日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリポリタニア」の意味・わかりやすい解説
トリポリタニア
とりぽりたにあ
Tripolitania
北アフリカ、リビア北西部の地中海沿岸にある地方。リビアは3地方よりなり、ほかに東部のキレナイカ、南西内陸部のフェザンがある。大部分が砂漠のこの国で、少ないながら降雨があり、人口が集中している地方である。ほぼ北緯29度以北に位置し、ミスラータ、アルクム、アズザイワヤ、トリポリ、カラヤンの5県がある。面積約35万平方キロメートル、人口約150万。
地形では海岸平野のジェファラ、その背後の標高200~300メートルのジュベル、内陸のなだらかな台地ジブラに区分される。夏は全域とも暑く乾燥するが、冬はジェファラ、ジュベルではやや涼しくなり、10月から3月にかけ200~400ミリメートルの雨が降り、植物は緑を取り戻す。しかしジブラは年降水量200ミリメートル以下で、植生のほとんどない砂漠であり、人が居住するのは湧水(ゆうすい)の得られるオアシスのみである。春から夏にかけ低気圧が地中海を東進すると、砂漠内部から砂混じりの熱風「ジブリ」がこの地方に吹き出す。
[藤井宏志]
歴史
ローマ時代、この地方は「ローマの穀倉」とよばれたが、第一次世界大戦後、数万人のイタリア人移民が送り込まれ、小麦、タバコ、野菜、オリーブ、果樹などを栽培する農園を開いた。現在でも沿岸部はこの国第一の農業地帯である。トリポリでは食品、繊維、ミスラータでは鉄鋼の工業があり、カダメス・オアシスは古くからの隊商泊地として知られる。1551年以後オスマン帝国の支配下にあった。1911年イタリア軍が侵攻し、翌12年キレナイカとともにイタリアの植民地となったが、この地方ではスレイマン・バルーニーを中心にイタリア軍への抵抗運動を行った。第二次世界大戦中の1943年イギリス軍が占領し、軍政下に入った。戦後イタリアはイタリア人が多いことを理由にこの地方の領有を主張し、トリポリタニア住民代表は単一国家としての独立を主張したが、1951年他の2地方とともにリビア連合王国として独立した。
[藤井宏志]