翻訳|Barcelona
1899年創設。スペイン1部リーグ初代王者で通算26度優勝し、欧州CLは前身を含めて5度制覇。愛称はユニホームの色からブラウグラナ(青とえんじ色)で胸スポンサーは楽天が務める。本拠地カンプノウは約10万人を収容。久保建が所属するレアル・マドリードとのライバル関係は有名で、両者が対戦する「クラシコ」は世界から注目される。
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スペイン北東部,カタルニャ地方の主都。人口150万(2001)。人口は同国第2位ながら,地中海でも有数の港を有し,同国随一の工業・商業都市である。かつてのバルセロナ伯国の主都としてシウダード・コンダルCiudad Condalと呼ばれる。
ティビダボ山(512m)の麓から地中海沿岸へ延びる小平原に位置し,東西両端をジョブレガート川,ベリース川の両河川に挟まれているが,現在では都市化の波はティビダボ山,両河川を越えた郊外にまで及んでいる。西方のアラゴン地方および中央のカスティリャ地方との交通・通信はジョブレガート川の西側に展開する山地とその先のエブロ川の峡谷によって困難であったため,バルセロナは歴史上,スペインの地中海への窓口というより,むしろ地中海都市あるいはカタルニャ地方の中心都市として存在してきた。
バルセロナが発展したのはローマ時代である。第2次ポエニ戦争(前218-前201)を契機に到来したローマ人は,現在大聖堂と旧市街地区がある標高13mの小高い丘に町を建設し,当時はバルキノBarcinoと呼ばれていた。3世紀後半になるとゲルマン民族の一団が侵入して来たために,同世紀末から4世紀初頭にかけて住民は市壁を巡らせ防戦した。ローマ時代に住民の大多数はキリスト教に改宗し,4世紀には最初の大聖堂が完成した。414年,バルセロナは西ゴート王国の版図に入ったが,718年にはイスラム教徒に征服され,重要な戦略基地となった。しかし,キリスト教徒はフランク王国のカール大帝の子息ルドビーコ・ピオの援助を得て,奪回に成功した(803)。この結果,バルセロナはフランク王国の支配下に入り,バルセロナ伯領の中心都市になった。9世紀末にはバルセロナ伯ビフレドを中心にフランク王国の影響力を排除し,バルセロナ伯国として独立を達成する。その後,10世紀末にアルマソール(マンスール)の率いるイスラム教徒軍に一時占拠されたものの,総じてバルセロナは繁栄を享受し,ロマネスク時代の到来を迎えた。
自主独立の気概を有したバルセロナ住民が11世紀の間に力を注いだのは交易活動であり,これは後にアラゴン連合王国が地中海における広大な版図を築く礎となった。また,この頃の交易活動にはユダヤ人の一団も参画していた。伯王ラモン・ベレンゲール1世の時代には,金貨の鋳造や封建時代の慣習をまとめた〈カタルニャ慣習法典〉の編纂事業が行われた(1068年に原形が完成)。この慣習法典は,その一部が現在にも引き継がれ,また後に公布されたカタルニャ地方固有の公法および私法のもとになった。このほか11~12世紀のバルセロナは,公共の制度やサービス(病院,癩療養所,宿泊所,郵便サービス組合など)が整い,旅人が賞賛するほどであった。
アラゴン連合王国成立(1162)後,バルセロナはハイメ1世の時代に,4人の議員と8人の補助委員から成る市会を中心とした市政を確立した(1248)。また,同国王は旧市壁の外へ膨張した市街地を防衛する目的で新たな市壁を築いている。続くペドロ3世は前述した慣習法典に基づく私法を体系化し,とくに王権に対するバルセロナの自治を承認した条項は,他の諸都市の法制に影響を及ぼした。またペドロ3世の時代には,シチリア島の征服(1282)とナポリ王国併合への足場固めが行われ,アラゴン連合王国の地中海制覇が開始されるとともに,地中海が〈カタルニャの海〉と化していく契機となった。このような13世紀後半から14世紀にかけての地中海における勢力拡大は,ローマ教皇庁やフランスとの対立を招く一方,農民や大衆の社会的・経済的不満が鬱積し,15世紀の半ばにはバルセロナで社会緊張が高まった。しかし,15世紀後半から16世紀のバルセロナは,フェルナンド2世の外交・内政両面における巧みな政策により,平穏を取り戻した。またカルロス1世(カール5世)とカタルニャは非常に親密な関係を保ち,国王自身もたびたびバルセロナに滞在した。
