方、富農は、解放の実施機関となった農村共同体を事実上支配して、ロシア革命後も勢力を保ち、レーニンをして社会主義政策の修正、ネップを余儀なくさせた。
[橡川一朗]
日本
農奴制は、中世の封建支配者が農民を身分的に隷属させ、土地に緊縛して、それから夫役や年貢を収取する制度と考えられ、ヨーロッパの中世社会に具体的に存在した農奴のあり方を基準としつつ、一般概念として抽象化・理念化された歴史学の範疇(はんちゅう)である。このような歴史学的範疇としての農奴制概念を日本歴史に適用することによって、日本封建社会の歴史を国際的に共通の尺度で見直そうという試みは、第二次世界大戦後の科学的歴史学において活発に行われた。その際、江戸時代の平均的農民が、直系小家族の自営農で、かつ幕藩領主によって土地緊縛されているところから、これを広義における農奴とみ、かつ生産物地代負担という点から、狭くは隷属と規定するのが妥当とする点ではほとんど異論がなかった。
これに対して江戸以前の中世については、農民の存在形態が複雑なため、農奴制概念の適用をめぐってはさまざまの異説が提起され、論争が繰り返されている。すなわち中世の荘園(しょうえん)制下の中核的農民である名主(みょうしゅ)層では、多くの場合、しばしばその家の構成員が「親類・下人(げにん)」と表現されるように、傍系親族や非血縁の下人を含んでおり、論者によってはこれを家父長制大家族といい、他の論者は家父長的奴隷制と規定し、直系家族の小家族を基本とする農奴とは区別すべきであると考えた。しかも、そこでの問題となる下人も、現実には家族の構成を許されず売買の対象になる奴隷から、家族を構成し、主家の外部に小屋をもって半独立の経営をもつ者までを含むため、そうした家族もち下人こそ農奴とみるべきだという説も提起された。また一方、多少の傍系親族や下人を含んでも名主の直系家族自体が農業労働に従事している限り、傍系家族・下人も含め名主家族そのものを広義の農奴の一存在形態とみてよいという説も出されており、今日のところ共通見解に到達していないのが現状である。
[永原慶二]
『橡川一朗著『西欧封建社会の比較史的研究 増補改訂版』(1984・青木書店)』▽『高橋幸八郎著『近代社会成立史論』(1947・御茶の水書房)』▽『田中正義著『イングランド封建制の形成』(1959・御茶の水書房)』▽『安良城盛昭著『幕藩体制社会の成立と構造』(1959・御茶の水書房)』▽『安良城盛昭著『日本封建社会成立史論』(1984・岩波書店)』▽『永原慶二著『日本封建制成立過程の研究』(1961・岩波書店)』▽『永原慶二著『日本中世社会構造の研究』(1973・岩波書店)』