イタリアトルコ戦争(読み)イタリアトルコセンソウ

デジタル大辞泉 「イタリアトルコ戦争」の意味・読み・例文・類語

イタリアトルコ‐せんそう〔‐センサウ〕【イタリアトルコ戦争】

1911~12年、北アフリカトルコトリポリキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアオスマン帝国との戦争。イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された。トリポリ戦争伊土戦争

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精選版 日本国語大辞典 「イタリアトルコ戦争」の意味・読み・例文・類語

イタリア‐トルコ‐せんそう‥センサウ【イタリアトルコ戦争】

  1. いとせんそう(伊土戦争)

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改訂新版 世界大百科事典 「イタリアトルコ戦争」の意味・わかりやすい解説

イタリア・トルコ戦争 (イタリアトルコせんそう)

1911-12年にイタリアがオスマン・トルコ領リビア(トリポリタニアとキレナイカ)の領有を図って起こした戦争。リビア戦争ともいう。イタリアはかねてよりリビア植民地化の機会をうかがい,外交的にも協商国との間でイギリスにはエジプト,フランスにはモロッコにおける権益を保障する代りに,自国のリビア領有についても了解を取りつけていた。1911年7月第2次モロッコ事件の勃発にともない,列強の目がそれに集中している最中,ナショナリスト,カトリック,ローマ銀行等の金融界や製鉄業界などによるイタリア国内での戦争推進キャンペーンを背景として,9月28日ジョリッティ政府は,24時間の回答期限つきの最後通達をトルコに送り,翌日宣戦布告した。イタリア軍はまたたく間にトブルク,トリポリ,ベンガジなどの沿岸諸都市を占領し,11月5日にはトリポリタニアとキレナイカの併合を宣言。しかし実際には都市部と海岸線を制圧したにすぎず,現地のアラブの支援を受けたトルコ軍の抵抗は頑強で,戦局は硬直状態のまま年を越した。そこでイタリアは事態の好転を図ろうとして,エーゲ海のトルコ領にも戦域を拡大した。12年4~5月にロードス島をはじめとするドデカネス諸島を占領し,7月にはダーダネルス海峡の封鎖を断行した。この頃列強の間で調停の気運が生じ,両国間で和平交渉が開始されたが,それが十分に進展しない間に新たな事態が生まれた。ロシアの斡旋によってバルカン同盟に結集していたセルビアモンテネグロ,ブルガリア,ギリシアが,トルコの弱体ぶりをまのあたりにしてトルコに宣戦布告を行ったのである。苦境に陥ったトルコ政府は戦争の終結を決断し,10月18日ローザンヌ和平条約を締結した。かくしてイタリアはリビアに対する支配権を獲得した。しかし実際の征服が完了するまでには,依然として長い年月を要し,それが実現をみたのはファシズム体制下の31年のことであった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イタリアトルコ戦争」の意味・わかりやすい解説

イタリア・トルコ戦争
いたりあとるこせんそう
Guerra italo-turca イタリア語

北アフリカのトルコ領、トリポリとキレナイカ(のちリビアと改名)をめぐるイタリアとトルコとの戦争(1911~12)。1908年の青年トルコ党の政権獲得以後、トリポリ在住のイタリア人に対するトルコの圧力が強まり、これがイタリアの民族主義運動を刺激していたが、11年にフランスがモロッコを保護領にしてからは、北アフリカ沿岸における勢力均衡の必要上イタリアのトリポリ進出の機運は高まった。イタリア経済の行き詰まりの打開を求めていたイタリア首相ジョリッティは、これ以上猶予することはトルコの背後にいるドイツを利することになると考え、同年9月28日トルコとの戦争に踏み切った。戦争はイタリアに有利に展開し、同年11月5日、イタリア国王はトリポリとキレナイカのイタリア併合を宣言した。翌12年10月休戦が成立し、ローザンヌ条約により、トリポリ、キレナイカ地方のイタリア併合が認められた。

[重岡保郎]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イタリアトルコ戦争」の解説

イタリア‐トルコ戦争(イタリア‐トルコせんそう)

リビア戦争とも呼ばれる。ヨーロッパ列強のアフリカ侵略に際して,イタリアはフランス,イギリス,ロシアと外交折衝を行い,オスマン帝国の支配する北アフリカをイタリアの支配下に入れることを承諾させた。イタリアは,1911年9月トルコに宣戦布告してトリポリおよびキレナイカを占領,両地に古来の名称であるリビアの名を与え,翌年のローザンヌ条約でリビア支配権を得た。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イタリアトルコ戦争」の意味・わかりやすい解説

イタリア=トルコ戦争
イタリア=トルコせんそう
Italo-Turkish War

リビア戦争とも呼ばれる。 1911年9月から 12年 10月にかけてのイタリアとオスマン帝国との戦争。イタリアは,アドワの敗戦で植民地獲得に失敗したあと,北アフリカのオスマン帝国領トリポリタニアの侵略計画を立て,挑発によってオスマン帝国との衝突事件を起し,11年9月オスマン帝国に宣戦を布告。イタリア軍のトリポリ砲撃に対し,海軍力をもたないオスマン帝国は陸上防衛軍を組織し,ただちに反撃したが,国際情勢の切迫により早期解決を余儀なくされた。イタリアは 12年 12月のローザンヌ平和条約でトリポリタニア,キレナイカの支配権を確立し,両地を合せてリビアという名にして自己の植民地とした。

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百科事典マイペディア 「イタリアトルコ戦争」の意味・わかりやすい解説

イタリア・トルコ戦争【イタリアトルコせんそう】

伊土戦争,リビア戦争とも。1911年イタリアは英・仏・露の黙認のもとにオスマン帝国に宣戦。北アフリカのトリポリ,キレナイカを次々と占領し,この地域の古名〈リビア〉を復活して支配権を確立した。
→関連項目オスマン帝国バルカン戦争

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旺文社世界史事典 三訂版 「イタリアトルコ戦争」の解説

イタリア−トルコ戦争
イタリア−トルコせんそう

1911〜12年,第2次モロッコ事件のさなかに起こったイタリア・オスマン帝国間の戦争。伊土 (いと) 戦争ともいう
1902年の仏伊協商でトリポリに優越権を認められていたイタリアは,第2次モロッコ事件で国際紛争が発生したのに乗じて開戦。これが第1次バルカン戦争を誘発し,苦境に立ったオスマン帝国は,急いでローザンヌ条約を結び,トリポリ・キレナイカを譲渡した。その後,イタリアは獲得地を古名を採用してリビアと称した。

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