イタリア独立戦争(読み)イタリアどくりつせんそう(その他表記)Wars of Italian Independence

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イタリア独立戦争」の意味・わかりやすい解説

イタリア独立戦争
イタリアどくりつせんそう
Wars of Italian Independence

19世紀中葉,イタリアが独立と統一を求めて,3次にわたってオーストリアと戦った独立戦争
(1) 第1次独立戦争(1848~49) 1848年3月オーストリア占領下のミラノ反乱が生じ,これを救援するために,サルジニア王国はオーストリアに対する戦闘を開始した。カルロ・アルベルト国王を総司令官とするサルジニア王国軍は,緒戦で勝利を収めたものの,7月クストーザの戦い敗北を喫し休戦となった。サルジニア王国は,翌 1849年3月,再度オーストリアとの戦端を開いたが,わずか 3日間で敗北,カルロ・アルベルトは責任をとって退位した。第1次独立戦争は結局,敗北に終わり,イタリアにおけるオーストリアの占領支配を崩すことはできなかった。
(2) 第2次独立戦争(1859) サルジニア国首相カミッロ・ベンソ・ディ・カブールは,列強均衡を利用してオーストリアを孤立化させることに努め,フランス皇帝ナポレオン3世に接近して,1858年プロンビエルの密約を結んだ。フランスとの同盟に成功したサルジニア王国は,1859年4月オーストリアに対する第2次独立戦争を開始し,6月ソルフェリノの戦いで大勝利を収め,7月ビラフランカの和議が結ばれた。この勝利により,サルジニア王国はこれまでオーストリア占領下にあったロンバルディア併合することに成功,イタリアの統一と独立への道が開かれた。1860年サルジニア王国はさらに中部イタリアの諸地域の併合をも果たし,それに続いてジュゼッペ・ガリバルディが独裁政権を樹立した南イタリアにも兵を進めて,イタリアの統一を実現した。かくして 1861年イタリア王国が成立するが,しかし統一と独立が完全に達成されたわけでなく,まだベネト地方はオーストリアの,ローマはフランスの支配下にとどまっていた。
(3) 第3次独立戦争(1866) 1866年6月プロシア=オーストリア戦争勃発に際して,イタリアはプロシア側にくみしてオーストリアを攻め,ベネト地方の奪回を成し遂げた。これでオーストリアに対する独立戦争は終了するが,なおトレンチノ,アルト・アジジェ,ベネチア・ジュリアの諸地域がオーストリア領にとどまり,イタリア・イレデンタ(未回復のイタリア)と呼ばれた。なおローマは 1870年にイタリアの手に戻った。

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世界大百科事典(旧版)内のイタリア独立戦争の言及

【ハプスブルク家】より

…しかしブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高まりのもとで,反動的な官僚主義と啓蒙的な君主思想のはざまにあって悩み続ける。ことに59年のイタリア独立戦争,66年の普墺戦争に敗れてイタリアとドイツから排除されると政策上も中央集権化と諸民族の連邦化との間を動揺する。ドナウ帝国の再建のために67年ハンガリーとアウスグライヒAusgleich(妥協)を行い,オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させるが,犠牲にされたスラブ系諸民族の不満は高まる。…

※「イタリア独立戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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