17世紀になると,それまで国王が諸都市の自治を承認した上で維持されていた国王と諸都市との協調関係を突き崩す二つの危機が訪れ,ひいては19世紀末からのカタルニャ地方とマドリードの中央政府との対立を生じさせる起因となった。最初の危機はオリバレス伯公爵の中央集権化政策に反対した1640年のカタルニャの反乱であり,2番目はスペイン継承戦争(1700-14)である。継承戦争に勝利してスペイン国王となったブルボン家のフィリップ(フェリペ5世)は1716年に〈国家基本令〉を発布して,バルセロナの自治制度を否定した。このような政治的側面とは対照的に,18世紀を通じてバルセロナは織物産業の発展による活気に満ちていた。さらに78年,それまでカスティリャが独占してきた中南米との交易権を,カルロス3世がスペイン全土へ付与したため,カタルニャも地中海から大西洋へ移行していた世界交易に乗り出し,バルセロナはその主要港として,13~14世紀の全盛期に劣らない繁栄を享受した。その結果,経済発展したバルセロナへ職を求めて国内移民が流入し,人口は1717年の3万7000から87年の9万2385へと急増した。
19世紀になると,スペイン独立戦争(1808-14)や自由主義体制への移行により,バルセロナの経済は一時停滞した。しかし,織物産業への蒸気機関の導入という技術革新により窮地を脱し,人口も1860年には18万9950に達した。近隣の市町村も移民の流入によって人口増加をきたしているが,とくにバルセロナは肥大し,1859年ごろすでに市域は手狭になったため,住居・工場の周辺への拡散が始まった。都市計画に従って,市壁は撤去され,さらにチェスの盤面のような縦横に交差する街路と,北東から南西へ,また北西から南東へ斜めに交わる街路が整然と並び,狭く曲がりくねった街路が続く旧市街地(ゴシック地区)とは鮮やかな対照を示している。
このような経済発展と移民の流入は,他方で社会的・経済的不平等を生んだ。1909年にはモロッコ事件を端緒とした一般大衆の反軍行動がわき上がり,〈悲劇の一週間事件〉と呼ばれる大騒擾事件が起きた。さらに,第1次大戦では,中立政策に伴う軍需景気で活気を呈したものの,この〈偽り〉の繁栄は一方で貧富の差を増大させ労働運動のテロ化を,他方では大戦後,経済基盤の脆弱(ぜいじやく)さを露呈し,バルセロナ銀行の破産にみられる金融危機を招いた。このような状況を背景に,19世紀末からバルセロナを中心に燃え上がったカタルニャ地方主義運動の主導権がブルジョアジーから左派の掌中へ移って急進化し,イギリス型の二大政党制に基づく立憲君主制を意図した当時の国家体制(1876年体制)と鋭く対立した。そうした中で,1923年,カタルニャ管区総司令官の職にあったプリモ・デ・リベラ将軍は,バルセロナでクーデタを起こし,独裁政を樹立した。独裁政崩壊後の31年の自治体選挙に勝利した反王政派は,バルセロナでは首都マドリードよりも数時間早く,第二共和国成立を宣言した。スペイン内乱では,バルセロナは共和国陣営にくみしたが,39年1月26日国民戦線の前に屈した。内乱の結果,人口は1930年のレベルに下がり,莫大な富の損失を招いた。
50年代からバルセロナの経済活動は再び復活し,67年には人口が173万8500に達したが,石油危機以降は伸び率が緩慢である。バルセロナは近隣の諸都市や市町村と有機的に結ばれ,71年には都市圏人口は265万を数え,経済活動や社会生活の点でマドリードを上回っている。1961年3月には経済政策および租税制度に関して,中央政府の方針を逸脱しない範囲で独立した権限をもつ特別指定都市に定められた。
文化面については5000名を収容し世界でも有数のオペラ劇場であるリセオ劇場,1450年にアルフォンソ5世によって創立されたバルセロナ大学,古くからの活発なジャーナリズム運動の伝統を引く多数の出版社など,スペインで最も活況を示す文化都市といえる。
