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文芸用語。正岡子規が俳句で活用した〈写生〉を文章にも用いてつくり出した新文体をいう。子規の《小園の記》(1898),高浜虚子の《浅草寺のくさぐさ》(1898)などを最初とし,《ホトトギス》での誌上募集もあり,1900年からは病床の子規の枕頭で写生文を読む〈山会〉ももたれた。表現にははじめ文語が用いられたが,しだいに口語体となり,時間的な流れを寸断した一つの場面を客観的に写生し,それをつづり合わせるという手法で時間の再現を試みた。子規没後,虚子,寒川鼠骨(さむかわそこつ)(1875-1954),坂本四方太(しほうだ)(1873-1917)らが力を注ぎ,写生文の名称も一般化した。小説での応用は,夏目漱石の《吾輩は猫である》(1905),《草枕》(1906),虚子の《風流懺法》(1907),伊藤左千夫の《野菊の墓》(1906),長塚節の《土》(1910)などにも見られる。写生の態度方法が人間の内面に深くかかわらず,高踏的,傍観的な人間を描かせたことから,同時代の自然主義文学と対蹠的な性格をもつ文学としての地歩を占めた。
執筆者:松井 利彦
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文芸用語。対象をありのままに写す「写生」の概念を散文に当てはめたもので、明治30年代初頭に正岡子規(まさおかしき)が提唱した。当初「叙事文」「小品文」ともよばれ、雑誌『ホトトギス』でも募集があった。子規『小園の記』(1898)や高浜虚子(きょし)『浅草寺のくさぐさ』(1898)などが収穫。1900年(明治33)から写生文の朗読批評の会「山会(やまかい)」が始まり、文章には山(中心点)がなければならないという態度が示された。子規没後は虚子のほかに、寒川鼠骨(さむかわそこつ)、坂本四方太(さかもとしほうだ)らが写生文の発展に力を注ぎ、口語による写生文体も完成。『ホトトギス』の運動は小説界にも影響し、夏目漱石(そうせき)『吾輩(わがはい)は猫である』(1905~06)、『草枕(くさまくら)』(1906)、虚子『風流懺法(せんぽう)』(1907)、伊藤左千夫(さちお)『野菊の墓』(1906)、長塚節(たかし)『土』(1910)など、写生文派作家の名作を生み出した。寺田寅彦(とらひこ)、鈴木三重吉(みえきち)、野上弥生子(やえこ)らも、写生文の影響下から出発した。人生に肉迫する自然主義文学とは違う、余裕派とよばれる一派を生み出したことも忘れられない。
[中島国彦]
『福田清人著『写生文派の研究』(1972・明治書院)』
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