1911-12年にイタリアがオスマン・トルコ領リビア(トリポリタニアとキレナイカ)の領有を図って起こした戦争。リビア戦争ともいう。イタリアはかねてよりリビア植民地化の機会をうかがい,外交的にも協商国との間でイギリスにはエジプト,フランスにはモロッコにおける権益を保障する代りに,自国のリビア領有についても了解を取りつけていた。1911年7月第2次モロッコ事件の勃発にともない,列強の目がそれに集中している最中,ナショナリスト,カトリック,ローマ銀行等の金融界や製鉄業界などによるイタリア国内での戦争推進キャンペーンを背景として,9月28日ジョリッティ政府は,24時間の回答期限つきの最後通達をトルコに送り,翌日宣戦布告した。イタリア軍はまたたく間にトブルク,トリポリ,ベンガジなどの沿岸諸都市を占領し,11月5日にはトリポリタニアとキレナイカの併合を宣言。しかし実際には都市部と海岸線を制圧したにすぎず,現地のアラブの支援を受けたトルコ軍の抵抗は頑強で,戦局は硬直状態のまま年を越した。そこでイタリアは事態の好転を図ろうとして,エーゲ海のトルコ領にも戦域を拡大した。12年4~5月にロードス島をはじめとするドデカネス諸島を占領し,7月にはダーダネルス海峡の封鎖を断行した。この頃列強の間で調停の気運が生じ,両国間で和平交渉が開始されたが,それが十分に進展しない間に新たな事態が生まれた。ロシアの斡旋によってバルカン同盟に結集していたセルビア,モンテネグロ,ブルガリア,ギリシアが,トルコの弱体ぶりをまのあたりにしてトルコに宣戦布告を行ったのである。苦境に陥ったトルコ政府は戦争の終結を決断し,10月18日ローザンヌ和平条約を締結した。かくしてイタリアはリビアに対する支配権を獲得した。しかし実際の征服が完了するまでには,依然として長い年月を要し,それが実現をみたのはファシズム体制下の31年のことであった。
執筆者:堺 憲一
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北アフリカのトルコ領、トリポリとキレナイカ(のちリビアと改名)をめぐるイタリアとトルコとの戦争(1911~12)。1908年の青年トルコ党の政権獲得以後、トリポリ在住のイタリア人に対するトルコの圧力が強まり、これがイタリアの民族主義運動を刺激していたが、11年にフランスがモロッコを保護領にしてからは、北アフリカ沿岸における勢力均衡の必要上イタリアのトリポリ進出の機運は高まった。イタリア経済の行き詰まりの打開を求めていたイタリア首相ジョリッティは、これ以上猶予することはトルコの背後にいるドイツを利することになると考え、同年9月28日トルコとの戦争に踏み切った。戦争はイタリアに有利に展開し、同年11月5日、イタリア国王はトリポリとキレナイカのイタリア併合を宣言した。翌12年10月休戦が成立し、ローザンヌ条約により、トリポリ、キレナイカ地方のイタリア併合が認められた。
[重岡保郎]
リビア戦争とも呼ばれる。ヨーロッパ列強のアフリカ侵略に際して,イタリアはフランス,イギリス,ロシアと外交折衝を行い,オスマン帝国の支配する北アフリカをイタリアの支配下に入れることを承諾させた。イタリアは,1911年9月トルコに宣戦布告してトリポリおよびキレナイカを占領,両地に古来の名称であるリビアの名を与え,翌年のローザンヌ条約でリビア支配権を得た。
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