イギリスの詩人、小説家、劇作家。1854年10月16日、アイルランドのダブリンに生まれる。ダブリンのトリニティ学寮からオックスフォード大学に学び、古典に優秀な成績を得て卒業した。おりから『ルネサンス』(1873)によって新しい審美主義的芸術観・人生観を唱道したW・ペイターの影響を受け、この本は彼にとって生涯の「黄金の書(ゴールデン・ブック)」となった。若くして華々しい才気とはでなふるまいによって世間の注目を集め、当時復興の兆しのあったダンディの典型の1人として世紀末の社交界に君臨した。その結果、伝統的ビクトリア朝に属する側からの激しい指弾に耐えねばならなかったが、これはロンドンで有名になろうとする彼の計画的行動でもあった。彼が「作品には才能を注いだが人生には天才を捧(ささ)げた」といわれるのもこの点で、当意即妙の洒落(しゃれ)と警句にあふれる喜劇は多数の観客を集めて成功したが、それ以上に座談・講演の名手としての彼は社交界の花形であった。1895年、同性愛的性癖が原因でクインズベリ侯との訴訟に敗れ、2年の実刑ののちイギリスを逃れて悲惨のうちにパリに死んだその生涯は、人生と芸術に対する彼の姿勢の当然の帰結であったともいえよう。
1881年の『詩集』を皮切りに88年には童話集『幸福な王子・その他』が出たが、これは84年に結婚した彼が息子たちのために書いたといわれ、彼の優しさと当時の社会に対する風刺とにあふれた傑作である。よきにつけ悪(あ)しきにつけ一躍彼の文名があがったのはゴシック風のメロドラマ小説『ドリアン・グレイの肖像』(1891)によってであって、「書物に道徳的も不道徳的もない。よく書けているか否かだけが問題なのだ」という序文の主張は、雑誌に発表当時世間の非難の的となった。以来、批評集『意向集』(1891)、小説集『柘榴(ざくろ)の家』(1891)など相次いで発表したが、彼の座談の才能が惜しみなく発揮されたのはむしろのちに書かれた『ウィンダミア夫人の扇子』(1892)、『サロメ』(1893。初めフランス語で書かれ、アルフレッド・ダグラスの英訳は1894年)、『真面目(まじめ)が大切』(1895)などの劇であった。これらは風習喜劇に属する19世紀の代表的作品で、軽妙洒脱で逆説を駆使する会話のおもしろさは、他の追随を許さぬ独壇場である。2年の刑期を終えたあとは、獄中で書いた匿名の詩『レディング監獄のバラード』(1898)、獄中からアルフレッド・ダグラスに書いた弁明の書『獄中記』(1905)などがある。これらを高く評価するむきもあるが、ここに表白された「打ちのめされた」ワイルドの感傷性よりも驕慢(きょうまん)に生きたダンディこそが彼の真骨頂であって、同性愛に対する社会的禁忌が緩んだ今日、倫理的批判を離れた再評価がなされて当然であろう。出獄後フランスへ移り、1900年11月30日パリで没。
[前川祐一]
『西村孝次訳『ウィンダミア卿夫人の扇』(新潮文庫)』▽『田部重治訳『獄中記』(角川文庫)』▽『『ユリイカ――ワイルド特集』(1976・5月号、1980・9月号・青土社)』▽『西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集』全6巻(1988~89・青土社)』
イギリスの詩人,小説家,劇作家。オックスフォード大学在学中から,W.H.ペーターの唯美主義やJ.ラスキンの芸術観に強く影響を受け,機知と才気を存分に発揮して詩作にふけった。卒業後ロンドンに出て社交界の人気者となり,芸術至上主義を身をもって実践する才人として,多くの若者のあこがれの的であったが,逆にそのきざな言動は嘲笑の的にもなった。W.S.ギルバート作詞,A.S.サリバン作曲の喜歌劇《ペーシェンス》(1881)の中で,ワイルドは徹底的に戯画化されている。私生活では,クイーンズベリー侯爵の息子アルフレッド・ダグラスと同性愛の関係を結んだが,これが表ざたとなり2年間レディング監獄に収容された。1897年釈放後フランスに移り,パリで死亡した。彼の作品は多分野にわたり,それぞれ高い水準に達している。詩は若いころ才気あふれる作品を発表したが,1898年発表の《レディング監獄の歌》は彼の最後の芸術的創作であり,心境の変化を物語っている。