出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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カルロ・アルベルト
かるろあるべると
Carlo Alberto
(1798―1849)
サルデーニャ国王(在位1831~49)。1815年ごろから反オーストリアの自由主義的青年貴族のグループと友好関係をもち、21年の立憲制を要求するピエモンテ革命に関係する。ビットリオ・エマヌエレ1世の退位で21年に摂政となり、王権を制限する憲法の発布を認めた。だが、新王カルロ・フェリーチェがその憲法を破棄し、カルロ・アルベルトもそれを認めたので、自由主義者に裏切者とみなされた。31年にサルデーニャ国王となり、絶対主義的政策をとり、マッツィーニの指導する「青年イタリア」運動を弾圧した。48年には憲法を発布し、オーストリアに宣戦を布告。敗北後、ビットリオ・エマヌエレ2世に王位を譲り、退位した。決断力に欠け、逡巡(しゅんじゅん)していたことで、「優柔不断王」とよばれる。ただ48年に発布した憲法は統一後も残り、「カルロ・アルベルト憲法」として1946年まで存続した。
[藤澤房俊]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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百科事典マイペディア
「カルロ・アルベルト」の意味・わかりやすい解説
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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カルロ=アルベルト
Carlo Alberto
1798〜1849
サルデーニャ王(在位1831〜49)
フランス二月革命の際,自由主義的憲法を認め,三月革命に呼応してイタリア統一をめざし,オーストリアと戦ったが敗れ,1849年退位し,ポルトガルに亡命。子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が王位を継いだ。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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カルロ‐アルベルト
生年月日:1798年10月2日
サルジニア国王(在位1831〜49)
1849年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のカルロ・アルベルトの言及
【サボイア家】より
…国王ビットリオ・エマヌエレ1世(在位1802‐21)とその後のカルロ・フェリーチェ(在位1821‐31)は復古体制下で猛烈な反動政策をとるが,ピエモンテの近代化は徐々に進む。その後を襲ったカルロ・アルベルト(在位1831‐49)は経済的自由化を推進し,彼の下でサルデーニャ王国は1848‐49年のオーストリアとのイタリア解放戦争を戦い,敗北する。49年即位したビットリオ・エマヌエレ2世は有能な宰相[カブール]を起用して,サルデーニャ王国の急速な経済発展,軍事力の立て直し,外交的立場の強化に成功する。…
※「カルロ・アルベルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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