執筆者:フアン・ソペーニャ
大聖堂(サンタ・エウラリア)はローマ時代のフォルムの跡に建立され,回廊付きで13世紀末~14世紀に再建された。北方ゴシックとは異なり,同じ高さの3廊を備え,飛迫(とびぜり)アーチの代りに,側廊の両側に並ぶ礼拝堂群が支える。海に近いサンタ・マリア・デル・マル教会も同じ構造をとる。中世に地中海貿易で栄えた港町にふさわしく,最古の部分が13世紀末にさかのぼる造船所や14世紀の商館も残る。後者の大広間は高いアーケードと大胆な集合柱によって3廊に分けられ,世俗建築が大聖堂に範をとった一例をなす。ゴシック地区の市立歴史博物館は地下にローマ時代の遺跡を残し,そこから地下でつながるマレース美術館は古代・中世彫刻などを集める。モンジュイクMontjuich丘のカタルニャ美術館は,タウルTahullほか当地方のロマネスク教会から移した壁画で知られる。A.ガウディによるサグラダ・ファミリア教会(建造中)と市内を見下ろすグエル公園が,奇抜な形態と多色の陶板とできらめいている。ピカソ美術館,ミロ美術館もある。
執筆者:五十嵐 ミドリ
モデルニスモModernismoは,アール・ヌーボー,ユーゲントシュティールと同様に,世紀末様式を指すスペイン語であるが,同時期(1890-1910)のスペインで最も前衛的であったバルセロナでは,反中央的な民族意識の高揚を目ざす〈カタルニャ・ルネサンス〉運動と一致し,あらゆる分野においてカタルニャ人のアイデンティティを求める運動を意味した。なかでも最大の成果を収めたのが芸術分野,とくにブルジョアたちに支持され,市域の拡大期とも一致した建築で,孤高の天才ガウディのみならず,ドメネック・イ・モンタネール,エンリケ・サグニエール,プッチ・イ・カダファルクらが活躍し,ゴシックの町バルセロナを一新した。装飾芸術も建築とともに栄えジュジョールなどが活躍した。絵画も1890年ころから,関心の対象をそれまでのローマ(ナザレ派)からパリに移し,画家,作家でモデルニスモの推進者ルシニョルSantiago Rusiñol(1861-1931)を中心に,印象派以後の国際的な潮流の吸収に努めた。前衛運動の中心地となったビヤホール〈エルス・カトレ・ガッツEls Quatre Gats(4匹の猫)〉には,ルシニョル,カサスのほかウトリリョ,カマラサ,ノネイ(ノネル),ミール,スニエルら多種多様な傾向の画家たちが集まっていた。年若いピカソが前衛芸術への第一歩を印したのもこのグループとの接触によってであった。カタルニャのモデルニスモを推進した雑誌・新聞には,《ルネサンスLa Renaixença》《青春Joventut》《前進L'Avenç》《前衛La Vanguardia》《カタルニャ日報Diari Catalá》《形象Forma》《頭髪と羽毛Pel y Ploma》などがある。
→カタルニャ
執筆者:神吉 敬三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
スペイン北東部、カタルーニャ地方バルセロナ県の県都。人口150万3884(2001)は、首都マドリードに次いでスペイン第2位であるが、港湾の規模と商工業活動では第1位の産業都市。大司教座所在都市で、1450年創立のバルセロナ大学もあり、カタルーニャの宗教、文化の中心地でもある。市街は地中海岸に沿い、ティビダボ山(532メートル)を最高点とする丘陵に背後の三方を囲まれる。旧市街は港を中心に半円形に展開し、スペイン・ゴシック様式の大聖堂(13世紀)を中心とする一画はゴシック街とよばれる。この西側を南北に中心街ランブラス(いくつかの大通り(ランブラ)が連続する)が走り、銀行、商社、高級専門店などが並ぶ。通りの南端、港に近いプエルタ・デ・ラ・パス広場に、この地で死んだコロンブスの像が建つ。旧市街の外側を半円形に囲むロンダスとよぶ大通りは、アラゴン王国の時代に築かれた城壁を1860年に取り壊した跡である。これより外側は新市街で、格子状に整然と計画された広い道路が敷かれ、屈曲した狭い道路の旧市街と対照的な景観をみせている。
