バランス・オブ・パワーの訳語。国際社会の構成員間の〈力power〉の〈過不足ないつりあい〉を指し,その結果,一構成員がその意思を他者に強制できるほど強大になるのを妨げることができる状態として定義されてきた。これは構成員になんらかの制約を課すという点に意義があるといえる。その意味で,近代的統治機構における権力分立(チェック・アンド・バランス)の観念に対応するものといえよう。
勢力均衡の概念は国際政治のあらゆる理論のなかでも最も古く,また最も論争性に満ちたものである。ある大国の世界支配を阻止するために,いくつかの国家が対抗勢力を結集して均衡を保つということは,古代ギリシアやインドにおいても理解され,行われていた。しかし勢力均衡が国際政治のシステムとして自覚され,意識的にその政策が追求されたのは近代ヨーロッパの国家体系nation state systemにおいてであった。F.ベーコン,D.ヒューム,ボーリングブルック卿などイギリスの思想家や政治家は,イギリスの特殊な位置を自覚し,このシステムの利点,その微妙な操作を生かすことによって勢力均衡をその政策目標にすらしていた。同時に,平和をその思想命題としていたルソーやカントからは,王侯貴族の不道徳なスポーツであり,ホッブズ的な戦争状態の継続にすぎないとして非難されていたし,産業と通商の発展が世界の人々を平和のうちに結びつけると考えたR.コブデンは勢力均衡思考を進歩への障害とみなしていた。
勢力均衡は一見単純な概念のようにみえるが,用法上いくつかの問題点を含んでいる。それは勢力均衡が,ほぼ平衡状態を維持している国家間の力関係のパターンを説明する〈システム概念〉として,また政策決定者が意識的にある国家の優越性を妨げたり,主要敵対国間の力の平衡状態を維持する目的で追求する〈価値概念〉として用いられるからである。いずれの場合も,勢力均衡は力の配分に関して当事国に相対的に満足されるような客観的な調整を意味しているといえる。
勢力均衡のシステムが存在し,またそれが政策原理として成立するためには,次の諸条件が必要であろう。(1)文化的同質性 1648年から1789年までと1815年から1914年までのヨーロッパでは,共通の政治文化が存在していたために,価値の対立は生まれず,各国は多かれ少なかれ同一の行動基準を有していた。これは国際的正統性の共通の概念化の可能性を意味する。(2)システムを構成する主要国間の勢力の平衡状態 近代ヨーロッパでは,フランス,ロシア,オーストリア,プロイセン,イギリスの国力はほぼ均衡していたし,イギリスがバランサーの役割を果たしていた。(3)合理的計算にもとづく外交 各国はその国益と国力の合理的な計算の許容範囲内で行動し,システム全体の崩壊を招くような行動をとらない。18,19世紀ヨーロッパでは外交は支配者の特権事項とされ,民主的コントロールは外交面には及ばず,そのため勢力均衡は列強間の政策原理として機能しえた。(4)分割や併合が可能な小国の存在 ヨーロッパの場合,ポーランド分割に典型的にみられる。(5)科学技術ことに軍事技術が比較的に安定していること 航空機の出現による戦争形態の革命は第1次大戦以降のことであった。以上は勢力均衡を数ヵ国よりなる多極システムの特色として述べたものであるが,勢力均衡は2極システムの場合にも適用されるのはいうまでもない。事実,ある国がその敵対国との均衡をはかるべく勢力の増強につとめ,それが成功すれば力の配分が均衡されたといわれることになるが,このシステムではむしろ主要敵対国は相互に同盟網の発展と,中立的な第三者の支持調達に強い関心を寄せるであろう。第2次大戦後の米ソの対立とその陣営獲得競争はその典型例といえよう。
ところで勢力均衡の機能と効果についてほど議論の分かれることも珍しい。勢力均衡のゆえに平和が保たれるという議論があるかとおもえば,勢力均衡は戦争の危険性を高めるといった議論もあるほどである。それぞれに一理あるといえよう。なぜなら勢力均衡が崩れるならば容易に1国の世界制覇を許し,平和が脅かされることになるからであり,他方,勢力均衡を追求する政策は必然的に軍備拡張競争を招き,戦争の原因になりかねないからである。事実は,勢力均衡が平和の装置になりうるのか,また戦争の原因なのかは論証も反証もできないほどに歴史的状況は多様だと思われる。ただいえることは,勢力均衡によって維持される国際関係のシステムが不安定だということである。それは次の理由による。
第1は,勢力均衡は国力の量的測定の可能性を前提にしているが,国力とは人的資源,経済力,科学技術の水準,貿易,軍事力などの測定可能な要素のみか,国民性,政府の質,指導者の政治力などの質的な要素も含まれており,厳密かつ客観的な測定は不可能だということである。それゆえ第2に,どの国家も自国に有利な状況をつねに均衡だとする傾向をもち,それが相互におこなわれるために,諸国家が勢力拡大競争の連鎖に巻き込まれ,結果として国際関係に緊張を生むことになるということである。
こうして,勢力均衡システムはかならずしも平和的なものでも,また小国の独立を保障するメカニズムでもなく,さらに大国にとっても現状維持にはならないで,かえって状況の悪化を招きかねないとなれば,このシステムにどんな利点があるといえるのであろうか。端的にいえば,それは国際関係に穏健さをもたらすシステムだということであり,戦争の場合にでもその目的と手段を限定的なものにするという点にある。軍事力を含む力が文明化されていく過程で操作された近代ヨーロッパにおいて,勢力均衡の概念がその黄金時代を経験しえたのも偶然ではないのである。しかし,20世紀にはいると勢力均衡が機能する条件はいちじるしく少なくなった。兵器の破壊力が戦争を許容させなくなったし,大衆社会の到来は外交政策の決定過程をより複雑なものにさせ,単純に国力と国益の計算だけですむものではなくさせた。しかもイデオロギーの対立が国際関係の対立を根源的なものにして,古典的な勢力均衡システムの成立の余地を奪った。