小説では《ドリアン・グレーの肖像画》(1891)が道徳に煩わされぬ芸術観を宣言しているが,《幸福な王子》(1888)などの童話も無視できない。批評論集《意向集》(1891)は,逆説やレトリックに満ちあふれ機知豊かな文体で有名となったが,批評を一つの芸術活動として認めている点で,近代批評の出発点とみることもできる。しかし,彼の才能が最もよく発揮されているのは,その劇作品である。彼の唯美主義が如実に示されている《サロメ》(フランス語で書かれ1893年パリで出版。英訳は翌年発表),機知にあふれた風俗喜劇《ウィンダミア夫人の扇》(1892初演),《誠こそたいせつ》(1895)など,イギリス,アメリカのみならず各国の劇壇でいまなお上演されている。ほかに《社会主義下における人間の魂》(1891),獄中からダグラスにあてた手紙の形をとる《深淵より》などが重要な著作である。
日本では大正時代から新劇運動に大きな影響を与えたほか,谷崎潤一郎など〈耽美派〉の文学者の多くがワイルドに心酔した。
執筆者:小池 滋
イギリスの盗賊。田舎で徒弟人として働いていたが,ロンドンへ上り,泥棒の組織をつくりその首領となった。盗品を処理する店を開き,盗品を所有者の要求にも応じて売りさばいた。一方では警察とも通じ,自分に従わぬ盗賊は容赦なく警察に売り渡した。しかし最後には捕まり,絞首刑に処せられた。デフォーやH.フィールディングが彼をモデルにした実録または小説を書いている。
執筆者:榎本 太
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1854~1900
イギリスの作家,劇作家。アイルランドのダブリンの出身。ロンドンの社交界の寵児となり,芸術至上主義を唱え,耽美的な作風でヴィクトリア朝の価値観に反逆した。同性愛で投獄され,パリで死去。代表作に『サロメ』など。
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…たとえば,有名な怪盗ジャック・シェパードJack Sheppardが1724年11月16日に処刑されたときは,刑場のタイバーン(ロンドン西部)は約2万の見物客で埋まり,ニューゲート監獄から引回しの行列が通る目抜き通りのフリート街,ホーボーン街は,着飾った貴婦人,紳士からぼろぼろの下層民まで,人波で身動きできない混雑だったと伝えられる。物売りは店を出し,罪人,事件についてのパンフレットなどが売られ,J.ゲイ著《三文オペラThe Beggar’s Opera》のモデルの一人となる悪漢ワイルドJonathan Wildなどは見物人が投げつけるように,死んだ犬,猫,ネズミ,腐った卵などをロンドン中から集めて売りつけたようで,それは完全に観客参加の総合ショーと化していた。タイバーンでの処刑は1783年廃止されるが,かわって19世紀半ばまで処刑の行われたニューゲート監獄の門前には群衆が処刑を見に集まった。…
…
[文学]
オリエントの王女と聖者という人物の組合せ,舞と断首という異常な事件,異国趣味と神秘的な幻想的背景などが文学者たちの空想を刺激し,ハイネは長詩《アッタトロール》,フローベールは小説,マラルメは詩《エロディアード》,ユイスマンスは《さかしま》を書いた。O.ワイルドは一幕劇《サロメ》(1893)で,恋心から聖者の首をはねて口づけし,盾の下に圧死する王女像を定着させた。ワイルドのこの作品はイギリス本国では宗教上の理由で上演禁止され,初演はパリのテアトル・ド・ルーブル(1895),本国での上演は1905年であった。…
…R.G.シュトラウスの第3作目の1幕のオペラ。O.ワイルドの同名の戯曲(ドイツ語訳,H.ラハマン)に基づく作品で,1905年,ドレスデンのオペラ座で初演され,その初演は,官能的で頽廃的な筋書と絢爛豪華なシュトラウスの音楽によってセンセーションをまきおこした(日本初演1962)。物語は聖書の記述を背景にくりひろげられ,ヘロデ王の義理の娘サロメが,預言者ヨカナーン(ヨハネ)に恋し,《七つのベールの踊り》を踊って,幽閉されているヨカナーンの首を手に入れるというもの。…
