韓国(大韓民国)の通貨単位。1962年6月に実施された通貨金融措置により、それまでの通貨単位ホワンの10分の1をウォンとして新しい通貨単位とし、新旧通貨の切換えが行われた。ウォンの100分の1をチョンと称する。韓国銀行は中央銀行として、政府の承認のもとにウォン表示銀行券を一元的に発行する。
ウォンの対外価値すなわち為替(かわせ)相場は、1955年に国際通貨基金(IMF)に加盟したあと1米ドル=65ウォンという平価を決めた(1ウォン=約5.5円)。しかし当時は為替管理や資本規制が厳しく、取引の種類によっては別の相場が適用されるという複数相場制度であった。朝鮮戦争後の復興期に、アメリカの援助もあったが、それも減少し、通貨発行量も大幅に伸び、インフレ率は1960年代から1980年代の初めまで2桁(けた)が基調となったため、ウォン相場は割高となって、大幅の切下げが行われた。1961年に127.5ウォンと半分近くになり(同時に複数でなく単一レートとなる)、1964年には257ウォンとさらに半値となった。翌年には政府管理下の弾力的な相場制度になる。
政府は多様な輸出振興政策を打ち出し、かつての日本のように、労働集約的な軽工業品を中心に世界貿易拡大の波に乗って、輸出は伸長し、韓国経済成長の強い牽引(けんいん)力となった。事実韓国は1960年代から21世紀の初めまでおおむね2桁台の高成長を続けてきた。NIES(ニーズ)(新興工業経済地域)の一つといわれたゆえんである。
しかし工業品の輸出が伸びると、その原材料や資材の輸入が増加し、また1970年代に入ってとられた重化学工業化は、輸出の産業構造を変え、輸出振興の体制のなかで輸入増加を誘発し、機械などの資本財や原油などのエネルギー源の輸入依存度を高めた。かくして貿易ないし経常収支はオイル・ショック(石油危機)のあった1970年代は年々赤字となり、その間ウォン相場は継続して下落した。1975年から1979年は、オイル・ショックのはざまで貿易赤字も一時的に減少、経常収支も短期ながら均衡し、長期外資の流入もあり、ウォン相場は484ウォンで5年間安定した。だが、その後貿易収支は悪化し、原油価格の高騰などによる急激な物価上昇で、ウォン相場はまた下落局面に入り、1980年初めでは660ウォンに切り下げ(このときウォンは米ドルだけでなく、一定の通貨を加重して構成した通貨のバスケットに対して、安定した相場を保つという仕組みになった)、さらに1986年平均で881ウォンと6年前の半値となる。
だがこのあと1980年代後半の4年間、輸出が重化学工業を中心に堅実に伸びたこと、オイル・ショックが終わって輸入の増加率が減り、輸出入とも重要な市場である日本の円相場が大幅に上昇したことなどから、貿易収支が初めて黒字となった。インフレ率も大きく下がり、成長率も10%近辺を維持、理想的な状況のなかでウォンは1989年末では671ウォンに上昇した。
[原 信]
1990年3月に韓国は「市場平均相場制度」を採用、市場の実勢を尊重しながら、その変動幅を制限しようとするものであった。前日の国内外国為替市場での取引相場を、その取引額に応じて加重平均したものを当日の中心相場とし、その変動を当初0.4%とした。しかしその幅を1993年10月に1.0%、1994年11月に1.5%、そして1995年12月に2.25%に広げた。
韓国は1995年に先進工業国に仲間入りし、経済協力開発機構(OECD)の一員となった。だが1990年代に入り経常収支は赤字基調となり、それをまかなうため外国銀行などから短期の借入れが増加する状況で、ウォンの対米ドル相場も徐々に下落の趨勢(すうせい)にあった。しかし対米ドル相場の急変を避けるため、前記の仕組み維持に努めた。
タイ・バーツの下落に始まった東アジア諸通貨の危機は、1997年10月に韓国にも伝播(でんぱ)した。アメリカの格付け会社ムーディーズなどが韓国長期債の格下げを行ったことがきっかけで、海外の債権者や投資家の同国経済に対する不信感が広がり、銀行も短期貸出しの回収を急ぎ、そのためウォン相場は大きく下落し、7月初めの888ウォンから同年12月23日の1960ウォンという底値まで55%も落ち込んだ。韓国当局も懸命に市場に介入しウォンを支えようとしたが、同年末では対外短期債務636億ドルに対し使用可能な外貨準備はわずか9億ドル足らずであった。政府はIMF、国際復興開発銀行(世界銀行)など国際援助機関や日本を中心とした13か国から総計583億2000万ドルの支援を得て、多くの政策を条件として受け入れた。
この危機を通じて、ウォンの対米ドル相場を介入で支えようとすると、ウォンは円に対して割高となり、対日輸出が伸びず、全体の収支も悪化し、結局ウォンは下落するという過程がみられた。対日貿易の比重は徐々に減ってはいるものの、無視できない。ウォンと円との相場関係は重要である。
このときの通貨危機は1998年のなかばで一応落ち着き、ウォンも同年末には対米ドル1200ウォン台にまで回復した。しかしIMFの政策指導は厳しく、インフレ率も財政赤字もたいしたことはないのに、同国を結果的に不況に導き、事実同年はマイナス6.7%と1980年以来のマイナスと成長となった。その後経済は回復過程に入り、2007年まで年率5%の成長を継続、経常収支も小規模ながら黒字を維持し、ウォン相場も上昇傾向を続けた。そこで2007年の8月から表に現れたアメリカ発のサブプライムローンに由来する金融危機は金融市場の国際化のもとで被害を世界に拡大させた。韓国もその影響でウォンは2007年7月から2008年末までに30%を超える下落となり、ほかのアジア諸通貨より大きい下落幅を示した。2009年3月末の相場は、1米ドル当り1383ウォンである。株式の下落も同様である。
この危機の前に景気回復の過程にあった韓国の株式や債券の投資が増え、また銀行も国内企業への米ドルを資金源とする貸付が増加していた。これら資金の急激な引上げがウォンの対米ドル相場の急落となった。1990年代の危機もそうであったが、同国の銀行は、在韓外国銀行ももとより、短期貸付の資金源としての預金依存度が他国より低いことが、外国発の危機に大きく影響を受ける一因と考えられる。
2007~2008年の危機は、世界的な資産減価を通じて実体経済に影響を及ぼし、2008年10月、政府は景気対策も含めて、中小企業の救済のため、地方銀行へ150億ドルの資金供給を行い、さらに300億ドルの追加、また国内銀行の外貨借入れに1000億ドルの政府保証を付与すると発表した。世界的不況の進行で、経常収支は赤字に転換しよう。そしてウォン防衛にはかつてタイのチエンマイで合意がなされたようにアジア中央銀行間の協力がますます必要になってこよう。なお、北朝鮮でも通貨単位としてウォンを使用している。しかし、この項目では韓国ウォンについての記述とした。
[原 信]
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