新市街は20世紀に入り、南西のリョブレガット川および北東のベソス川、さらにその東方へと発展した。鉄道、主要道路も両河川の谷沿いに延びている。近代的設備の整った港を中心とする海岸部は重工業地帯で、金属、自動車、航空機、電気機器、化学などの工業が立地する。木綿や羊毛、人造の繊維工業や製紙工業は、リョブレガット川の谷に立地している。工業発展による急速な人口集中により、1953年に地域計画がたてられ、バルセロナ大都市圏が定められた。1974年には27市町村を含む大都市圏自治体が設けられ、新しい地域編成がなされ、飽和状態にある工業地帯の再開発、工業の地方分散が図られている。1992年には第25回夏季オリンピック大会が開かれた。
経済的・文化的繁栄を背景に固有の慣習法や公共制度などを擁し、とくに13世紀には王権に対する自治を確立していたバルセロナは、市民自治の伝統、固有の言語(カタルーニャ語)・文化をもち、スペインの先進地域の中心都市として発展した。
[田辺 裕・滝沢由美子]
紀元前3世紀にカルタゴが植民市を建設したことに始まる。カルタゴの名家バルカ家にちなんで、植民市はバルシノBarcinoとよばれた。古代ローマ、西ゴート人、イスラム教徒の支配を受けたのち、紀元後803年フランク王国がイスラムの手からこの地を奪った。9世紀末にフランクから独立してバルセロナ伯領となり、12世紀なかばにアラゴン王国と合併、そのもとで商工業が発展し、1283年に都市特権を得た。アラゴン王国の対外進出に伴い、地中海のみならず大西洋側ヨーロッパ各地に商務館を設け、貿易圏を飛躍的に拡大した。しかし、15世紀に至って黒死病の蔓延(まんえん)により人口が激減し、経済は衰退した。1463年から10年間にわたって反王権の都市反乱が、さらに1640年には財政負担強化を図った王権に対して、フランスの支援を受けた独立反乱が起こった。また、1701年に始まったスペイン継承戦争ではハプスブルク家カール大公を支持したため、ブルボン家フェリペ5世の勝利後、都市特権を剥奪(はくだつ)された。
18世紀後半に新大陸貿易が自由化されてふたたび商工業が活況を呈し、独立戦争やカルリスタ戦争などで一時停滞したものの、スペイン第一の工業都市となっていった。これと並行して労働者運動が活発となり、1855年に繊維労働者を中心に、スペインで最初のゼネストが行われる。社会主義の強いマドリードとは対照的に、以後はアナキズム、アナルコ・サンジカリズムの拠点となった。19世紀末におこったカタルーニャ自治運動も加わり、20世紀には左翼運動の砦(とりで)、社会運動のるつぼと化す。1909年の徴兵反対ゼネストや大規模な教会焼打ち、1931年のマドリードに先んじた共和政宣言、1934年の中央政府に対するカタルーニャ自治政府の反乱など、政治史のうえで重要な役割を果たした。1936年のスペイン内戦では反乱軍の鎮圧に成功し、1937年には中央政府がここに移され、内戦末期まで共和国側の支配地域であったが、1939年フランコ側に占領され、内戦は事実上終結した。
[中塚次郎]
『樺山紘一著『カタロニアへの眼――歴史・社会・文化』(1979・刀水書房)』
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スペイン北東部カタルニャ地方の中心都市。801年フランク王権が再征服。バルセロナ伯がカタルニャ諸伯領を統合したため,カタルニャ公国の首都として発展。13世紀半ば百人会議による自治を確立。13~14世紀に地中海貿易で栄え,アラゴン連合王国の地中海進出の拠点となった。18世紀から綿工業が発展し,スペイン第1の産業都市となる。モダニズム芸術運動と労働運動の拠点であり,スペイン内戦ではフランコに激しく抵抗。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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