しかしなんといっても,第2次大戦後における核兵器の出現こそ勢力均衡の意味を根本的に変えたものだといってよい。戦後米ソの恐怖の均衡は明らかに旧来の勢力均衡とは異なる。旧来の〈力〉とはそれが軍事力であれ,経済力であれ,あるいはまた人的資源であれ,領域の防衛ないしは新たな領域の獲得に必要な能力を意味したが,戦後米ソの〈力〉とは敵の抑止がなければ,〈破壊〉にしか意味をもちえないものだからである。勢力均衡はかつては暴力の程度を穏健なものにする働きを有していたが,核時代における抑止の均衡とは絶滅の危機を内在させているのである。しかもこの抑止の均衡では,軍事技術の不断にして突然の革新と核戦争の未経験のゆえに,力の合理的測定をいっそう困難にするのである。いまなお勢力均衡論を国際関係の理論ないし政策として採用する論者は少なくないが,以上のように意味の転換は明白であり,18,19世紀ヨーロッパにみられた古典的な勢力均衡はもはや機能しがたいといわなくてはならない。
→軍拡 →世界政治 →抑止
執筆者:高柳 先男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
共通の権力の存在しない不均質な国際社会で、多数の主権国家がそれぞれの国益を追求しながら、いずれの国家(群)が優越的なヘゲモニーを握ることをも排除し、国際間に均衡を図ることによって相互に攻撃ができないような状況をつくり、国家さらに国際社会の平和と安定に寄与する国際政治上の原理ないし政策を勢力均衡という。
勢力均衡の下では、各国は自国の安全を高めるために軍事力を増強したり、逆に軍縮をしたり、あるいは自由に同盟関係を組み替えることができる。そのタイプには直接的対峙(たいじ)と間接的競合の二つがある。政治技術としての勢力均衡の歴史は古いが、注目すべきは近世初頭以後である。ウェストファリア会議後のヨーロッパ国際社会成立から第一次世界大戦前まで、勢力均衡は、国家主権の概念、国際法の原則とともにヨーロッパ安定の原理として機能した。その理由として、ヨーロッパの主要主体間の力がほぼ同等であったこと、各国の軍事力と政治的意図が限定的であったこと、共通の文化・制度の存在、それにイギリスが「均衡調整者」の役割を果たしたことなどをあげることができる。そのイギリスもヘンリー8世以来の「光栄ある孤立」を捨て、19世紀末にはドイツとの軍備競争に突入し、第一次大戦の勃発(ぼっぱつ)を促した。
現実の国際政治は依然として勢力均衡に依拠している。しかしそれによって国際社会の平和を追求・維持することには問題がある。勢力均衡による平和は現状維持にすぎず、またそれは、国力が計量可能であるという擬制のうえに成り立っているが、現実には各国は均衡ではなく相手の力以上の力を求めようとする。つまり勢力均衡のなかには軍拡のメカニズムが内包され、それはつねに緊張を増幅させ、戦争の原因となる。それゆえ勢力均衡下の平和は、きわめて不安定なものである。第一次大戦後、勢力均衡への批判が高まり、集団安全保障理論が登場したが、国際連盟の失敗に示されているように、勢力均衡にとってかわるものとはなりえなかった。
20世紀に入り、国際政治の舞台の非ヨーロッパへの拡大、技術革新と核の出現、国際主体の多様化などによって、それまでヨーロッパの勢力均衡を支えていた基盤は崩れ、現在、勢力均衡の存立の構造的条件は摩滅したといえる。その意味において、新しいグローバルな安全保障パラダイムが模索されねばならない。
[臼井久和]
『F・L・シューマン著、長井信一訳『国際政治』上下(1973・東京大学出版会)』▽『H・モーゲンソー著、現代平和研究会訳『国際政治』(1986・福村出版)』▽『高柳先男著『パワー・ポリティクス』(1991・有信堂)』
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国際関係において力が適当に分散している状態(勢力均衡の状態)を基本的に維持することにより,圧倒的優位を追求する国家の出現を阻むとともに,自国もまたそのような優位の追求を自制するという行動原理(勢力均衡の原理)をいう。近世ヨーロッパにいくつもの主権国家からなる国際社会が形成されるとともに現れた観念。スペイン継承戦争ののち,ユトレヒト条約の関連文書で,英仏は勢力均衡を平和のために尊重することに同意した。しかし均衡状態の判断基準は曖昧であるから,相互の信頼がない場合には均衡の追求が緊張を高め戦争をもたらす危険がある。第一次世界大戦の際,アメリカ大統領ウィルソンはこの戦争をヨーロッパ諸国の勢力均衡策の破綻とみなし,国際連盟を中心とする国際協調秩序の形成を訴えた。なお国際秩序が比較的安定するのは,勢力均衡ではなく,卓越した力を持つ覇権国(19世紀のイギリス,20世紀後半のアメリカ)が存在する場合だという見方もある。
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…一方経済的には,特恵関税制度を実施(1932),連邦諸国との相互依存関係が強化された。(2)勢力均衡政策 ウィーン会議(1815)から第1次世界大戦にいたる100年間,イギリスは七つの海を支配する海軍力と最先進の経済力を背景にして,〈イギリスの平和Pax Britannica〉を維持した。イギリスが極度に恐れたのは,どの国かがヨーロッパ大陸で絶対的な優勢を確立してオランダ,ベルギーなどの独立を脅かし,反英大陸同盟が結成されることであった。…
※「勢力均衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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