…イギリスの作家O.ワイルドがアルフレッド・ダグラスとの同性愛の罪で1895‐97年に投獄されたおりに,獄中からダグラスにあてた手紙の形式をとって書いた告白録。削除版は1905年,完本は49年に出版。…
…このような状況の中で,一方には依然として人間社会の進歩・発展を信じる根強いオプティミズムが支配的であったが,しかし同時に他方では,19世紀の精神界に底流としてあったいくつかの傾き,たとえば,バイロンやハイネ,ミュッセ,レオパルディなどのロマン主義における〈世界苦〉の思想と文明へのペシミスティックな懐疑,あるいはポーやボードレールに典型をみた俗流市民モラルへの嫌悪・反発とみずからをそれから区別するダンディズム,さらにはニーチェがワーグナーの音楽の中にみた官能的陶酔への意志といったものが,急速に人々をとらえていった。 より具体的には,文学におけるユイスマンスの《さかしま》(1884)やO.ワイルドの《ドリアン・グレーの肖像》(1891)などの主人公がモデルといえる。ともに感覚と神経が敏感で,洗練性,優雅さ,並外れていることに熱中し,たえず精妙な審美的刺激を求め,人工楽園じみた夢想の世界に閉じこもりたがるのである。…
…のちのデカダン派の作家や画家が手本としたような,〈ファム・ファタル(宿命の女)〉たるサロメへの共感や,両性具有的な倒錯への好みや,スフィンクスや宝石や香料や蘭の花や,中世趣味や,ビザンティン趣味や,サディズムや悪魔学や神秘主義や人工性の賛美についても語られている。O.ワイルドの《ドリアン・グレーの肖像》も,この《さかしま》なしには成立しなかったろうといわれている。 1886年,バジュAnatole Bajuが象徴派初期の機関誌《デカダン》を創刊したが,これにはベルレーヌ,マラルメの両大家をはじめとして,R.ギル,ラフォルグ,メリルStuart Merrill,タイヤードLaurent Tailhade,ロランJean Lorrainなども寄稿している。…
… また近代文学の大家たちの男色傾倒は壮観というほかない。プラトンを教皇としソクラテスを使節とする善なる教会の従僕であることを誇ったP.ベルレーヌとその相手のJ.N.A.ランボー,民衆詩人W.ホイットマン,社会主義運動にひかれた詩人E.カーペンター,男色罪で2年間投獄されたO.ワイルド,S.ゲオルゲなどがとくに知られているが,彼らばかりではない。ゲーテは《ベネチア格言詩》補遺で少年愛傾向を告白し,A.ジッドは《コリドン》で同性愛を弁護したばかりか,別の機会にみずからの男色行為も述べ,《失われた時を求めて》のM.プルーストは男娼窟を経営するA.キュジアと関係していた。…
…つまり,文芸批評とは,一人の文学者がアクチュアルな文学状況を呼吸しつつ,ある作家ないし作品について行う演奏であり,この批評=演奏はその外延において文学史および文芸学と混じり合うが,対象の価値を発現させながら演奏自体が価値的であろうとするものである(ただし,価値にかかわっていることを自覚し,みずからも価値的であろうとする点において,文学史,文芸学と截然と区別される)。こうした文芸批評の最右翼に位置するのが,〈個々の芸術作品のみならず,美そのものを批評して,芸術家が未完成のまま残しておいた,あるいは自分では理解しなかった,あるいは不完全にしか理解しなかった一つの形式をみごとに満たす〉ものこそ最高の批評であり,したがって最高の批評は〈創作よりも創造的〉とするO.ワイルドの立場である。批評における方法の問題も,批評が価値発現の演奏であるということから生起してくる。…
…存在するということだけが,この絵の存在理由だ〉と絶賛した言葉が,唯美主義を端的に示している。印象批評を確立したW.ペーター,その弟子ワイルド,ワイルドの《サロメ》の悪魔的な妖美の挿絵で知られる画家ビアズリーの系譜からもわかるように,唯美主義は世紀末に向かうにつれ反社会的な退廃美との結びつきを深める。万国博覧会の発展と機を一にしているが,唯美主義は19世紀の楽天的進歩思想に抗した動きであったといえよう。…
※「ワイルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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