現代外国人名録2016 「ウディアレン」の解説
ウディ アレン
Woody Allen
- 職業・肩書
- 映画監督,脚本家,俳優
- 国籍
- 米国
- 生年月日
- 1935年12月1日
- 出生地
- ニューヨーク市ブルックリン
- 本名
- コニングズバーグ,アレン・スチュアート〈Konigsberg,Allen Stewart〉
- 学歴
- ニューヨーク市立大学中退
- 受賞
- アカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞(第50回,1977年度)〔1978年〕「アニー・ホール」,アカデミー賞オリジナル脚本賞(第59回,1986年度)〔1987年〕「ハンナとその姉妹」,アカデミー賞オリジナル脚本賞(第84回,2011年度)〔2012年〕「ミッドナイト・イン・パリ」,ネビュラ賞〔1974年〕「スリーパー」,ベルリン国際映画祭審査員特別賞(第25回)〔1975年〕「ウディ・アレンの愛と死」,カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞(第38回)〔1985年〕「カイロの紫のバラ」,ゴールデン・グローブ賞脚本賞(第43回,1985年度)〔1986年〕「カイロの紫のバラ」,ベネチア国際映画祭特別功労賞(第52回)〔1995年〕,D.W.グリフィス賞〔1996年〕,ゴールデン・グローブ賞脚本賞(第69回,2011年度)「ミッドナイト・イン・パリ」
- 経歴
- ユダヤ移民の3代目として生まれる。大学時代からギャグ作りに励み、雑誌に短編小説やコントを書く。ボブ・ホープなど有名タレントのギャグを作りコメディ作家として認められ、1961年ニューヨークのナイトクラブでスタンダップ・コメディアンとしてデビュー。’65年「何かいいことないか子猫チャン」で脚本家兼出演者の一人として映画界にデビュー。’66年には劇作家としてブロードウェイに進出。’69年「泥棒野郎」で初めて監督・脚本・主演をこなし、メガネの小男で、ドジばかりふむ社会のはみだし者というキャラクターを確立。以来、その特異な才能により、主演、脚本、監督、また作家として縦横に活躍する。’77年「アニー・ホール」で現代人の心情や風俗を的確に描いてアカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞を、’86年「ハンナとその姉妹」で脚本賞を受賞。大都会ニューヨークを舞台にした軽妙で洒脱な作品が多い。他の監督作品に「スリーパー」(’73年)、「ウディ・アレンの愛と死」(’75年)、「マンハッタン」(’79年)、「カメレオンマン」(’83年)、「カイロの紫のバラ」(’85年)、「ラジオ・デイズ」(’87年)、「ウディ・アレンの重罪と軽罪」(’89年)、「夫たち、妻たち」(’92年)、「ブロードウェイと銃弾」(’94年)、「マッチポイント」(2005年)、「タロットカード殺人事件」(2006年)、「ウディ・アレンの夢と犯罪」(2007年)、「それでも恋するバルセロナ」(2008年)、「ミッドナイト・イン・パリ」(2011年)、「ブルージャスミン」(2013年)、「マジック・イン・ムーンライト」(2014年)、ドキュメンタリー映画「ワイルド・マン・ブルース」(1998年)、出演作品に「ボギ!俺も男だ」(’72年,原作と脚色も)、「ザ・フロント」(’76年)などがある。また、“Woody Allen and his New Orleans Jazz Band”を率い、クラリネット奏者として、ニューヨークのマイケルズ・パブでライブを行う。著書に「これでおあいこ」(’71年)、「羽根むしられて」(’76年)など。女優のダイアン・キートンとは’70年代に交際し、数多くの作品で共演。’80年代の恋人ミア・ファローとは、結婚も同居もしないカップルとして有名であったが、’93年3月には子どもの養育権をめぐる裁判が起こり、大スターの愛憎劇が全米の話題となった。’97年12月ミア・ファローの養女スン・イーと結婚。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報